今度は俺が……

 熱を出して苦しそうにしている防人を見ていられなかった。早く寝かせてやらなくてはと思ったときには、相澤は彼女を連れて店を出てきてしまっていた。
 家を借りていない防人の帰る場所はない。しかし、熱を出している彼女を寒い夜の中、いつまでも連れまわすわけにもいかない。防人を背負いなおすと、まるで反応したように彼女は相澤の服を小さく握り締めてきた。
 嬉しさと彼女への想いで彼の胸は早鐘を打つ。いいのだろうかと少し迷いながらも、これしかないなと、相澤は早足で歩き始めた。

***

 誰もいない室内に明かりがつく。パッと照らされた部屋の中に殆ど物はなく、生活感もない。広げっぱなしになっていた寝袋の上に防人を寝かせた相澤は、タオルを濡らして戻って来た。掻いた汗で貼りついてしまった前髪を上げて額を拭いてやると、彼女はゆっくりと目を開ける。体調が悪いせいか、とろんとしている防人の目を相澤は心配から覗き込む。

「……水、飲めるか?」

「………」

 ぼうっとしていて分かっていないような彼女の口元へ水の入ったペットボトルを近づける。虚ろな黒い目が彼をそっと見上げると、防人の顔に嬉しそうな笑みが広がった。

「やっと、出てきてくれた……」

何のことだか分からない相澤を置いて、彼女の白い手が真っ直ぐに伸ばされる。

「ずっと、会いたかった……」

涙をはらはらと溢す防人の手が相澤の顔に触れて、そのまま頬を撫でる。

「桜……?」

 先ほどまで呼ぶことを躊躇っていた彼女の名前を彼が口にしたのは無意識だった。同じように相澤が防人の顔に触れて頬を撫でてやれば、彼女の笑みはさらに深まる。いつも相澤が愛しく感じていた笑顔が目の前にあった。
 思わず抱きしめれば、ずっと感じることができなかった防人の匂いが彼の鼻腔に広がる。噛みしめるように目を閉じている相澤へ彼女の腕も伸びていく。そして、その腕は彼の首へ回った。

「消太、くん……」

名前を呼ばれた喜びで相澤の胸が震える。こんな風に喜びで心が動くのは本当に久しいことだった。
 ゆるゆると防人の腕からは力が抜けていく。ハッとした相澤は抱きしめるのを止めて、彼女の口元へまた水を運ぶ。

「ほら、飲め。それで少し寝てろ」

素直に、うん、と頷いてペットボトルの水に口をつけたものの、殆どが口の中へと入っていかずに口角から首元へと零れてしまった。タオルで濡れてしまったところを拭ってやってから、防人が口をつけていたペットボトルの飲み口へ視線が行く。飲ませてやるべきだろうか。そう考えているうちに、穏やかな寝息が聞こえてきた。

 赤い顔で、すうすうと眠っている彼女の前髪を押し上げる。黒い髪の下から出てきた白い額に、初めて一緒に寝た日のように彼は唇を寄せて、触れる瞬間に思いとどまった。熱に浮かされた防人の言葉に、浮かれてやっていいことではない。自分の中にまだ冷静な部分が残っていたことに、ホッとしながら相澤は彼女の前髪を直してやった。

 寝袋の中に防人を入れて、その隣にもう一つ寝袋を持ってくる。手を伸ばせば彼女の顔に触れられる位置で彼も横になった。"おやすみ"と口にして、ふと気が付いた彼はそれを口にすべきか少し悩んだ。しかし、目の前にある防人の寝顔を見ていると口にしたい気持ちが大きくなっていく。

「……誕生日おめでとう、桜」

付き合っていたときは一度しか当日に"おめでとう"と言う機会はなかった。聞こえていないであろう彼女の寝顔を見ながら相澤も目を閉じる。これからまた一番近くで防人の誕生日を祝うことが出来たらと願っていた。

 数時間置きに、濡れたタオルで熱そうな顔や首筋を拭いてやる。汗を拭いてやるたび、和らいだ表情をする防人に、自分も安堵で微笑んでいるとは相澤は気づいていなかった。

***

 床を歩く足音に防人の意識はだんだんと浮上してくるようにはっきりとしてきた。重い頭で、ぼーっと目を開けていれば、周囲が明るいことが分かる。そうしてやっと、ここはどこなのかという疑問が込み上げてきた。

「悪い。起こしたか?」

心配そうな顔で覗き込んでくる彼を、ぼんやりと見上げてから彼女は小首を傾げた。

「まだ、夢……?」

「夢じゃない」

とろんとしていた目がだんだんと大きく開き、防人はゆっくりとした動きで起き上がる。確認するように周りを見た彼女は困惑しているようだ。

「香山先輩と居酒屋に行っただろ。そこで奈良漬け食って動けなくなってたから俺の部屋に連れてきた」

「なんで……」

 信じられないような顔をする防人の隣に屈みこんだ相澤は、じっとその黒い目を見つめた。昨夜とは違い意識がはっきりしている彼女に、一度目を伏せた彼は正直に自分の気持ちを口にした。

「好きだから。他に理由なんかない」

見開かれていた彼女の目にじわじわと涙が張っていく。俯いた防人はゆるゆると首を振った。

「……そんな、まさか。冗談が、キツいですよ」

顔を上げないまま何も言わないでいる彼女の髪がさらさらと流れていく。あの頃と変わってしまった彼女の黒髪。それに少し寂しさを刺激された彼の視線も床へと落ちる。

「信じられないのか」

「………」

答えないことが防人からの答えだと受け取った相澤は顔を上げると、しっかりとした声で彼女の名前を呼んだ。
 呼ばれた声に含まれている真剣さを感じ取った防人は、おもむろに顔を上げる。視線を上げた先では相澤が真っ直ぐな目で自分を見ていた。

「なら―――」

初めて防人に告白された日のことを思い出した相澤の表情がとても穏やかなものに変わる。そこから目が離せなくなった彼女は口を開くこともできずに見入っていた。

「―――今度は俺が毎日言いに行く。好きだって」

我慢しきれなくなった防人の涙が頬を伝って流れていく。慌てて頬についた涙の跡を拭った彼女は、ぐっと引き結んだ口を何とか開いた。

「そんなこと、言われても……」

「俺がお前に信じてほしいだけだ」

 高校に入学したばかりの頃の自分と同じようなことを言う相澤に、防人は赤らめた目元を向ける。

(信じたい、けど……)

彼を信じたい気持ちはある。今だって、彼の言葉を信じて自分の気持ちを打ち明けてしまいたかった。しかし、それを相澤に"結婚しよう"と言っていた女性の声が許さない。

「……とりあえず今は、ちゃんと寝て体調戻せ」

 寝袋の中に戻るように促されて、つい頷いてしまった防人はおずおずと横になる。

「飯が出来たら起こすから、それまでは大人しく寝てろ」

ぽん、と一つ頭を撫でていった彼は見上げてくる彼女にフッと口元だけの笑みを残していった。

 勝手にドキドキと早くなる鼓動を感じながら防人は寝袋の中に更に潜り込む。隠したくてしたことだったが、寝袋についた相澤の匂いをより感じることになってしまい、さらに彼女は顔を赤くしていた。

***

 しばらくはもぞもぞと居心地の悪そうにしていた防人から寝息が聞こえてきて、どのくらい経ったころだろうか。食事が出来たら起こすと言っていた相澤は、寝袋の中で眠る彼女の傍に座り込んでいた。

 起こして食事を摂らせて薬を飲ませた方がいいと分かっている。それでも、眠り込んでいる防人を起こす気になれず、もう少しだけ様子を見ようとしていた。

 昨夜とは違い、彼女は汗をかいていない。額に触れると熱もなさそうだ。念の為にと首筋に触れると、眠っている防人は無意識のまま、相澤の手にすり寄ってきた。

「ん……」

ふふっ、と表情を緩ませる彼女に、彼も柔らかな目を向ける。頬に触れている手で撫でてやれば、防人は僅かに嬉しそうな声を漏らす。まるで甘えているような彼女に、相澤の胸には愛しさばかりが募っていた。

「……桜」

 溢れそうになる好きを込めた、聞こえるか聞こえないか分からないほどの声だったというのに、防人はゆっくりと目を瞬かせた。

「あれ……?」

寝ぼけ眼で見つめてくる彼女の頭を彼はゆっくりと撫でてやる。

「起きられるか?」

ゆっくりと目を覚ました防人は、ハッとしたように慌てて頷いた。

「すみません。あの、本当に寝入ってしまって……」

「当たり前だ。ちゃんと寝てなかったら怒るぞ」

 すっと立ち上がった彼は奥から鍋と茶碗を持って戻ってくる。そして、そっと鍋を紙の束の上に置いて、また彼女の近くに腰を下ろす。

「少し食ったら薬飲んで、また寝てろ」

窺うような視線を向けてくる防人に、相澤は小さく意地悪い笑みを見せた。

「寝込みにキスなんかしないから安心しろ」

「な、何、言って……!?」

バッ、と思わず口を両手で覆った彼女にクツクツと笑った相澤は、学生の頃、同じことでからかわれたことを思い出していた。

「冗談だ。ほら、起きろ」

 背中に回された彼の腕に助けられながら体を起こした防人は、彼との距離の近さに胸がドキドキとしておかしくなってしまいそうだった。相澤に気づかれないように、ぎゅっと胸元を握る。彼に恋をしたままの心は苦しいままだった。

「もうかなり冷ましてあるから、これならお前も食べられるだろ」

鍋の蓋を開けても中から湯気は立ち込めてこない。お玉で掬われたお粥が少量、茶碗に盛られる。しかし、受け取ろうと伸ばした彼女の手に茶碗は乗せられなかった。

「ほら」

一匙掬ったお粥を当たり前のように差し出してきた彼に彼女は困惑しながら視線を彷徨わせる。

「あの、自分で食べられます……」

何も言わずに相澤が更にスプーンを差し出せば、防人は観念したように口を開けた。
 するりと入ってきたお粥は、彼の言う通り熱くはない。そして、冷たくもなく、ちょうどよい温かさだった。味付けは塩だけのシンプルな白粥だが、彼女にはとても優しい味のように感じられた。

「美味しい」

ぽつりとこぼれた防人の小さな声に、相澤はホッとしたような顔をする。

「わざわざ作ってくれたんですか?」

「……普段、料理なんかしないからな。お前の口に合ったならよかった」

丸くなった彼女の目がゆるゆると細められていく。嬉しそうな目にはじわっと涙の膜が張られていった。風邪のせいで涙腺も弱っているのか、涙がみるみると視界を覆っていく。

「すみません。その、凄く嬉しくて……」

指で目尻に溜まった涙を拭う防人に相澤は手を伸ばす。片手で頬を包んでやれば、自然と彼女の視線は彼に向かった。

「今日は、まだ言ってなかったな」

「え?」

 なんのことかと首を傾げる彼女の黒髪が揺れる。学生時代、背中の真ん中ほどまであった髪は、退院後、鎖骨にかかる程度にまでバッサリと切られてしまった。

「好きだ」

ひゅっと息を呑んだ防人は、困りながら視線を相澤から逸らす。分かっていた反応に、相澤も仕方ないと目を伏せる。

「だから早く治せ。お前の体調が悪いと俺は気が気じゃない」

 もう諦めないと決めた。だからどれほど時間がかかっても、彼女が信じてくれるまで彼は気持ちを伝え続けようと固く決意していた。

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