あの顔が大好きだった
会いたいと思ったら、声を聞きたいと願ったら、この夢から覚めてしまうのではないか。今の防人にはそれが怖かった。どのみち、夢から覚めたってもう相澤には会えない。彼の傍にはもう自分ではない女性がいて、その人と生涯を共にしていくのだろう。
(本当は、私がずっと傍にいたかった……)
ぎゅうっときつく痛む胸の辺りを手で押さえても彼女の苦しみはちっとも癒えない。泣いて乱れた呼吸で更に苦しくなっていくだけだった。
もう会うことができないのなら、それはこの夢の中と同じで、彼を自分の中に存在させてはいけないということなのかもしれない。それならいっそ、ずっとこのまま夢を見続けていたい。ここで過ごすうちに彼のことを忘れてしまえたのならどれほどいいかと思うと、防人の涙はまた勝手に溢れてしまった。
「桜? 泣いているの?」
ハッとして彼女が顔を上げると、酷く心配した様子の父が部屋の戸を開けたところだった。
「何か、あった?」
「父、様……!」
駆け寄って抱き着いてきた娘を、彼は何も言わずに抱き留めた。
「父様、父様……!」
「ここにいるよ」
背を撫でてくれる手も、抱きしめてくれる温もりも確かにここにある。それなのに、ここは夢なのだと気づいてしまった。初めは分かっていた不自然さはいつの間にか分からなくなって、何も感じなくなっていたのに、現実世界の防人にとっての最愛の人がここが夢だと気づかせた。
決して出てきてはくれないくせに、忘れることも許してはくれない。本当にどこまでもズルい人だと思えば思うほど、彼女は涙を止められなかった。
「……今日は三人で寝ようか」
頷いた防人の頭を撫でる彼の顔は穏やかさと寂しさを含んでいて、その目にはすべてを受け入れているようだった。
***
父に連れられた防人が両親の寝室まで来ると、まるで来るのを知っていたかのように母が内側から戸を開いた。
「いらっしゃい」
にっこりと微笑む母が彼女の手を取る。父から引き渡されるように防人の体は母の腕の中に納まった。
「今夜はたくさんお話しましょう。貴女が安心できるまで」
強く抱きしめてきた母の寝間着を彼女は縋るように握って頷く。勝手に涙が流れる今は、口を開くとまた声を上げてしまいそうだった。
両親の敷布団を二つくっつけて、三人で横になる。守られるように防人は両親の間へと入った。
「寒くない?」
「父様こそ、背中が少し出てしまっているんじゃないですか?」
心配して聞いてきた娘へ穏やかな目を向けた父は何も答えずに抱きしめる。
「大丈夫、こうすればあったかいから」
おいで、と声をかけられた母も、防人を抱きしめる父の腕の中へと潜り込む。
「ああ、本当。温かいですね」
ふふふ、と笑う母に父の嬉しそうな雰囲気が伝わってくると、彼女の寂しさは僅かに紛らわされ幸せを感じた。もう戻ってくることのない過去の幸せだったもの。それがこの夢の中には確かにあるのだと、母の手を握り、父の胸に顔を埋めながら防人は噛みしめていた。
「寝ちゃダメだよ、桜。ちゃんと話そう」
分かっているくせに、こうして誤魔化すような優しい言葉を父は昔からかけてくれた。そのことが嬉しいようなおかしいような気持ちになりながら、彼女はうん、と頷く。
「泣いていた理由、話せる?」
言いたくない。きっと口にしたら目が覚めてしまう。それが怖くて、防人の体が強張る。
「……ねぇ、桜さん。私たちはいつでも一緒なんですよ」
教えるような母の口調に誘われるように、彼女は振り返る。自分の夫によく似ていると思う防人の目元を拭いながら、母は穏やかに微笑む。
「例え、もう会えないとしても、貴女は私の愛した人の半分で、私の半分でもあるから、だから離れ離れになることはないの」
「離、れ……?」
喉がひくついて上手く話せない彼女は、何を言っているのかと思いながらじっと母を見つめた。
「そう。ずっと一緒なのだから、何も怖いことはないでしょう?」
ね?と慰めるような母にの声が、乱れている心に沁みる。もしかしなくても、両親もここが夢の中で、この時間が長く続かないことを知っているのだと防人は察した。
「……ねえ、桜の好きな人がどんな人なのか、俺たちに話してよ」
ゆっくりと父の腕が緩み、防人にかかっている掛け布団の上から両親は組むようにお互いの手を繋ぐ。
「父様に似ていますか?」
母の問いかけに首を振ると、彼女は涙を拭いて仰向けに寝返りを打つ。目を閉じてからゆっくりと開く。その短い時間で防人は、もうこの優しい時間が終わってしまうのを止められないのだと受け入れた。
「……愛想なんか全然なくて、ぶっらきらぼうでしかめ面ばかりで」
一つ思い出すとするすると出てくる彼との思い出。またじんわりと目に涙が溜まってくるのを感じながらも彼女は笑う。
「少しからかうと顔を真っ赤にして、恥ずかしがったり照れたり……」
"からかうな"と訴えてくる顔を赤くさせた相澤の目を妙にはっきりと思い出す。あの顔が大好きで仕方なかったなと思うとさらに目が熱くなっていった。
「よく気が付いて、いろいろ考えすぎてしまうからすぐに行動に出られなかったりするけど、本当に誰よりも優しくて、あたたかくて……」
こぼれる涙を見られないように、掛け布団へ顔を埋めようとする防人に母が嬉しそうに目を細める。
「心の底から大好きになれる人に会えたんですね」
母に言われて彼女は初めて気づいたような衝撃を受けた。当たり前すぎてきちんと自覚することができていなかったけれど、母の言う通り防人桜にとって相澤消太はそういう存在だ。
「……はい」
今さら自覚したって意味なんかないのかもしれないけれど、そんな思いを心の隅に置きながら母へ微笑み返すと、隣から深いため息が聞こえた。
「面白くないなぁ、もう」
拗ねたような顔をしている父に母があらあらと笑う。
「あの……?」
なんでと思っている彼女にむすっとしている父ではなく、おかしそうに笑っている母が代わりに答えた。
「桜さんに好きな人ができてしまっただけでも寂しいのに、自分に全然似ていない人を好きになられてしまったものだから悔しいんですよ」
「……なんで君は全部話しちゃうかな」
言い当てられてばつが悪い父は母に悔しそうな目を向けている。その目を受けて母がくすくすと小さく笑った。
「だって、理由も分からずにアナタに機嫌を悪くされたと思わせたら可哀そうじゃないですか」
「それはまあ、そうだけど……」
理解はできるが納得していない様子の父は大きなため息を吐いて口を尖らせる。
「なんか、もうお嫁に出す気分だ」
嫌だなぁと言う父に防人は悲し気に目を伏せてから、無理やりに笑って明るい口調で言ってみせる。
「お嫁になんていけませんよ。もうフラれちゃいましたから」
目を瞬かせた父は、安堵ではなく悲しそうな顔をする。しかし、母は彼女の頭を撫でながら何でもないような口ぶりだった。
「随分と見る目がないんですね。私たちの可愛い子を振ってしまうなんて」
「……私が弱いから、いけなかったんです。年下で頼れないから、消太くんにツラい思いばかりさせてしまって」
あははといつもの誤魔化し笑いをすると、見た目よりもしっかりとした父の腕が防人の頭を抱きしめるように回った。
「その子を好きになったこと、後悔してる……?」
先ほどのものとは違い、真剣な父の声音。その声で訊かれたことは考えるまでもなかった。
「いいえ」
確かに今は苦しいけれど、相澤を好きになったことを悔いたことはない。彼を好きになったから得られたものが多い。そう思うと、胸があたたかくなっていくのを感じた。
(そうだ。私は、消太くんからもらったものがあれば一人で生きていける)
寂しい気持ちはまだあるけれど、前を向こうと思える。自分を包む両親の手に触れると、二人は安心したように微笑んだ。
「もう、大丈夫?」
頷いて返事をすれば、父は安心に寂しさを混ぜた顔をする。
「ちゃんと、ご飯は三食食べるんですよ」
「はい」
頭を撫でてくれる母に笑みを返す。やはり、母も父と同じような顔をしていた。
「さ、おやすみなさい」
目を閉じるように促されて、防人は素直に従う。意識が完全に落ちる寸前、父と母の会話が聞こえた気がした。
「元気でいてね。俺たちの桜」
「寂しいときは思い出してください。私たちは半分ずつ、貴女の中にいますから」
重くてもう瞼を開けられなかった。これでこの夢とはさよならなのだと防人にもしっかりと感じられた。
***
重い瞼を押し上げて開いた視界に入ってきたのは、眩しい光だった。また閉じてしまいそうなのを堪えて、しばらくぼうっとしていればだんだんと自分が見ているものがどこかの天井であるのだと気づいた。
自分を覗き込んでいる人が誰だか分かると防人は苦く笑う。
「そんな顔しないでくださいよ」
随分と使っていなかった彼女の喉から出た声は酷くぎこちなかった。その声が久々に見た先輩の目に薄っすらと涙を張る。
「待ってて、すぐに先生を呼ぶから」
涙目の香山をぼんやりと見ていた防人は、顔を動かすと自分がどういう状況なのか確認し始めた。
腕から伸びている細い点滴の管、そして次にベッドの傍に置かれているパイプ椅子に目が行く。不思議と気になるそのパイプ椅子を見つめている彼女に気づいた香山の口調は、少し気を遣うような響きがあった。
「相澤くんが、ほとんど付きっ切りだったの」
見開かれた目を向けられた香山は"そういえば山田も交代で来てたらしいわ"と、小さく笑う。こんな言い方をしたのは防人が入院していることを山田がすぐに教えてくれなかったことへの香山の不満が込められていた。
足音が近づいてくるのを感じて、彼女は覗き込むようにしていた防人のベッドから離れた。
「先生も来たようだし、私はあの二人にアナタが目を覚ましたって連絡してくるわね」
見せるように持ったスマホで手を上げた香山に"あの!"と防人の声がかけられる。
「お願いします。相澤先輩には言わないでください」
なんでと香山が聞き返す前に、防人の担当医師が病室へ入ってきた。一度、退室願いますと看護師に言われてしまった香山に彼女は申し訳なさそうな視線を送る。
ドアが閉められてしまい防人の姿が見えなくなると、香山は困ったように自分のスマホへ視線を落とす。
「……上手くいってないの?」
はあっ、と出た香山の深いため息は病院の廊下へと消えていった。
-33-(本当は、私がずっと傍にいたかった……)
ぎゅうっときつく痛む胸の辺りを手で押さえても彼女の苦しみはちっとも癒えない。泣いて乱れた呼吸で更に苦しくなっていくだけだった。
もう会うことができないのなら、それはこの夢の中と同じで、彼を自分の中に存在させてはいけないということなのかもしれない。それならいっそ、ずっとこのまま夢を見続けていたい。ここで過ごすうちに彼のことを忘れてしまえたのならどれほどいいかと思うと、防人の涙はまた勝手に溢れてしまった。
「桜? 泣いているの?」
ハッとして彼女が顔を上げると、酷く心配した様子の父が部屋の戸を開けたところだった。
「何か、あった?」
「父、様……!」
駆け寄って抱き着いてきた娘を、彼は何も言わずに抱き留めた。
「父様、父様……!」
「ここにいるよ」
背を撫でてくれる手も、抱きしめてくれる温もりも確かにここにある。それなのに、ここは夢なのだと気づいてしまった。初めは分かっていた不自然さはいつの間にか分からなくなって、何も感じなくなっていたのに、現実世界の防人にとっての最愛の人がここが夢だと気づかせた。
決して出てきてはくれないくせに、忘れることも許してはくれない。本当にどこまでもズルい人だと思えば思うほど、彼女は涙を止められなかった。
「……今日は三人で寝ようか」
頷いた防人の頭を撫でる彼の顔は穏やかさと寂しさを含んでいて、その目にはすべてを受け入れているようだった。
***
父に連れられた防人が両親の寝室まで来ると、まるで来るのを知っていたかのように母が内側から戸を開いた。
「いらっしゃい」
にっこりと微笑む母が彼女の手を取る。父から引き渡されるように防人の体は母の腕の中に納まった。
「今夜はたくさんお話しましょう。貴女が安心できるまで」
強く抱きしめてきた母の寝間着を彼女は縋るように握って頷く。勝手に涙が流れる今は、口を開くとまた声を上げてしまいそうだった。
両親の敷布団を二つくっつけて、三人で横になる。守られるように防人は両親の間へと入った。
「寒くない?」
「父様こそ、背中が少し出てしまっているんじゃないですか?」
心配して聞いてきた娘へ穏やかな目を向けた父は何も答えずに抱きしめる。
「大丈夫、こうすればあったかいから」
おいで、と声をかけられた母も、防人を抱きしめる父の腕の中へと潜り込む。
「ああ、本当。温かいですね」
ふふふ、と笑う母に父の嬉しそうな雰囲気が伝わってくると、彼女の寂しさは僅かに紛らわされ幸せを感じた。もう戻ってくることのない過去の幸せだったもの。それがこの夢の中には確かにあるのだと、母の手を握り、父の胸に顔を埋めながら防人は噛みしめていた。
「寝ちゃダメだよ、桜。ちゃんと話そう」
分かっているくせに、こうして誤魔化すような優しい言葉を父は昔からかけてくれた。そのことが嬉しいようなおかしいような気持ちになりながら、彼女はうん、と頷く。
「泣いていた理由、話せる?」
言いたくない。きっと口にしたら目が覚めてしまう。それが怖くて、防人の体が強張る。
「……ねぇ、桜さん。私たちはいつでも一緒なんですよ」
教えるような母の口調に誘われるように、彼女は振り返る。自分の夫によく似ていると思う防人の目元を拭いながら、母は穏やかに微笑む。
「例え、もう会えないとしても、貴女は私の愛した人の半分で、私の半分でもあるから、だから離れ離れになることはないの」
「離、れ……?」
喉がひくついて上手く話せない彼女は、何を言っているのかと思いながらじっと母を見つめた。
「そう。ずっと一緒なのだから、何も怖いことはないでしょう?」
ね?と慰めるような母にの声が、乱れている心に沁みる。もしかしなくても、両親もここが夢の中で、この時間が長く続かないことを知っているのだと防人は察した。
「……ねえ、桜の好きな人がどんな人なのか、俺たちに話してよ」
ゆっくりと父の腕が緩み、防人にかかっている掛け布団の上から両親は組むようにお互いの手を繋ぐ。
「父様に似ていますか?」
母の問いかけに首を振ると、彼女は涙を拭いて仰向けに寝返りを打つ。目を閉じてからゆっくりと開く。その短い時間で防人は、もうこの優しい時間が終わってしまうのを止められないのだと受け入れた。
「……愛想なんか全然なくて、ぶっらきらぼうでしかめ面ばかりで」
一つ思い出すとするすると出てくる彼との思い出。またじんわりと目に涙が溜まってくるのを感じながらも彼女は笑う。
「少しからかうと顔を真っ赤にして、恥ずかしがったり照れたり……」
"からかうな"と訴えてくる顔を赤くさせた相澤の目を妙にはっきりと思い出す。あの顔が大好きで仕方なかったなと思うとさらに目が熱くなっていった。
「よく気が付いて、いろいろ考えすぎてしまうからすぐに行動に出られなかったりするけど、本当に誰よりも優しくて、あたたかくて……」
こぼれる涙を見られないように、掛け布団へ顔を埋めようとする防人に母が嬉しそうに目を細める。
「心の底から大好きになれる人に会えたんですね」
母に言われて彼女は初めて気づいたような衝撃を受けた。当たり前すぎてきちんと自覚することができていなかったけれど、母の言う通り防人桜にとって相澤消太はそういう存在だ。
「……はい」
今さら自覚したって意味なんかないのかもしれないけれど、そんな思いを心の隅に置きながら母へ微笑み返すと、隣から深いため息が聞こえた。
「面白くないなぁ、もう」
拗ねたような顔をしている父に母があらあらと笑う。
「あの……?」
なんでと思っている彼女にむすっとしている父ではなく、おかしそうに笑っている母が代わりに答えた。
「桜さんに好きな人ができてしまっただけでも寂しいのに、自分に全然似ていない人を好きになられてしまったものだから悔しいんですよ」
「……なんで君は全部話しちゃうかな」
言い当てられてばつが悪い父は母に悔しそうな目を向けている。その目を受けて母がくすくすと小さく笑った。
「だって、理由も分からずにアナタに機嫌を悪くされたと思わせたら可哀そうじゃないですか」
「それはまあ、そうだけど……」
理解はできるが納得していない様子の父は大きなため息を吐いて口を尖らせる。
「なんか、もうお嫁に出す気分だ」
嫌だなぁと言う父に防人は悲し気に目を伏せてから、無理やりに笑って明るい口調で言ってみせる。
「お嫁になんていけませんよ。もうフラれちゃいましたから」
目を瞬かせた父は、安堵ではなく悲しそうな顔をする。しかし、母は彼女の頭を撫でながら何でもないような口ぶりだった。
「随分と見る目がないんですね。私たちの可愛い子を振ってしまうなんて」
「……私が弱いから、いけなかったんです。年下で頼れないから、消太くんにツラい思いばかりさせてしまって」
あははといつもの誤魔化し笑いをすると、見た目よりもしっかりとした父の腕が防人の頭を抱きしめるように回った。
「その子を好きになったこと、後悔してる……?」
先ほどのものとは違い、真剣な父の声音。その声で訊かれたことは考えるまでもなかった。
「いいえ」
確かに今は苦しいけれど、相澤を好きになったことを悔いたことはない。彼を好きになったから得られたものが多い。そう思うと、胸があたたかくなっていくのを感じた。
(そうだ。私は、消太くんからもらったものがあれば一人で生きていける)
寂しい気持ちはまだあるけれど、前を向こうと思える。自分を包む両親の手に触れると、二人は安心したように微笑んだ。
「もう、大丈夫?」
頷いて返事をすれば、父は安心に寂しさを混ぜた顔をする。
「ちゃんと、ご飯は三食食べるんですよ」
「はい」
頭を撫でてくれる母に笑みを返す。やはり、母も父と同じような顔をしていた。
「さ、おやすみなさい」
目を閉じるように促されて、防人は素直に従う。意識が完全に落ちる寸前、父と母の会話が聞こえた気がした。
「元気でいてね。俺たちの桜」
「寂しいときは思い出してください。私たちは半分ずつ、貴女の中にいますから」
重くてもう瞼を開けられなかった。これでこの夢とはさよならなのだと防人にもしっかりと感じられた。
***
重い瞼を押し上げて開いた視界に入ってきたのは、眩しい光だった。また閉じてしまいそうなのを堪えて、しばらくぼうっとしていればだんだんと自分が見ているものがどこかの天井であるのだと気づいた。
自分を覗き込んでいる人が誰だか分かると防人は苦く笑う。
「そんな顔しないでくださいよ」
随分と使っていなかった彼女の喉から出た声は酷くぎこちなかった。その声が久々に見た先輩の目に薄っすらと涙を張る。
「待ってて、すぐに先生を呼ぶから」
涙目の香山をぼんやりと見ていた防人は、顔を動かすと自分がどういう状況なのか確認し始めた。
腕から伸びている細い点滴の管、そして次にベッドの傍に置かれているパイプ椅子に目が行く。不思議と気になるそのパイプ椅子を見つめている彼女に気づいた香山の口調は、少し気を遣うような響きがあった。
「相澤くんが、ほとんど付きっ切りだったの」
見開かれた目を向けられた香山は"そういえば山田も交代で来てたらしいわ"と、小さく笑う。こんな言い方をしたのは防人が入院していることを山田がすぐに教えてくれなかったことへの香山の不満が込められていた。
足音が近づいてくるのを感じて、彼女は覗き込むようにしていた防人のベッドから離れた。
「先生も来たようだし、私はあの二人にアナタが目を覚ましたって連絡してくるわね」
見せるように持ったスマホで手を上げた香山に"あの!"と防人の声がかけられる。
「お願いします。相澤先輩には言わないでください」
なんでと香山が聞き返す前に、防人の担当医師が病室へ入ってきた。一度、退室願いますと看護師に言われてしまった香山に彼女は申し訳なさそうな視線を送る。
ドアが閉められてしまい防人の姿が見えなくなると、香山は困ったように自分のスマホへ視線を落とす。
「……上手くいってないの?」
はあっ、と出た香山の深いため息は病院の廊下へと消えていった。
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