頼れる人

 相澤に看病されてから数日後。あれから本当に、彼は一日も欠かさずに防人の前に現れる。今日も昼間の屋上でぼんやりと空に浮かぶ雲を見上げていた彼女の前に彼は姿を見せた。

「お前、空見るの好きだな」

「嫌いじゃないですよ。今日もいい天気だなって気持ちがいいじゃないですか」

フェンスの上で組んでいた腕に顔を乗せていた防人は、ゆっくりと起き上がって振り返る。
黒いヒーローコスチュームに首元に巻き付けた捕縛武器。いつも通りの彼が当たり前のように隣に来て、同じようにフェンスに寄りかかる。

 ずっと避け続けていた相澤を避けられなくなったのは、彼に看病をさせてしまったからだけではない。あんなにも甲斐甲斐しく看病をされてしまうと防人も離れがたく思ってしまう。元々、傍にいたいという気持ちは彼女も強い。本当にまだ、彼が自分を想ってくれていると信じたくなる。しかし、それでいいのだろうかと、あの女性のことが防人の脳裏から離れなかった。

「あの、イレイザーさん。毎日無理して来なくていいんですよ? 休憩時間を削ってわざわざ私を探すことなんかないでしょう」

「……俺が会いたいだけだ」

 彼女にヒーローネームで呼ばれるたび、相澤はツラく寂しそうな顔をした。そこに嘘はないように思える防人は、より混乱してしまう。

彼は自分ではない女性を選んだはずだ。どうして彼がこんな顔をするのか。一体何がどうなっているのか、分からないまま防人は相澤の告白を受け続けていた。

「桜」

 名前を呼ばれて俯いていた顔を上げた彼女へ、風に捕縛武器と髪をなびかせた相澤が真剣な眼差しで見つめる。

「好きだ」

そう言われて素直に喜んでいた学生時代が懐かしい。今だって、心が震えるほど嬉しいのに、応えてはいけない気がする防人は戸惑いながら目を伏せた。

「そろそろ行く。また明日」

「明日も会えるか分からないじゃないですか」

 苦く笑って見送ろうとする彼女に、彼は風になびく髪を押さえながら振り返る。

「会える。会いたいって思うからな」

小さな笑みを残して相澤は防人を残して屋上から、隣のビルへと移動していった。呆然とそれを見送った彼女は、ぐっと唇を噛みしめる。

(ズルい……)

 初めて告白した日のことを、こんなにも細かく覚えていてくれて、同じように真っ直ぐに気持ちを向けてくれることに喜びを感じてしまう。切なく痛む胸を握る。押さえるだけでは和らぐことのない痛みに防人は一人、その場に蹲っていた。

***

 彼女が自分にしてくれていたこと。自分がそれをするようになって初めて、相澤は防人の気持ちを知った。
彼女は一度だって"付き合ってほしい"とは言わなかった。ただ"好きです"と気持ちを伝えてくるだけ。そこにあったのは好意を信じてほしいという気持ちだけだった。

 先日まで、彼女が使っていた寝袋に入り込んだ相澤は、自分の部屋の天井を見ながら小さくため息をこぼす。

(俺が気づかなかっただけで、桜はずっと俺の気持ちを大切にしてくれてたのか)

 あの最初の告白を疑わなかったら。途中でもう信じたからと言っていたら。きっと、防人はもう相澤の前に出てこなかっただろう。

(最初から言ってたな。信じてほしいだけだって)

今ならあの時の彼女の気持ちが分かると、相澤は息を吐き出しながら額に手の甲を乗せる。

(俺の気持ちは桜に信じてもらえるのか……?)

瞬きをした彼の目は変わらずに天井を見つめていた。寂しさも切なさも含んだ相澤の目は、ぎゅっと閉じられる。

「……桜」

 思わず口にした彼女の名前。仕事明けの今朝だって、会って気持ちを伝えてきたというのに、もう恋しくて胸が痛む。

カーテンの隙間から入ってくる日差しを避けるように、相澤は寝袋ごと寝返りを打つ。ふと、微かに香った防人の匂いが気のせいなのか分からない。それでも、彼女を傍に感じることができた彼は穏やかに眠り始めることができた。

***

 書類仕事で動かしていた手が止まる。無意識に出た彼女のため息は深かった。

 相澤の気持ちを信じたい。でも、確かに彼は防人の知らない女性に"結婚しよう"と言われていた。結婚だなんて、付き合っていなければ出ない言葉だろう。その人と別れたから自分に好きだと言ってくるようになったのだろうか。

(違う。そういう人じゃない)

看病で彼に面倒を見てもらったときに、自分が付き合っていたときと相澤が大きく変わったわけではないと確信を持った。だからこそ、分からなくて苦しくなってしまう。

「おい、大丈夫か?」

 ポン、と肩に乗せられた手に防人が、びくりと肩を震わせて顔を上げると、山田が心配そうに覗き込んでいた。

「スゲー思い詰めた顔してんぞ」

眉を顰めている彼の目が気にかけている。それが分かる彼女は、焦りを隠すように目の前の書類へ視線を落とした。

「すみません、ちゃんと仕事しないとですね」

明らかに誤魔化そうとしている防人に山田は更に訝し気な視線を向ける。

「お前、なんか悩んでんだろ」

「あー……夕飯は何にしようかなって」

視線を彷徨わせながらも、慣れた手つきでタイピングをしていく彼女は乾いた笑いを浮かべた。

「へぇ? お前、昼食う前に(ゆう)メシのこと考えんのか」

珍しく、うっ、と押し黙った防人にため息を吐きながら、山田は隣のデスクで頬杖をつく。

「ほら、超頼れるマイク先輩に話してみろ。お前の悩みなんかサクッと解決してやるからよォ」

「う、うーん……」

こんなことを事務所の先輩にしていいものかと悩んでから、彼女はチラッと彼を見た。口調とは違い、本当に心配してくれている優しい目がサングラスの奥から向けられている。話すつもりなんてまったくなかったけれど、山田の優しさが分かってしまった防人は無意識に口を開いてしまった。

「……相澤先輩の気持ちが分からなくて」

 顔を俯かせた彼女の髪が動きに合わせてサラサラと流れていく。最初に知り合った時よりも随分と短くなった髪もよく似合っていると思うが、どうしてか山田にはそれが痛々しく見えていた。

「なら、本人に聞いちまえよ」

え?と顔を上げた防人に彼は口を大きくニッと笑わせる。

「気持ちなんて本人にしか分かんねーだろ。そんなん、さっさと聞いちまえ」

「それが出来たらこんなに悩みませんよ」

山田の茶化すような口調につられたのか、彼女はおかしそうにくすくすと笑いだした。最近、肩の力が抜けた笑い方をするようになってきた防人に、彼はからかうように更に笑う。

「悩むことなんかねェって。俺が言ってんだ。相澤なんかより信じられんだろ?」

きょとん、と目を瞬いた彼女は、目を細める。先ほどのおかしそうな笑顔ではなく、穏やかで寂しそうな笑みに山田は目を瞠った。

「……そう、ですね」

 その笑みで彼は彼女の悩みに気が付いた。

「相澤のこと、信じられないのか?」

図星をつかれた防人が微かに体を強張らせる。それを山田は見逃さなかった。

「防人」

 しっかりとした声は誤魔化すことを認めない力があった。そして同時に気にかけてくれる柔らかさも含まれている。これも彼の個性が関係あるのだろうかと頭の隅で考えながら、彼女は口を開いた。

「……相澤先輩には私じゃない人がいるので」

「相澤に?」

信じられないと言わんばかりの山田に頷いた防人の視線はまた俯きがちになる。

「以前、会いに行ったときに見ました。……結婚しようって、言ってて」

ぐっと堪えるように唇を噛みしめた彼女は、目もきつく閉じた。しかし、それは返ってあのときのことを鮮明に思い出させる。

「嘘だろ……」

緩く首を振った防人はため息をこぼすように話し出す。

「だから、相澤先輩に何を言われても信じることが、できなくて……。信じられない、のが、苦しくて……」

 相澤のことを想っていれば想っているほど、防人の胸には酷い痛みがあった。胸が痛むときはそれを少しでも誤魔化したくて胸元を握り締める。ここのところ、これは癖になりつつあった。

 はぁっ、と一つため息をこぼして、山田は防人の額を指で小突く。その勢いで、彼女の顔は上を向いた。

「バーカ。苦しくなるくらい悩んでるときはちゃんと話に来い。俺がお前の話聞かないわけねェだろ?」

ぽかんとしたままの彼女が見た彼は、ニィっと歯を見せて笑っている。それが眩しくて防人は目を(すが)めるように小さな笑みを返した。

「ありがとうございます。頼れる先輩を持って、私は恵まれていますね」

「だろォ? だから、何かあったらそこまで悩む前に話せよ」

 本当に自分は恵まれている。山田も香山も椎名も、みんながまるで家族のように自分を心から気にかけてくれることを改めて感じた防人は込み上げてくる涙を見られないように、俯きながら仕事に戻る。

 そんな彼女の様子に気づかないふりをしながら、山田は"さっさと終わらせてメシ行こうぜ"と明るく振舞ってくれていた。

***

 目が覚めた頃には既に夜だった。そろそろ仕事に出ようと支度を始めてすぐ、スマホが震えだす。何も考えずにそれを手にした相澤は着信の相手を見て眉間にしわを寄せた。

「なんだ」

「なんだァ? 機嫌わりぃな。寝起きか?」

普段の軽い調子の彼に相澤は別に、と短く返す。いつも彼女を一緒にいられる山田に最近は嫉妬のようなものを覚えてしまうのが嫌だった。

「お前、時間取れねェ? 場所は俺が合わせる」

「これから仕事だ」

「別に今日じゃなくてもいい。まあ、なるべく早い方がいいんだけどよ」

 引き下がらない彼にますます相澤の眉間にしわが寄る。一体何の話があるのかと思ったが、なんとなく防人のことのような気がした。

「桜になんかあったのか?」

「いや? なんもねェよ。……お前に確認したいことがあるだけだ」

電話でなく、直接話をしようとしている山田に相澤は少し考えてから返事をした。
 通話を終えると、彼の視界に彼女の髪をずっと結っていた捕縛武器が入ってきた。何気なくそれを手に取る。

 防人が転院した際に、病室に忘れて行ったと看護師に渡されてからはずっと相澤の手元にある。救急車の車内で切られた捕縛武器は血がべっとりとついていたが、若い看護師が気を遣って洗ってくれた為、今は薄っすらとシミが残っている程度だ。

 どうしてこれを防人が持ち続けてくれたのか分からない。しかし、これが今の自分と彼女をかろうじて結び付けてくれているように思えてならなかった。

「………」

これから会うのは防人ではないというのに、相澤はポケットにそれを突っ込んだ。こうしていれば彼女を身近に感じられる気がして、なんとなくとった行動。それがまさか防人と同じものだとは相澤はまだ知らなかった。

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