出会う前の君
屋上の扉が見えてきたところで、騒がしい声が聞こえてくる。山田の大きな声に負けない白雲の声からして、やはり防人も、もう来ているのだと分かった。何をこんなに大騒ぎしているのかと思いながら扉を開けると、何かを取り返そうと必死になっている彼女が最初に彼の視界に飛び込んできた。
「何してんだ?」
「あ、相澤先輩……!」
さぁっと顔を青くした防人は、もう来てしまったのかと慌てている。
「こ、こっち来ちゃダメです!」
「んなこと言うなって。ほら、こっち来いショータ! いいもんあるぞ!」
来るなという彼女と、早く早くと急かす白雲に自分はどうすればいいのかと考えてから相澤はとりあえず屋上の中に一歩踏み出した。
「ほら、それ見てみろ」
投げ渡されたのは100円ショップで売られているようなペラペラのフォトアルバム。それをしっかりと受け取った相澤を見て、防人は"あああ……"と言いながら両手で顔を覆って膝をついた。そんな彼女の肩を山田が"ドンマイ"と叩いて慰めている。
一体何なんだと思いながら、相澤はフォトアルバムを開く。そこには当たり前だが写真が納められていた。衝撃だったのはその中身だ。
「……!」
「な? ショータには特別いいもんだろ?」
ニカッと眩しく笑う白雲とは対照的に、彼女は顔を覆ったまま動かない。さらさらとした長い黒髪の間から覗く耳も真っ赤になってしまっている。
これは確かに恥ずかしいだろうと相澤にも簡単に想像がつく。しかし、どうしてもフォトアルバムを閉じてやることが出来ない。
「……これ、どうしたんだ?」
理由の分からない恥ずかしさで僅かに頬を染めた彼は、もう一度アルバムの写真に目を落とす。そこには、頭に猫耳を生やした防人が写っている。着ている制服からそれが中学時代のものだと言うのが分かった。
「この前、防人と同じ中学出身だっていう知り合いからもらった」
口を大きく開けてニィっと笑っている山田に、防人が涙目で頬を膨らませる。
「だからってなんで相澤先輩に見せるんですか! 酷いです!」
「……なあ、ショータ。お前、いつもあんな可愛いの見てんの?」
彼女に上目で睨まれている山田は珍しく赤面していた。怒っていても可愛らしいことなんて分かっている相澤は、それがあまりにも面白くなくてムスッとした表情になる。
「俺は桜を怒らせたりしない」
しないからこそ、あんな風に怒って頬を膨らませている様子なんて見たことがない。なんで俺も知らない表情を山田が見られるんだと、相澤がモヤモヤしていたときだった。
「あ、次の写真なんかベストショットだぞ」
フォトアルバムを覗き込んできた白雲が勝手にページをめくる。それを見た防人は、ひっと短い悲鳴を上げて相澤たちの方へと向かってきた。
「ちょ、ちょっと、本当にそれはダメですって!!」
「まあまあ、落ち着けって防人」
ぐいっと山田に肩を掴まれてしまった彼女は写真を隠すことができず、相澤にしっかりと見られてしまった。
彼女が隠したかった写真を目にした相澤はみるみる顔を赤らめていく。写真の中の防人は先ほどのものと同じように猫耳を生やして、左右に垂らしておさげにした髪を青いリボンで結んでいる。そして、何よりも目を引くのはメイド服を着ているところだ。
「ほら、これなんかいいよな!」
友達と二人で、軽く握った手で手首を丸めている、所謂にゃんポーズをして笑っている彼女の写真を指す白雲に思わず相澤は頷いてしまう。
「もうやめてくださいってば!」
ついに怒った防人の個性によって、相澤の手からフォトアルバムが宙に浮く。最初からこうすればよかったとばかりに、彼女はそれを抱きしめるように隠す。
「悪かったって。そんなに怒んなよ」
「知りません!」
ふん、とそっぽを向いてしまった彼女に、白雲がへこへこと謝りだした。山田も同じように謝っているが、防人はつん、として顔を背けている。
自分も謝った方がいいのかと相澤が迷う目を向けていると、ちらっと彼を見た彼女の視線とぶつかった。恥ずかしさで嫌そうな顔をしていた防人は、相澤を見ると頬を赤らめたまま困った顔で俯いた。
ドクリ、と強く脈打った心臓を感じながら相澤も下へ視線を逃がす。そして、一枚だけフォトアルバムから落ちてしまっていた写真に気が付いた。
「悪かったから、許してくれ!」
「白雲先輩と山田先輩が人の嫌がることをするなんてガッカリです」
罪悪感から小さくなっている二人を横目で少し見てから、彼女はくすくすと笑う。
「もういいですよ。謝ってもらいましたし、もう怒ってませんから」
おかしそうに笑っている防人に、ホッとした二人の両肩から力が抜けたのは同時だった。
「あ、コレ、もらってもいいですか? 私、この写真持ってないんです」
「いや、その写真は相澤にやろうと……」
いつもはよく動く山田の口が言いにくそうにしている。不思議そうに首を傾げている彼女を見るとダメとは言いづらく、彼は"ドウゾ"と言ってしまっていた。
***
その日の夜。防人の部屋に泊りに来ていた相澤は、彼女が風呂に入っている間に屋上で拾った写真を見ていた。そこに映っている彼女は猫耳メイドの格好をして、恥ずかしそうに眉を下げている。
可愛いと思う。しかし、それよりも気になるのは防人の後ろに映り込んでいるスケッチブックだ。
問題のスケッチブックは防人桜の名前と彼女を指すように矢印が描かれていて、名前の下には気になることが書かれている。
「お風呂いただいてきまし……た」
「あ」
背後から声をかけた彼女は彼が見ているものがなんだか分かると一瞬で顔を真っ赤にさせた。
「な、なんで!? だって、あれは……!」
「ち、違う! これは昼休みに屋上で拾ったんだ!」
混乱していた防人は相澤の説明で納得したのか、力が抜けたようにその場に座り込む。
「………」
「………」
決して隠し持っていたわけではないが、何も言わなかった罪悪感で黙り込む相澤と、恥ずかしさで何も言わない防人の間に会話はない。気まずく思いながら、お互いに上目で相手を見る。同じように赤くなっている相手を見ると、二人は同時に顔を背けた。
「あの、あれは、中学の文化祭のときのもので、その、クラスの出し物が猫耳メイド喫茶に決まったから、ああいう格好をしただけで……。私が好んでしたわけじゃないんですよ?」
「……女子校なのに、そんなのやるのか?」
「基本的に品のないものはダメということになっているんですが、三年生は最後の年なので担任の先生によっては比較的自由にできるんです。一般公開もしているので、その、異性受けのいいものをしたいという方々がいて……これに」
もじもじと居心地が悪そうにしている彼女に、相澤はもう一つ、気になってしょうがないことを訊いてみる。
「……コレは?」
「え?」
彼が指さしたのは、先ほどから気になって仕方ない写真の中のスケッチブック。目を瞬いている防人は、何かを思い出したように顔を赤面させていく。
「こ、これは……その、あはは」
はっきりとせず誤魔化す為に笑う彼女に、彼はスッと表情を消して顔を寄せた。
「なんではっきり言わないんだ?」
「な、なんでって……」
近い距離にある相澤の顔。彼から香る同じボディソープの匂いに防人の心臓はどんどんと早く動いてしまう。
「これ、本当なのか?」
更に顔を寄せた彼の目にある感情に気づいた彼女は目を瞠った。
「消太くん? あの、なんで怒って……?」
「お前、付き合うのは俺が初めてだって言ってたよな?」
それは嘘ではない。お互いに異性と付き合うのは初めてだ。恥ずかしさで誤魔化そうとしてしまったが、彼の目を見て、これは流してはいけなかったのだと気づいた防人はマズいとばかりに視線を逸らした。
「こっち見ろ」
自分の方を見ろと彼女の顔に添えられた手に強引さはない。それなのに、防人は相澤の手に逆らうことができず、ゆっくりと彼の方へ顔を向けた。
「俺の他に付き合ったやつがいるのか?」
「いま、せん……」
鼻先が軽く触れ合っている距離で囁かれる相澤の声は、少しだけ掠れている。そして、向けられる目には明らかな嫉妬があった。
「じゃあ、あれはなんだ?」
「あれは……」
ぐっと、息を呑み込んだ防人は、意を決して相澤の目を見つめ返した。
「……好きな人がいるってクラス中に知られてしまったんです」
写真の中のスケッチブックに書かれていた、相澤が気になって仕方のないもの。それは彼女の名前の下に書かれた"彼氏います"の文字だった。当時のことを思い出して、防人は更に顔を赤くしていく。
「女子ってそういう話が好きじゃないですか。どんどん噂に尾ひれがついて、いつの間にか"好きな人"から"お付き合いしている人"と話がすり替わってしまったんです」
視線を下げた彼女に、相澤はそういうことかと納得したように小さく息を吐き出した。
「好きな人、か……」
今度は相澤の視線が反られる。何となく、彼の考えていることが分かった彼女は体勢を直して、こつん、と彼の額に自分の額を合わせた。
「中学三年生のときのことなんですから、消太くんに決まってるでしょう?」
面映ゆそうに笑う防人に、相澤の頬も赤くなっていく。笑う彼女の動きを感じながら彼は下唇を突き出すようにして顔を逸らす。
「さっきの、ヤキモチ、ですよね? 可愛いかったです」
よしよしと撫でてくる防人の手を掴む。そして引き寄せて、彼女の目を覗き込む。
「からかうな」
むすっとしていながらも赤くなっている相澤に、防人は見開いていた目を穏やかに細めていった。
「しょうがないじゃないですか。好きだなって思うと、なんでも可愛く見えるんです」
顔を逸らしたまま、彼は目だけを彼女へと向ける。とても柔らかく微笑んでいる彼女を可愛いと思うけれど、こういうことになると毎回、相手の方が数枚上手だと思わされるのが嫌だった。
何も言わず強く防人を抱きしめる。好きなのは自分も同じだと思いながら、相澤は彼女の首筋に顔を埋めた。
「どうしました?」
撫でてこようとする手をもう一度捕まえて指を絡ませる。お互いの顔が見えるところまで少しだけ体を離すと、彼はじっと彼女を見つめた。
「……好きだ。お前が想うよりずっと」
目を瞬いた防人は嬉しそうに目元を赤らめる。そしてお互いの指を絡めた手に頬を寄せた。
「負けませんよ。私の長い長い片想いを思えば、消太くんなんてまだまだです」
「先に好きになったかどうかは関係ない」
床で打たないように後頭部を手で支えながら、ゆっくりと彼女を押し倒す。まったく抵抗しなかった防人は相澤を真っ直ぐに見つめていた。
「証明してもいい。俺の方が好きだ」
おもむろに伸ばされた彼女の手が優しく包むように彼の頬に触れる。
「いいですよ。私の気持ち、確かめてください」
余裕を感じる防人に、どうしてかムッとした気持ちは湧き上がってこず、不思議と彼女に対する愛おしさのようなものしか相澤の胸にはなかった。
すっ、と彼の体が彼女の上に重なる。防人が目を閉じる直前に見た相澤は頬を染め、とても優しい目で自分を見ていた。
END
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