まだ好きなんです

 夜も更けてきた頃になると、仕事終わりの人々が強かに酔い、気が大きくなっていることが多い。覚束ない足取りで誰かにぶつかった。この大ゲンカの始まりもこんなくだらないものだった。

「いくら酔っぱらっているからって、個性を使ってケンカしちゃダメです」

 通りで暴れていた若い男性二人を取り押さえた防人は、座り込んでいる彼らの前で膝を折る。

「ケガをしたら痛いでしょう?」

擦り傷を作っている男性の頬が汚れているのを見て、彼女はポーチから取り出した生理食塩水で傷口についたゴミを洗い流す。

「いってぇ!」

「だから個性でケンカなんかしてもいいことないんです。分かってます?」

「分かったから、もっと優しくしてくれよォ」

メソメソし始めた男の顎から垂れそうになる生理食塩水を、服が濡れないようにタオルで押さえていると、相手の男もぐすぐすと鼻を鳴らし始めた。

「俺だって、俺だって、いてぇのになんでそっちばっか見てんだよぉ」

「貴方の応急処置はもうしてあります。骨折ですから、痛みはすぐに引かないんですよ」

 先に処置を済ませているというのに、覚えていなかったのか子どものようにメソメソと拗ねている。

「もうすぐ救急車も来ます。お二人ともきちんとした処置は病院で受けられますから安心してください」

安堵させる穏やかな口調に、骨折の男は押し黙った。そして、今度は擦り傷の男の顔も見えるように向き直る。

「そのあとは警察に事情を聴かれると思います。今後はこんなケンカをしないようなお酒の楽しみ方をしてくださいね」

フードの下から覗くにっこりとした笑みには注意も含まれていて、しっかりと釘を刺された二人の男は気まずそうにお互いを見た。メソメソ、ぐすぐすとしている相手の顔におかしくなってきたのか、にやにやと笑いだしている。本当に分かっているだろうかと心配になりながら防人も苦く笑う。

「それでは救急車も来たようですので、私はこれで。お大事にしてください」

 駆けつけてきた救急隊に軽く説明をして彼女は、その場から立ち去った。

***

 入院している間に随分と風が暖かくなっている。マントコートの端が風に揺れるのを感じながら何気なく空を見上げた。街の明るさで星は見えないけれど、確かに空にはあるのだろうとぼんやりと思いながら雑居ビルの屋上で休憩をとっていたときだった。

「何見てるんだ?」

(また見つかった……)

背後からかけられた声には決して振り向かなかったものの、防人は困惑していた。何も答えられないでいても相澤に"桜"と名前を呼ばれてしまえば、口を開かないでいることはできなかった。

「いえ、特に何かを見ていたわけではありませんよ」

細長く息を吐き出して、外していたフードを深くかぶり直すと声の持ち主へと振り返る。

「それでは、私は仕事に戻りますので失礼します」

横切ろうとすれば引き留められると分かっている防人はフェンスの上に立ち上がり、相澤を見ながら屋上の外へと飛び降りた。
 落ちる勢いでびゅうびゅうと聞こえる風とバタバタと暴れるようになびくマントコートの音を耳に受け入れながら、まだ屋上にいる彼へ視線を向ける。何か言いたそうにこちらを覗き込んでいる相澤を見てから彼女は目を閉じた。

 地上にぶつかる前にふわりと降り立った防人を見送ってしまった彼は、深いため息を漏らしてフェンスに肘をかけながら背中を預ける。

(また逃げられた……)

姿を見つけるたびに声をかけているが、まともな会話になったことは一度もない。柔らかく優しい拒絶に相澤は小さく傷つけられていた。どうして、こうも話せなくなってしまったのか考えても分からない。

(本当に、もう会いたくもないってことか?)

自分を振った男に会いたくないと思うのは当然だ。しかし、それならば何故と思うことがいくつもあった。
 彼女が運ばれる救急車の中で、"幸せになってほしい"と言ったこと、劣悪な労働条件で無理をしてまで会いたがっていたこと、そして、会いに行くと言って実際には来なかったこと。考えても考えても相澤の中で何も繋がらない。困惑が彼の中に広まっていくだけだった。

 彼女が見上げていた空を、同じように見上げる。ほとんど見えない星を見て何を考えていたのだろうか。はぁっと吐き出した相澤の息は白くはならない。気づけば随分と空気が暖かいなとぼんやり思った。

***

 事務所に戻って来た彼女は、短く息を吐き出して深くかぶっていたフードを外す。長かった黒髪は鎖骨の辺りまで短くなってしまっていた。

「HEY! サイキッカー、お疲れさん!」

「お疲れ様です」

振り返ればちょうど入って来たばかりの山田が防人に軽く手を上げている。

「あの、マイク先輩。パトロールの時間なんですけど、ずらしてもらえませんか?」

「なんか問題あんのか?」

"まあ……"と言いにくそうに俯く彼女の思っていることを察した山田はやれやれと思いながら気づかれないように片眉を押し上げた。

「お前がそういうなら代わってやりたいのはやまやまなんだけどよー、しばらくは無理だな」

彼女の隣のデスクから椅子を引きずり出して腰掛けた彼は普段と何も変わらない調子で"ワリィな"と軽く謝る。防人の様子を気にかけながらも、山田は自分のデスクに積まれた書類に手を伸ばした。

「そう、ですか……」

 右の腕をぎゅっと押さえるように握る防人の考えていることなんて、山田には簡単に分かった。十中八九、相澤が関わっている。彼にはもう会えないと言って病院を移すほどだ。パトロール中に声をかけられることを避けたいのだろう。
 横目で彼女をちらっと見てから山田はもう一つ気になっていることを訊いてみることにした。

「それより、お前今日休みだろ?」

「ああ、はい。そうですね」

一日休みは何をすればいいのか分からないから必要ないと言った防人に山田が呆れたのは、彼女が退院してすぐの頃だった。それがやっとこの頃、プライベートを持つようになってきたことにほっとしている。

「また行くのか?」

「はい。読みたいって言っていた本を見つけたので、それを届けに行こうと思ってます」

ガサガサと彼女のデスクから出てきたのは本屋の紙袋。その厚さや大きさから中に入っているのはハードカバーの本だろう。
 彼女が行こうとしてるのは、例の大規模火災の際に捕まえた(ヴィラン)の少年のいる拘置所。
 最初に彼女が面会に行ったとき、彼は涙をほろほろ流して無事を喜んでいた。そして話をしているうちに彼の本の好みを知り、今はときどきではあるが差し入れに本を持って行くようになっている。

 どこか楽しそうにしてる彼女は本をデスクの横にかけていた鞄の中に入れた。

「変な奴だよな、お前って。普通、自分刺した奴の心配なんかするか?」

「あの子のお陰で助かったところもあるんですから、これくらいは」

苦笑いをする防人に、山田は笑みを引っ込める。そして、すっと真面目な顔した。

「それを言ったら相澤もそうだろ」

体をぴくっと反応させた彼女から表情がじわじわと消えていく。黙ったまま動かない防人が山田は心配になった。

「……どうして話、聞いてやらないんだ?」

 彼女の復帰を誰よりも待っていたのは相澤だ。それを近くで見ていた山田はよく知っている。防人の気持ちも尊重したいが、相澤の気持ちも知ってほしいのが彼の本心だった。

「……私、まだ好きなんです。相澤先輩のこと」

ぽつりと呟いた彼女に山田の目は大きく開かれる。それなら何故、と彼は思わずにいられなかった。

「でも、相澤先輩には気持ちが残ってないのも知っているので……。改めて別れ話なんて聞かされたら、今はきっと泣いちゃいますから」

"もう少し気持ちの整理がつくまで"と無理をして笑う防人が泣いてしまいそうに見えて、山田はもうそれ以上聞くことができなくなる。

「……すみません、少し休みます。お疲れさまでした」

 仮眠室へと入っていく彼女の背を見ながら、山田は首を捻る。相澤も防人もいまだに相手を想い合っている。それなのにどうしてこうも上手くいかないのか。
 痛くなってきそうな頭を押さえてから、彼は大きくため息を漏らした。

***

 日が沈むと、日中よりもずっと冷える。寒さも薄れ始めているが、今夜は寒く、吐き出す息は白かった。

「YO! 調子DOよ!?」

 鬱陶しい奴に出会ってしまったと相澤はあからさまにため息を吐く。逃走していたコンビニ強盗の身柄を押さえた先では、偶然、(ヴィラン)を倒した山田がいた。

「別に普通だ」

フン、と鼻を鳴らしてコンビニ強盗を更にキツく縛り上げた相澤に山田はヒュウ、と口笛を吹く。

「なあ、今日このあと時間取れねーか? 話があんだけど」

「俺はない」

「んなこと言うなって」

肩を組むようにさりげなく近寄った山田は"防人のことだ"と相澤に耳打ちした。ぴくりと反応したものの、彼はすぐに視線を逸らした。

「……今度は俺に話しかけられると迷惑だって言ってんのか?」

「違ェって。なんで避けられてんのか知りてェだろ?」

 ぐっと押し黙った相澤の心を見透かすように山田はサングラスの向こうから気遣う視線を向ける。
 あれからもずっと避けられ続けている相澤はまだ話をすることを諦めてはいない。しかし、こうも想いを寄せる相手に避けられ続けていれば傷つくのも事実で、日に日に自分の気持ちは迷惑なのかもしれないと頭を過るようになっていた。

「なあ、お前らなんで―――」

 山田の声を遮ったのは彼のスマホだった。渋々という様子でディスプレイを確認した彼は、片眉を押し上げる。"ちょっと待ってろよ"と言いつつ相澤が行ってしまわないように山田は彼の手を握ったまま電話に出た。

『あら、もしかして忙しかった?』

「いえ、ちょうどイレイザー捕まえたんで、これから飯行こうかと思ってたところっスよ」

「おい、俺は行かないぞ」

 離せと手を振り払おうとする相澤を気にせず、山田は電話の向こうの香山の話を聞いている。

「あー、分かりました。んじゃ、すぐ行きますんで」

プツリと通話が切れたのを確認してから、山田はやっと相澤の手を離した。すっとこれまでよりも真剣な表情を見せた彼は正面から相澤を見据える。

「防人が動けなくなったらしい」

 ドクリと心臓が嫌な動きをしたのを感じた彼は自分の胸元を握り締めた。目を見開いている相澤を山田は試すような目で窺う。

「お前、どうする?」

表情は普段と変わらないものの相澤の目は動揺している。山田はその動揺している目にもう一度同じ言葉を投げかけた。

***

 山田についてきた場所に相澤は釈然としない様子で、自分の前にいる彼を強く睨む。

「おい、どういうことだ」

「What's?」

ヘラリと笑う彼に苛立ちその胸倉を掴もうとした相澤の手が伸びるところで、彼女の声がかけられた。

「ああ、こっち、こっち!」

 座敷から手を振るのは私服姿の香山。そして近くには同じように私服のフードを目深にかぶり、壁にうずくまるように寄りかかっている彼女の姿があった。

 山田が香山から連絡を受け、相澤を連れてきたのは、ヒーローばかりがやってくる一般人にはあまり知られていない居酒屋。静かすぎもせず、かといってうるさくもない店内では他のヒーローたちも一日の疲れを癒すように飲み食いしている。

「遅かったわね」

「イレイザーがごねてたんスよ」

なあ、と振られた相澤の視線はうずくまって動かない防人に止まったまま。

「何があったんです」

 ふうふうと短い呼吸を繰り返す彼女に思わず近づこうとして、相澤は我に返ったように足を止めた。

「何って、無理やり食事に誘ったの」

こうでもしないと休みそうにないし、と香山はつまみを口に運ぶ。

「よく連れてこれましたね。俺なんか何度言ったってダメダメ」

顔の前で手を左右に振りながら、山田は二人のいる座敷へ上がった。それを当然のように、香山も見ている。

「貴方も上がりなさいよ。これから食事なんでしょう?」

「……俺は―――」

口を開きかけた相澤の声は防人の呻くような声に止まる。避けられている自分が傍に行ってもいいんだろうかと迷っていた彼は結局彼女に近づいて膝をつく。はあはあと苦しそうな呼吸をしている防人の様子を見る相澤の顔には誰が見ても心配の色が強く出ていた。

「ミッドナイトさん、こいつまだ今日で19ですよ」

 咎めるような視線を向けてきた彼に香山はなんでもないように頬杖をつく。

「よく元カノの誕生日なんて覚えてるわね」

私、元カレの誕生日なんて一人も覚えてないわと酒に口を付ける彼女の姿は妙に様になっていた。

「……なんで飲ませたんですか」

怒気を帯びた表情の相澤に山田はテーブルに置かれたそれを指さした。

「相澤、相澤。コレ」

山田の指さしたものに彼の視線が向く。ハッと気づいたような顔をした相澤に香山は正解とばかりに頷いた。

「飲ませてないわよ。当たり前でしょ?」

「防人のやつ、メチャクチャ弱ェな」

 驚き混じりな声を出す山田の視線の先にあるのは、酒粕に漬けて作られた奈良漬け。香山の話によるとそれを数切れ食べてこの状態になってしまったらしい。

「本当は家まで送りたいんだけど、この子、事務所に帰るしか言わないから呼んだの」

「俺も知らないっスよ? つか、今も事務所の仮眠室で寝泊まりしてるっぽいし、帰る家とかねェかも。まあ、仮眠室なんか誰も使ってねェから防人が好きに使っていいんだけどよ」

 驚いて目を丸くさせているのは香山だけではない。相澤も同じように驚いた顔をしていた。膝を抱えて丸くなっている防人に三人の視線が向けられる。酔っているせいもあるだろうが、弱弱しい彼女の姿に山田は眉を寄せた。

「………」

 何も言わず、彼女に触れることもせず、相澤はただ近くでしゃがみ込んで様子を見ている。防人が気持ち悪さで小さな声を漏らすたびに、ぴくりと反応しているくせに決して何かしようとはしない。

「……水くらい飲ませてやれよ」

見兼ねた山田に言われても彼は顔を上げず、視線を逸らす。意識のない状態の彼女に触れるのは気が咎めた。

「お前がやってやれ」

「お前が一番近くにいんだろ」

熱いのかポタポタと汗をかきだした防人に、相澤は仕方がなさそうに水の入ったグラスを持つ。彼女の背中に腕を回し、整った口元にグラスを運ぶ。

「……ほら、飲め」

 桜と呼びそうになった口を噛みしめる。触れて名前を呼んでしまったら、離したくなくなってしまうのが怖かった。
 薄っすらと開けた彼女の目に相澤が映ったのかは分からないが、黒い目から一筋涙がこぼれてまた閉じてしまう。フードの中に手を入れて、流れていった涙を拭いてやろうとして、相澤は訝し気に目を細めた。

「相澤?」

テーブルの向こうからこちらを覗き込んでくる山田に構わず、彼は彼女のフードを剥がし、首の裏と額に手を当てると確信を持ってため息をこぼした。

「コイツ、朝から調子が悪かったんじゃないのか?」

 え?と顔を見合わせた山田と香山は首を傾げたり、振ったりしている。どうやら二人は気づいていなかったようだ。

「熱出してんじゃねーか」

防人の膝裏に手を差し込んだ相澤はそのまま抱きかかえるようにして立ち上がる。元々アルコールに弱いのもあったのだろうが体調不良でさらに酔いやすくなっていたようだ。うっ、と苦しそうな声を漏らした彼女に山田が近寄る。

「背負った方が楽だろ」

当たり前のように屈んだ相澤に山田が防人を背負わせる。"悪いな"と言いながら、しっかりと彼女が背に乗ったのを確認した彼は、そのまま店を出て行った。

「なんだか悪いことしちゃったわ」

 誕生日だからと強引に連れ出したことを後悔している香山にいやいやと山田は首を振る。

「いいじゃないっスか。相澤がいれば心配もないっしょ」

近くに来た店員に適当に注文をした山田に、それもそうかと香山はまた酒を口に含んだ。それにしてもと、ほぅ、っと息を吐き出して香山は頬杖をついた。

「これからどうする気なのかしらね? 防人さん、今、家がないんでしょ?」

 気づいて焦る彼を想像した山田の口からHAHAHA!と楽しそうな笑い声が飛び出す。これがきっかけで少しは拗れている相澤と防人の関係が良くなればと、それぞれ胸の中で二人は思っていた。

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