会う機会は必ず

 毎日通い詰めている病室のドアを開けたとき、相澤には何が起きているのか理解できなかった。朝になって戻ってきた病室の中には誰もいない。そこにはただ、綺麗に整えられたベッドだけがある。

 立ち尽くしている彼の頭には嫌な予感しかない。ここを出るまでは、彼女の容体は安定していたし、何かあれば都合が悪くていられなかった山田の代わりに来た香山が知らせてくれることになっていた。

 最後に見た防人は、酸素マスクも外されて眠っているようにしか見えない綺麗な顔をしていた。それがどうしてここにいないのか。まさかと青ざめていく相澤の肩が背後から叩かれる。

「山田……」

「俺もさっき聞いた。別に何かあったわけじゃねェから心配すんな」

 顔中に不安さをにじませている相澤にこれを伝えるのはなかなか厳しいものがあると感じながら、山田は一度小さく息を吐き出してから真剣な顔をした。

「防人が目を覚ました」

目を見開く相澤に罪悪感のようなものを覚えながら山田は続ける。

「異常もなかったけど、まだ体が弱ってるから入院は必要だってよ」

「じゃあ、なんでここにいないんだ?」

理由が分からず眉間にしわを寄せる彼に、普段、非常によく動いている山田の口がぎこちなくなる。

「……お前にはもう会えねェって」

「桜がそう言ってんのか」

頷いた山田に相澤が俯く。どうして、目を覚ました彼女がそんなことを言い出したのか分からないが、自分には会う理由も、直接話さなくてはならないこともあると、彼は顔を上げた。
 強い決意の見える目をしている相澤に、山田は目を丸くさせる。しかし、そんな山田を放って彼は背を向けて歩き出した。

「訊かねェのか? 防人の病院」

そう問いかけられれば、相澤は足を止めたものの山田の方へは向き直らなかった。

「訊いても答えねぇんだろ」

すっと、相澤は少し遠くを見る。そして、自分に言い聞かせるように口を開いた。

「なら、アイツがまたヒーロー活動をするようになるまで待つ。それが一番合理的だ」

ポケットに両手を突っ込みながら歩いて行く背中を見送る山田からため息が小さく漏れる。これまで、この病院で何度も吐いたものとは違い、それには深い安堵が含まれていた。

「やーっと、腹括ったんだな」

 相澤が覚悟を決めたならもうそこまで心配をすることもないかもしれない。少しだけ肩の荷が下りたような心地で両手を上へ伸ばした山田は、ふぅっと力を抜く。

「でも、俺がいねーとアイツらダメダメだからなァ」

ニヤっと一つ笑うと山田も相澤が歩いて行った方へ進みだす。しばらくはまた防人の面倒を見なくてはならない。手続きも多そうだが、これの借りは必ず返してもらおうと思う彼の足取りは来る前と違って、とても軽かった。

***

「というわけで移籍だ」

「へ?」

 ぽかんとしている防人は折り紙をしていた手を止める。これがどういったものになるのか山田にはさっぱり分からないが、同じものがいくつもベッドの上を覆うような細長いテーブルの上に置かれていた。

「だーかーらー、イ・セ・キ! 事務所、移んだよ」

「山田先輩が?」

「お前が」

彼の両方の人差し指を向けられた彼女は、まだ呆けていて、ゆっくりと首を傾げる。

「あの、いつ、ですか?」

「ここ退院するときにはお前の所属がウチになるようにする」

思考が止まってしまった防人はまったく動かない。瞬きもしない彼女は"オイ"と声をかけられて、やっと我に返る。

「あ、ああ、途中でしたね」

折り紙を再開した彼女は、丁寧につけられた折筋に沿って器用に折り進めていく。

「オイコラ。現実逃避すんな」

 気まずそうに口を引き結ぶ防人のベッド脇にあるパイプ椅子に山田はドカリと腰掛けた。

「もうあの事務所には戻るな。次こそ死んじまうぞ」

「でも、その話は私が返事をしてからってことじゃありませんでした?」

 事務所を移るという話は、以前、山田がわざわざ事務所を訪ねてきたときに真剣に考えろと防人に持ってきたもの。その為、この話自体には驚いていなかった。
 苦笑いをする彼女の目をサングラスの奥の山田の目が睨むように見つめる。誤魔化すことを許さない雰囲気のあるその目に、防人は何も答えずに視線を流した。

「お前、本当に危なかったんだぞ。自分でも分かってんだろ」

「……分かってますよ。でも」

 今所属している事務所のことを考えると、それでいいのだろうかと気になってしまう。

「あのな、お前が聞かされてる話。ほとんど嘘だぞ」

「え?」

やっと自分を見た彼女に、まったくと言わんばかりに彼は目を伏せつつ口元に弧を描いた。

「昔のケガが原因でほとんどヒーロー活動ができないだの、子どもが病弱で出勤時間が不規則になるだのは全部嘘。まァ、資金繰りが上手くいかなくて事務所が潰れそうだってのは本当だったけどな」

差し出された書類を思わず受け取った防人に山田は"ここ"と一部を指さす。

「これ、未払いのお前の給料。ちゃんともらえるようにしといたから、受け取ったら何か驕れよ?」

そこに書かれているものをじっと見ていた彼女は、目頭を軽く揉んでもう一度確認する。

「嫌だなぁ、間違ってますよコレ」

「HAHAHA! 笑っちまうよな! 間違ってないんだぜ、コレ」

 あはは!と一緒にひとしきり笑ってから防人は、布団を引き上げながら潜り込もうとする。

「HEY! 防人! 無駄な抵抗は止めて現実見よーぜ!」

「だって、コレは……」

明らかに未成年の自分が持つことの許されないような額にしか思えない。もう一度確認して見ても、やはり同じ。何も変化はなかった。

「これはお前が働いた証拠だ。不正な金じゃねェ。そもそも、お前に渡してた給与明細も虚偽ばっかなんだぜ?」

「はあ……」

あまり実感のない話に気の抜けた返事をする彼女へ、山田はもう一つ話をしてやることにした。

「お前、気付いてなかっただろうけど、あそこの事務所の借金ほぼ完済しちまったし、新人一人で三人分の給料稼いでたんだぜ? ありえねェっつーの」

「………」

視線を紙面へ戻した防人は、これを受け取ってしまってあの事務所は大丈夫なのだろうかと考える。間違いなく彼らのやってきたことは自業自得なのだろうが、いきなり何もかもを失ってしまったらやり直すことも難しいのではないか。
 黙って俯く彼女の考えを見透かしたように山田は肩をすくめた。

「これは示談にしてある。だから真面目にやり直そうと思えばちゃんとできんだろ」

「そう、ですか」

ホッとしたような顔の彼女を見ながら、相澤が指摘した通りだと山田は感心していた。
 彼らには法に則ってきちんと罪を償ってもらうという選択肢もあった。本来はそのつもりだったのだが、相澤が"ある程度救済の余地を残さないと桜は気にするぞ"と言うので、今回の形に落ち着いた。まさしくその通りだったなと小さなため息を吐いた時だった。

 控えめに響いたノックに防人が返事をすると、六、七歳くらいの大人しそうな雰囲気をさせた子どもが入ってきた。その子は山田の姿を見るとびっくりした様子で、ドアの外側へと隠れてしまう。

「大丈夫ですよ。おいで」

彼女の声に迷った様子を見せた子どもは、山田から目を離さず背を向けないようにしながらベッドの近くまでやってきた。

「あの、できた?」

「もう少しです」

 ほら、と見せられた子どもは嬉しそうな顔をした後、ハッとしたように山田を気にして体を防人の方へ寄せる。

「HEY! シャイガール! 挨拶くらいしよーぜ!」

ハイテンションな山田に、むすっとした子どもは小さく"こんにちは"と漏らす。

「いい子ですね。偉い偉い」

挨拶をしたことを彼女に褒められて嬉し気に笑った子どもは、山田の視線に気づくとまた機嫌の悪そうな顔をする。

「なんだ? 今度はご機嫌ナナメだな」

「山田先輩、この子、男の子なんですよ」

半分顔を隠した少年は、苦笑いの防人の病衣を軽く掴みながらまだ山田を睨んでいた。

「マジか! ソーリー! 悪気はなかったんだって!」

「綺麗な顔だから間違えてしまっただけですよ。男らしくないとかではなく」

ね?と彼女に言われると少年はうん、と頷いて山田を睨むのを止める。そして、防人に甘えるように頭を寄せた。

「喉乾いてませんか?」

「乾いた」

 当たり前のように備え付けの冷蔵庫からパックジュースを取り出した彼女は少年に渡す。受け取った彼は小さくお礼を言うと遠慮なく飲み始めた。

「二人はどういう知り合いなんだ?」

「中庭で日向ぼっこをしていたら会ったんです。彼のお母さんがここに入院されていて、もうすぐお兄さんになるんですよ」

頷いた少年の頬は嬉しそうに赤くなっている。楽しみですねと防人に言われれば、またうん、と頷き返す。

「あ、そういえば、この前借りた本。面白かったです。ありがとうございました」

 お礼と一緒に彼女が彼に差し出したのは、ハードカバーの児童書。小学校の図書室から借りてきたような雰囲気の本は、子どもの頃であれば大抵の人が読んだことのあるものだった。

「また借りてくるね」

「楽しみにしています」

ジュースを飲み終えた少年はゴミになったそれを持ってドアへと駆け寄っていく。そして病室を出る前に防人へまたね、と手を振っていった。

「子どもによく懐かれんなァ、オイ」

「精神年齢が近いのかもしれませんね」

 笑っている彼女から、どこか無理をしている感じを受けて山田は小さく息を漏らす。そして、まだ彼女の膝の上に乗ったままの書類に指さした。

「ま、話を戻すけどよ。こことこことこことこことこことこことここにお前のハンコ、次に俺が来るまでに押しといてくれ」

「わ、分かりました」

七か所も押すところがあるのかと確認している防人を見てから、彼が立ち上がる。ギッと、パイプ椅子が小さく音を立てた。

「退院したら、よろしくな。じゃーな!」

病室を出て行く山田に、慌てて声をかける。

「山田先輩、ありがとうございます! あの、よろしくお願いします!」

振り返った山田はニッと大きく口元を笑わせた。

「ちゃんと休ませるけど、しっかりと働かせるから安心しろォ! だからそれまではゆっくり休んでんだな!」

 手を上げて、今度こそ山田は病室を出て行った。まるで悪人みたいなセリフだったなと防人は苦く笑って、すぐに視線を落とす。ゆっくりと目を閉じたら、とろんとした眠気を感じた。

(折り紙、もう少しで完成させられる、けど)

今はこの眠気に身を任せてしまおうと防人は体をベッドへ倒した。もうすぐ退院だ。その前にあの少年にお別れを言わなくてはと考えているうちに意識は沈んでいく。しばらくすると、防人は眠り始めた。

***

 書類仕事をしていた彼のスマホが通知で震える。届いたメッセージを確認すると相澤の表情が僅かに緩んだ。

『移籍の手続きも終わった。明後日、退院だ!!』

添えられた写真には、六、七歳ほどの子どもに折り紙のくす玉を渡している防人が写っていた。写真の中の彼女は笑っている。それがどこか寂しそうに見えるのが気になりつつも、今は何もしてやれない。

 長く息を吐き出しながら顔を上げる。そのまま相澤はゆっくりと目を閉じた。

(会いたい……)

昨日よりも強くなる気持ちに胸を締め付けられても、待つと決めた以上この痛みを受け入れるしかない。
 目を開ける。退院すれば、防人はきっとすぐに復帰するだろう。そうすれば会う機会は必ず来る。今は、それを待つしかないと相澤は書類の広がる机へと視線を戻す。下ろした視界の端には救急車の中で彼が切断した彼女の髪をずっと結っていた捕縛武器が置かれていた。

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