ちゃんと受け取って

 毎年、この時期は学校全体が浮かれている。浮かれているというより一部の生徒たちがそわそわしていた。少し校内を歩けば、普段よりもきゃあきゃあ騒いでいる女子生徒の声やこれまた普段以上に身なりを気にした男子生徒が視界に入る。

 2月14日。バレンタインデーは、自分には関係のないイベントだと思っていた。別に今も昔もそわそわすることはない。義理でもらうことは少ないがあるといえばある。しかし、必ず断っている。受け取れば必ずお返しを用意しなくてはならないし、それに時間を割く気が相澤にはない。

「相澤せんせー!」

 後ろからかけられた声に嫌な予感を覚えながら振り返る。そこには相澤の想像通り、紙袋を手にした女子生徒が駆け寄ってきていた。

「……何か用か?」

「分かってるくせにー」

どーぞと差し出された手のひらサイズのそれ。元のしかめっ面にある眉間のしわが更に深く刻まれる。

「俺はいいから、他の人にあげなさい」

「えー? せっかくの手作りですよー?」

不満げな顔をする女子生徒に相澤は頭を掻きながら小さくため息をこぼした。

「なら、なおさら受け取れないな」

「なんで?」

なかなか引き下がらない彼女はさらにチョコを突き出してくる。

「こういうイベントに乗る気がない。俺に渡そうと思ってくれた気持ちはもらっておく」

じゃあな、と言い残して相澤は職員室へ向かう。今日は早めに仕事終えて帰らなければならない。そのためにできる限り仕事に充てる時間が欲しくて、廊下を歩く彼の足は普段よりも早く動いていた。

 職員室へ戻る中、ふいに相澤は自身の学生時代を思い出し始める。軽く目を閉じれば、まだ雄英の制服を着ていた頃の彼女が自分に笑いかけている。それだけでやる気がふつふつと出てきた。

***

 ざわざわと平常時よりも騒がしい校内。教室の中では友チョコだなんだと聞こえてくる。他にも、誰が誰にチョコをもらっただの、隣のクラスのやつが呼び出されただのといった会話が飛び交っている。

 昨年は間違いなく関係がなかった。自席でうとうととしている相澤にとってそれは間違いのないこと。ただ、今年はどうなんだろうかと気にならないわけではない。

 一学年下の防人桜。他の学年にもその存在を知らないものはないほどの優れた容姿の彼女と相澤が付き合っていることはあまり知られていない。隠しているわけではないが、二人は周囲にあれこれ言われるのが好きではない。理由はそれだけだった。
 ポケットに入れているケータイが震える。体を起こして、眠たげな目でケータイの画面を開けると、それまでの眠気がどこかに行った。

『今日のお昼はご一緒しませんか?』

用件だけの短い文章は相澤の好むもの。そのメッセージを微笑ましく感じているものの、彼の些細な表情の変化に気づく者はいない。

『わかった』

短く返信をしてまた机に突っ伏すように眠る。少しだけ昼の時間が楽しみだった。

 そして、昼。どうしてか人があまり来ることのない中庭のベンチに彼らは集まっていた。

「なんでお前までいるんだよ」

「なんだァ? 嫉妬か? ヨユーねぇな」

HAHAHA!と笑う山田を睨みつける。間違っていないからこそ言い当てられると腹が立った。

「たまにはいいじゃないですか」

 彼女ににこっと笑いかけられてしまうと文句も言いにくい相澤は、フン、と視線を左下へと逃がした。

「まあまあ。はい、コレ」

差し出された小さなトートバッグを当たり前のように受け取った彼に山田がニヤニヤと笑いながら近寄る。

「お、バレンタインのアレか? ったく、羨ましいな!」

「お前、さんざん他のやつからもらってたろ」

 あんなにいくつももらっておいてまだ欲しいのか、と呆れる相澤に山田はチッチッと舌を鳴らしながら指を振った。

「分かってねーな。可愛い子からもらうチョコは別なんだよ。スペシャルなワケ。Do you know?」

「そんなもんか?」

至極どうでもよさそうな相澤は、防人から渡されたそれに目を落とす。

「でも、これはそういうんじゃない」

「え?」

覗き込んできた山田に構わず、慣れた手つきで彼は包みを解く。中から出てきたのは、ご飯とおかずの詰まっている普通の弁当だ。

「ただのお弁当ですよ」

 静かだと思っていた彼女は我慢しきれなくなって、くつくつとおかしそうに笑っていた。何も言わず見てくる相澤の目に"バーカ"と言われている気がして、山田は大袈裟に頭を抱えて見せた。

「マジかァ!! 俺はそういうことで呼び出されたのかと思ってたってーのに!!」

「あ、いえ。山田先輩をお呼び立てしたのはそういうことですよ」

え?と見てきたのは山田だけでなく相澤も同じだった。あまりにも同じタイミングで自分の方を見てきたものだから防人はまたおかしそうに肩を揺らす。

「でも、今は先にご飯にしましょうか」

 綺麗な動きで両手を合わせた彼女が"いただきます"と言うと、同じように相澤も手を合わせてから弁当を食べ始めた。二人の食べる様子をちらりと見てから山田も昼食に手をつける。
 彼女の作った弁当を無言で食べているものの、相澤の表情が教室で見ているものよりも柔らかい。なんだか込み上げてきそうになる安堵の笑みと一緒に、山田は食事を飲み込んだ。

 食べながら話す昼食は思ったよりも早く終わり、食後のデザートにと防人はリンゴを相澤と山田の二人に差し出した。

「少しですが、どうぞつまんでください」

サクサクしていて美味しいですよと微笑む彼女言った通り、勧められたリンゴはサクサクとみずみずしかった。

「美味しいですか?」

「ああ」

そう相澤が答えれば、やはり防人はほのかに嬉しそうな顔をしている。その様子を山田が微笑ましく見ていれば、彼女が不意に振り返った。

「山田先輩、コレ。いつもお世話になっています」

 差し出された小さな紙袋は先ほど相澤に渡したものとは違う。

「お! サンキュー!! やっぱ、可愛い子からもらうのは違うよなァ」

「山田先輩はお世辞ばかりですね」

そんなにお世辞をもらってもチョコはそれだけですよ、なんて笑っている防人に山田はオイオイと苦い顔をする。

「俺以外にもしょっちゅう言われんだろ? ホラ」

コイツとかと言外に匂わせて山田が両手の指で相澤を差す。きょとんとしてから考えるような仕草を見せる彼女とは対照的に、指を差されている彼はマズいとばかりに顔を逸らした。

「……そう、いえば?」

確認するように相澤へ首を傾げた防人に、山田は唖然とした顔をする。

「嘘だろ……。お前よくフラれねーな」

「別にわざわざ言葉にしなくても……」

もごもご言い訳のように呟いた相澤の声は幸い防人には聞こえなかったようだ。彼女は足元に寄ってきた猫に何かを話しかけている。

「いいか、よく聞いとけ」

 ぐいっと彼の首に腕を回した山田は、猫とじゃれ始めた防人をちらりと横目で確認すると声を潜めた。

「何にも言わなくても分かってもらえるなんてのは男の勝手な思い込みだ。女は言葉を欲しがってんだよ」

「お前、それどこの雑誌で覚えた?」

訝し気な目を向けられても山田はどこ吹く風で続ける。

「いいから、ちゃんと言ってみろって。防人が喜ぶなら悪い気ははしないだろォ?」

やっと首を解放された相澤は、まだ怪しむような目を山田に向けていた。

「防人、これサンキューな。それじゃあ、あとはお二人で」

「あ、はい。それでは、また」

完全に猫に夢中になっていた彼女はびっくりした様子で山田を見送る。そして残された相澤に振り返った。

「どうかしました?」

「いや、その……」

 いまだに言えないでいる"可愛い"という言葉。それを伝えたら防人は喜ぶのだろうか。迷う相澤に不思議そうに首を傾げた彼女の膝から猫がするりと下りて、そのまま茂みの中へと走って行ってしまった。

「あ……」

猫を追いかけた寂しそうな目と声に、相澤は開きかけていた口を閉じる。どのタイミングで、どう伝えればいいのか、まったく分からないことに戸惑っていた。

「行っちゃいましたね」

仕方ないと苦笑いした彼女は、相澤へ視線を向ける。

「……消太くん、さっき山田先輩にちょっと妬いてました?」

 どきりとしたのが顔に出た自覚が彼にはある。恐る恐る防人を見てみれば、彼女はくすっと眉を下げて笑った。

「分かりやすく目に出てましたよ」

「……悪いか」

見抜かれたばつの悪さで頬を微かに染めた相澤の口調は小さく拗ねたようなものだった。

「いいえ?」

目を伏せた彼女の髪が風に揺れる。髪が乱れないように押さえているだけなのに、防人は不思議なほど印象的だった。

「言葉をもらわなくても、私は消太くんに好かれてるんだなって嬉しくなりました」

 言葉に詰まった相澤は見開いた目で彼女を見つめる。先ほどの山田との会話が聞こえていたのか。それとも、偶然そんなことを言ったのか。驚いている彼に彼女は首を傾げた。

「あの?」

「……なんでもない」

こういう不思議と察してくれるところにいつも救われている。じんわりとしている胸の暖かさを感じながら相澤は目を閉じて、小さくフッと笑う。

「そろそろ俺も行く。弁当、ありがとうな」

 残った昼休みで自主訓練に行こうとする相澤が立ち上がると、防人も慌てて立ち上がる。

「ま、待ってください!」

制服の裾を掴んで引き留めてきた彼女の勢いに驚く。どうかしたのかと彼が顔を見てみれば目と目が合い、防人の顔に一気に赤が差す。

「桜?」

「あ、あの……コレ……」

おずおずと差し出してきたのは小さなトートバッグ。それは先ほどの弁当が入っていたものよりも小さい。受け取ろうと伸ばした手が触れ合ったとき、彼女の手が緊張で震えていることに彼は気づいた。

「一応、バレンタインのつもりです。本命の……」

「見てもいいのか?」

「はい」

 小さな声で頷いた防人に渡されたトートバッグ。中に入れてある箱を取り出して開けてみれば、そこには予想していないものがあった。
 目を瞬かせている相澤に防人はもじもじと恥ずかしそうにしながら口を動かす。

「すみません。練習したんですけど、どうしても上手くできなくて……」

俯きがちな彼女が上目で彼の反応を見る。不安そうな顔をしている防人が可愛らしくて、相澤は無意識に目を細めていた。微笑んだ彼に目を奪われていた彼女は、とても嬉しそうに頬を染めて同じように微笑む。
 箱の中に目を落とした相澤の雰囲気は間違いなく柔らかだった。

***

 職員室に響くタイピングの音。それはここにいる者であれば聞き慣れたものだが、間隔が普段よりも一段と早い。周囲の事情を分かっている者以外は不思議そうに相澤を見ている。

「相澤くん、そんなに仕事が詰まってるの? なにか手伝う?」

 パソコン画面を睨んで軽く目を充血させている相澤を香山は見かねて声をかけた。

「いえ、大丈夫です。お気遣いなく」

画面からまったく目を逸らさずに返事をした彼の指はカタカタと一定の音を立て続けている。気迫すら感じるその様子に香山が"そう?"とあっさり引き下がると山田がコーヒーを片手に現れた。

「気にしなくっていいっスよ。どうせ、早く帰りたくって必死こいてるだけなんスから」

 コーヒーの香りを楽しむように嗅いでから彼は一口含む。分かっている様子の山田に香山は首を傾げた。

「何か用事でもあるの? 本当に大丈夫?」

「個人的なものなので大丈夫です」

不思議そうにしている香山へ山田が含み笑いを向けた。

「用事って、今日バレンタインじゃないっスか」

バレンタイン?と首を傾げる。こういったイベントごとに相澤が興味を持つとは思えない。しかしすぐに彼女のことに思い至る。

「ああ、防人さんね」

 デビューした頃はなんだか危なっかしい印象が強かった彼女も今では頼れるヒーローの一人だ。相変わらずメディアの前には姿を見せず、性別も非公開にしている防人は、今、大急ぎで仕事を熟す相澤の唯一の人。そう学生時代に聞かされたときの驚きと興味深さは、今も香山の好奇心をくすぐり続けている。

「イチャイチャしたいんスよ。な、イレイザー!」

「……そこのゴミ箱の中に桜から預かってきたお前のチョコ入れとくから後で拾っとけ」

 シヴィー!と叫んだ山田を無視しながら相澤は片手をキーボードに走らせながらゼリー飲料をジュッと飲み込んだ。
ちらりと時間を確認する。このペースならば今日は間違いなく定時で上がれる。それに明日の休日も仕事をしなくてすむだろう。
 いつもよりも速く響くキーボードの音には彼の逸る気持ちが隠れている。そんな相澤を香山は穏やかな気持ちと面白そうなものへ向ける眼差しで見守っていた。

***

 しっかりと定時に上がった相澤は、真っ直ぐに防人の家に向かう。いつもよりもずっと速く動いてしまう彼の足は、ふと目に入ったそれに緩やかに止まった。じっとそこに立ち止まって考える相澤の脳裏に、防人と出会って最初のバレンタインのことが蘇る。言葉も満足に伝えられなかったあの頃、行動で示すしかないと思っていた。今だって、言葉にするよりは行動で想いを示したい。
 頭を掻いてため息を一つ吐く。そして、彼は首に巻いた捕縛武器に鼻の辺りまで顔を埋めた。どことなくその顔は恥ずかしそうに赤らんでいた。


 割と頻繁に訪れている彼女の家。ここに来るまでに相澤の気恥ずかしさはこれ以上にないほど高まっていた。ドアに合鍵を差し込もうとすると、先に内側から開けられる。

「おかえりなさい」

にっこりと笑った防人に出迎えられた相澤も表情が和らぐ。

「ああ、ただいま」

嬉しそうな声を漏らした彼女が彼の手を引いた。前のめりになりながら家の中に入った彼にはどこか慣れた様子がある。

「お、おい。引っ張るなって」

「だって、早く帰って来てくれて嬉しいんですもん」

 はしゃいでいる防人の目に相澤が背に隠していたものが映る。渡すタイミングを計ろうとしていた彼は帰って早々に見つかってしまったことに、げっと顔を引きつらせた。首を傾げている彼女は彼の背中を覗き込んでいた顔をだんだんと上げる。

「消太さん、それ……」

 もう見つかってしまったのだから隠しても意味はない。決まりの悪さから防人の顔を見られないでいる相澤は目を逸らす。しかし、その顔は面映ゆそうに淡く染まっている。

「……ほら」

背中から出したそれを彼女へ差し出す。目の前のそれを驚いた目で見つめた防人は相澤の顔を見てからゆるゆるとした手つきで受け取った。

「凄い。初めてもらいました……」

 放心した様子の彼女は手にあるそれをじっと見つめて動かない。しばらく見ていた防人の頬が緩むと、相澤の胸はどきりと跳ねた。

「嬉しいです。ありがとうございます」

受け取った薔薇の花束に顔を寄せて微笑む彼女に彼は頷くことしかできない。偶然目についたあのフラワーショップに入ってよかったとこの笑みに強く思わされた。

「……知ってますか? 薔薇は本数で花言葉が変わるそうです。これの場合は―――」

知らないだろうと思っている防人は目を伏せていて、淡く染まった頬に長いまつ毛の影を落としている。言わなくてはいけない。自分はもう学生の頃とは違うのだと、相澤は恥ずかしさで怯みそうになる気持ちを奮い起こす。

「―――愛してる」

 目を見張らせている彼女を赤くなった顔で彼は正面から見つめた。三本しかない花束と呼べるのかと疑問に思った深紅の薔薇たちは間違いなく相澤の防人への気持ち。

「ちゃんと知ってて、お前に渡してる」

今にも泣き出してしまいそうなほど眉を下げた彼女は頬を染めながら嬉し気に笑った。この顔を見られるのは自分だけ。その事実に瞬きを忘れるほど彼は彼女に見入る。

「私も渡すものがあるんです」

 早く早くと防人に手を引かれた相澤がリビングに入る。彼女は大事に抱えていた薔薇をそっとテーブルに置くと、キッチンから15センチほどの箱を持って出てきた。

「消太さん、コレ」

差し出したものは毎年変わらない。変わっていない中身でも、いつも防人は渡すときに緊張せずにいられなかった。今年こそ飽きられてしまったかもしれないと思いながら、初めて相澤に渡したときの笑みが忘れられなくて同じものを作ってしまう。

「ありがとな」

 両手で丁寧に受け取った相澤の表情が柔らかになる。嬉しそうにも見える彼は、迷わずに漆塗りの箱を開けた。カパッと音を立てた蓋の下から出てきたものに、相澤は防人の見たかった微笑みを浮かべる。彼女が自分をじっと見ていることに気づいた彼は微笑みを意地悪いものへと変えた。

「義理じゃないよな?」

ニヤっと笑う相澤に、きょとんとした防人はくすりと返す。

「消太さんが他にチョコをもらってなければ本命です」

「分かってんだろ」

不機嫌そうに眉根を寄せた彼はくすくすと笑っている彼女へ不快感を訴えるように睨む。

「ええ、分かってますよ。なんだかんだ消太さんにチョコを渡そうとする女子生徒さんがいらっしゃること」

そうじゃないと更にしわを深くさせる相澤の眉間を防人の指が押さえるように触れた。

「……分かってますよ。消太さんが私を想ってくれてることも、ちゃんと」

ふふ、と笑った彼女の指が離れる。ため息を吐きたい気持ちを飲み込んで相澤は目を逸らす。こういうとき、どうしてか防人に勝てる自信がなかった。

「じゃあ、本命だな」

「ちゃんと本命になってよかったです。ヤキモチ妬かされるとこでした」

肩をすくめてみせた彼女に我慢していたため息を鼻から小さく吐き出す。そして、また手元の箱の中に視線を下ろす。
 箱の中には初めてもらったときと同じ、こしあんでできたぼたもちの黒猫と白猫がある。どうしてもチョコレートで何かを作るのは上手くいかなかった防人が代わりにと作ってきたもの。最初はこれがどれほど手がかかったものか知らずに食べてしまった。後日、なんとなく気になって調べてみれば、手作りのこしあんの手間に驚愕した。そしてそれを作ってくれる彼女にどれほど自分が想われているのかを知るには十分すぎる。

「来年はチョコにした方がいいですか……?」

 自信がなさそうに閉じられている防人の唇。片手で彼女の頬を包みながら、慰めるようにその唇を相澤の親指が撫でる。

「バレンタインに食うぼたもちは美味い。知らないのか?」

ニヤニヤと笑う彼に彼女は"そうですね"と言いながら手を伸ばす。相澤のものよりも白く細い手が彼の頬に添えられる。勝手に高鳴っていく鼓動を聞いている相澤に防人が微笑む。

「大好きです。消太さん」

あの日のバレンタインと同じセリフはこれまで何度も聞いてきている。そのたびに胸が奥底から嬉しさで震えた。彼女の頬に触れている手を僅かに引いて、自分の目を見るように促す。素直に従った防人に顔を寄せた相澤は小さな声で頼んだ。

「愛してるって言ってくれ、桜」

切実さを孕んだ声に防人は見開いた目を愛し気に細めていく。そして、おもむろに彼を見上げて口を動かす。

「それはまだお預けです」

 くすっと笑った彼女が逃げるようにキッチンへ戻っていく。その後ろ姿を見送ってしまった彼は詰まらなさそうに口を捕縛武器の中で尖らせた。
 薔薇を生ける為に花瓶を用意したりと忙しそうに動き始めた防人に、少しだけがっかりとした気持ちでぼたもちの入った箱に蓋をする。食べる前に写真を撮るのを忘れないようにしようと思いながらテーブルに置くと、後ろから、ぎゅっと相澤は抱きしめられた。

「愛してますよ、消太さん」

"知ってるでしょう?"と笑う防人の声が後ろから聞こえてくる。

(ヤラれた)

顔中が熱くて仕方ない彼は、真っ赤になってしまった顔を俯かせて捕縛武器の中に隠す。

「……不意打ちはズルいだろ」

「甘いですねェ、ヒーロー」

可愛らしく聞こえてくる笑い声に、はぁっと息を吐き出す。目を閉じたまま穏やかな笑みを浮かべている相澤は自分の腰に回る腕に手を添えた。

「まいった」

まだ聞こえてくる防人の控えめな笑い声は、振り返った相澤の口に塞がれて止められてしまった。
 彼女への想いは言葉にできない。無理やり言葉に変換すると、とてもちっぽけで軽いものに思われてしまうのが嫌だった。しかし、今は言葉にすることも大事なのだと理解できる。

 "愛している"と言われて内心、強く喜んでいる自分を感じている相澤の胸に、何も知らない防人はそっと頬を寄せた。彼女の頭を彼の無骨な手が撫でる。嬉しそうに目を細める防人を相澤はさらにしっかりと抱きしめていた。

「なあ、もう一回言ってくれ」

もっと欲しくなってしまう甘い言葉。誰にも見せないであろう、甘えてくる彼に彼女は頷く。

「何度でも言いますから、ちゃんと受け取ってくださいね」

END
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