幸せで寂しい場所
懐かしい声が聞こえた。もう長い間聞いていないその声が優しくて、向けられる眼差しが穏やかで変わらないことが嬉しくて防人は、ぼんやりとしながらその人へと手を伸ばした。
「母様……」
しっかりと抱きしめてくれる腕にすがっていると、もう一つ懐かしい声に呼ばれる。
「桜」
顔を上げてみれば、母と同じように穏やかな目をしている父がそこにいた。
「父様?」
不思議そうに首を傾げている娘に、彼はくすっと笑って手を伸ばす。自分の妻に似た黒い髪を撫でながら防人の父は小さく首を傾げた。
「どうしたの? 早く支度をしないと学校に遅れるよ」
"寝ぼけてる?"と両親に苦笑されてしまい、防人は周囲を見渡す。ずっと昔に住んでいた本家の敷地にある離れ。その中にある自分の部屋に間違いなかった。ふと、目についた長押 には、フックがかけられていて、そこから雄英の制服がハンガーに吊るされている。
「ほらほら、急ぎましょう」
母に急かされて起き上がる。どうやら、今まで布団の上に横たわっていたようだ。
「今日は父様もいらっしゃるから、三人で朝ご飯を食べましょうね」
にこっと笑う母に続いて、父も部屋から出て行く。呆然とそれを見送った防人は、ハッとして部屋の隅にある姿見 にかけられた埃避けの布を捲り上げる。言われた通りに雄英の制服に袖を通して、髪を梳かす。身なりを整えた彼女の前には、学生時代の自分が鏡に映り込んでいた。
***
居間の入り口で立ち止まった彼女は、そっと窺うように中を覗き込む。座卓の上に用意されている朝食の前には誰もいない。"あれ?"と思いながら台所の方へ回ってみると、両親はそこにいた。
母の作った料理をつまみ食いして悪戯っぽく笑う父に、母が困ったように笑う。当たり前のように見ていた生前の二人の姿がそこにある。
「あら? どうしたんですか?」
自分に気づいた母の視線を追って、父も防人へ目を向ける。
「そんなところにいないで入っておいで。今日の卵焼きも美味しいよ」
ほらと一切れ差し出された卵焼きに、つい口を開けてしまう。食べさせてもらった卵焼きは父の言う通りとても美味しく、間違いなく母の味だった。
「今日は桜さんの好きな甘い卵焼きにしたんですよ。お弁当にも入れてありますから、お勉強頑張ってくださいね」
「は、はい」
差し出された弁当を流れで受け取る。一度、弁当に視線を落としてから顔を上げた彼女へ両親が寄り添いながら微笑んでいた。それだけのことが嬉しい。嬉しくて仕方がなくて防人は両親へ笑みを向けた。
***
登校して当たり前のように授業を受ける。昼休みに入ると、隣の席の椎名が防人へ声をかけてきた。
「防人さん、一緒に―――」
「―――防人!!」
椎名の声を遮って教室に響いた声。驚いてきょとんとしている彼女を見つけた声の主は、ニカッと笑って大きく手を振っている。
「早く来い!! 昼飯行くぞ!!」
「え?」
いきなりのことに呆けている防人に構わず、彼は急げと腕を下から振り上げるように招く。
「ほら、ひざしも待ってるから急げ!」
「は、はい! 椎名くん、すみません。またあとで」
頭を下げる彼女を苦笑いで見送った椎名は、はあ、とため息を吐いて自身の弁当を取り出していた。明日こそはきちんと誘えるだろうかとぼんやりと考えながら、弁当の包みに手をかける。彼が、うっかり箸を忘れていたことに気づいたのはその後だった。
***
連れてこられた屋上は天気も良く、雲の殆どない青い空が広がっていた。わぁ、っと見入っている防人に早く座れと、教室まで呼びに来た彼、白雲が呼んでいる。
「この前、約束したのに忘れるなよ!」
仕方のない奴だな!と眩しく笑う白雲に彼女は申し訳なさそうに笑い返す。
「すみません。今日は母がお弁当を作ってくれたので、そのことばっかり考えてしまっていて……」
「んん? 意外と食いしん坊なのか? 腹ペコガール!!」
自分の弁当箱を覗き込んできた山田へ防人はこてんと首を傾げた。
「食いしん坊、ですか? そんなことは……」
どちらかといえば、あまり食の太い方ではない。何故そんなことを言われたのかと不思議そうにしている彼女に山田は"ソレ"と指さした。
「女子にしちゃ、結構デカいよな。防人の弁当」
「ああ、そういえば。お前、ちゃんと食いきれんのか?」
「確かに……」
男子生徒が使っていそうな大き目の弁当箱。もっと少ない量の方が防人にはちょうどいい。
「なんでこんなに大きなもの……?」
「親のと間違えたんじゃないか?」
確かに父のものであれば納得できるが、そうではないことだけは知っている。
「いえ、これは私が選んだものだと思うんですけど……」
なんでだっけ?と首を傾げて悩む彼女に、二人の先輩は"買ったもんが思ったのと違うことなんて、よくあることだろ"と笑い飛ばす。言われてみればそうかもしれないと防人も考えるのを止めたタイミングで屋上の扉が開いた。
「あら、今日は貴女も一緒なの?」
「はい。香山先輩、こんにちは」
にこっと笑いかけた防人に笑みを返した香山だが、彼女のものにはどこか妖艶なものが含まれている。
「いけない子ね。ここは本来立入禁止なのよ?」
綺麗に整った指先で顎を持ち上げられた防人は、自然と香山を見つめた。
「香山先輩?」
不思議そうにしている彼女に、香山は更に笑みを深くして顔を近づける。
「何も知らないのね。可哀そうに……。それじゃあ、お姉さん教えてあげる」
「うおおおお! ひざし! なんか凄いのが始まったぞ!!」
「女の花園って感じかァ!?」
これは自分を使って、白雲をからかっているなと気が付いた防人が苦く笑うと、香山もそれを察して指を外した。何故だか興奮している白雲に山田も一緒になって騒いでいる。屋上は香山が来たことで賑やかさと華やかさを増した。
晴れた屋上で食べる母の弁当はとても美味しく、彼らのお陰で賑やかで楽しい昼食だったというのに、どうしてか防人は心の隅で漠然とした寂しさを感じずにはいられなかった。
***
一日、一日を過ごしていく中で、違和感はなくなっていく。両親がいて、優しい先輩や同級生に囲まれてとても恵まれていると感じるのに、心の隅にあった漠然とした寂しさは日に日に育ち、気付かないふりが出来なくなってきていた。
「桜? どうかした?」
一緒に食後の皿洗いをしていた父に心配そうに顔を覗き込まれた防人は驚いて肩を跳ねさせた。
「え? えっと……」
よく分からない寂しさについて考えていたなんて話しても父を困らせるだけだろうと、彼女は苦笑いを見せる。その笑い方は彼女の母にそっくりで、彼はなにかピンときたような顔をした。
「もしかして、好きな男の子でもできた?」
「ええ? そんなことは……」
どうしてか"ない"と言いきれない。気になる人だっていないのに、理由が分からずに防人は自分自身に戸惑っていた。
「もしかして俺には言いにくい? 母様呼んでこようか?」
隠しきれていない、わくわくとしている父に彼女は困り果てて固まる。何をどう説明すべきかと楽しそうにしている彼を見ながら頭を働かせていると、こらこらと怒っても注意もしているようにも聞こえない声がかけられた。
「なんで桜さんを困らせてるんですか」
もう、と言いながら、ぎゅっと抱きしめられた防人は苦笑いで母へと振り返る。
「好きな人の話になりまして」
「え? いるんですか?」
きょとんとした彼女へ違う違うと防人が手を振ってみても、父は納得していないのかつまらなさそうに口を尖らせる。
「嘘だァ。だって、ぽぅっとしてたもの!」
「はいはい。アナタは桜さんに恋人が出来たら構ってもらえなくなるのが寂しんですよね」
図星をつかれた父がぐっと黙り込む。母がおかしそうにくすくすと笑っているのを見て、彼女もふふっと小さく笑う。
「洗い物、終わりました。それじゃ、先に休みます」
「ありがとう。おやすみなさい」
何か言いたげにしている父も、ふうっとため息を漏らすといつもの優しい笑みでおやすみと防人へ返した。
***
自室に戻った彼女は既に敷かれている布団へ目を落とす。どうやら母が先に敷いておいてくれたようだ。不意に学習机に目を向ければ、弁当包みに使っている大判のハンカチが置かれているのに気が付いた。
何気なく手に取ったそれに首を傾げる。
(なんで、これを選んだんだっけ?)
大きな弁当箱といい、この弁当包みといい、変なところで記憶が曖昧だった。
(母様が選んでくれたんだっけ……?)
そう考えたものの、なんだか違う気がしてならない。
鮮やかな青が美しい藍色の包み。好みかどうかと考えれば、防人の好みではある。しかし、自分に選ぶのだとすれば柄のついた可愛らしいものを選ぶような気もした。
「あれ……?」
するりと頬を伝う温いものに指を添える。自分が泣いていることに気づいた防人はどうしてなのか分からず戸惑う。しかし、戸惑う自分を置いてけぼりにするように、涙は勢いを増していった。
ただただ、寂しくて悲しい。ここには両親もいて、優しくしてくれる人たちがたくさんいるのに、何か一つ大きなものが、ぽっかりと足りていない。どうしてそんな風に感じるのか考えていると、胸にずきっと痛みが走った。
「どうして、夢の中にくらい出てきてくれないんですか……」
無意識に口から出てきた言葉でハッとする。そうか、と自覚する。しかし、それを口にするとこの優しい世界が壊れてしまうことが怖くて仕方なく思えた。
(ここは私にとって都合のいい夢なんだ……)
ぎゅっと、藍色のハンカチを抱きしめる。涙がこぼれるだけでは済まなくなり、だんだんと強くなる悲しさと共に防人の口から泣き声が漏れ始めた。
***
「……桜?」
ベッドの隣に置かれたパイプ椅子に腰かけていた相澤が防人の変化に気づく。先ほどまでは、これまでと変わらずに呼吸を繰り返していただけだった。今も眠っている彼女の閉じた目からは涙がこぼれている。
するすると流れる涙が生理的なものなのか分からないが、泣いているようにしか見えないことが彼の胸を締め付けた。両手で包んでいた防人の手を離して、指で涙を拭ってやる。しかし、彼女の涙が止まることはない。
「泣いてんのか?」
優しく頭を撫でてやりながら、防人に声をかけても答えは当たり前のように返ってはこなかった。
※ご自宅の和室にない場合もあると思いますので補足です。
長押は、柱と柱の間に水平に打ち付けてある木材です。ここに引っ掛けるフックも売ってますが、普通のS字フックとかも引っかかります。
-32-「母様……」
しっかりと抱きしめてくれる腕にすがっていると、もう一つ懐かしい声に呼ばれる。
「桜」
顔を上げてみれば、母と同じように穏やかな目をしている父がそこにいた。
「父様?」
不思議そうに首を傾げている娘に、彼はくすっと笑って手を伸ばす。自分の妻に似た黒い髪を撫でながら防人の父は小さく首を傾げた。
「どうしたの? 早く支度をしないと学校に遅れるよ」
"寝ぼけてる?"と両親に苦笑されてしまい、防人は周囲を見渡す。ずっと昔に住んでいた本家の敷地にある離れ。その中にある自分の部屋に間違いなかった。ふと、目についた
「ほらほら、急ぎましょう」
母に急かされて起き上がる。どうやら、今まで布団の上に横たわっていたようだ。
「今日は父様もいらっしゃるから、三人で朝ご飯を食べましょうね」
にこっと笑う母に続いて、父も部屋から出て行く。呆然とそれを見送った防人は、ハッとして部屋の隅にある
***
居間の入り口で立ち止まった彼女は、そっと窺うように中を覗き込む。座卓の上に用意されている朝食の前には誰もいない。"あれ?"と思いながら台所の方へ回ってみると、両親はそこにいた。
母の作った料理をつまみ食いして悪戯っぽく笑う父に、母が困ったように笑う。当たり前のように見ていた生前の二人の姿がそこにある。
「あら? どうしたんですか?」
自分に気づいた母の視線を追って、父も防人へ目を向ける。
「そんなところにいないで入っておいで。今日の卵焼きも美味しいよ」
ほらと一切れ差し出された卵焼きに、つい口を開けてしまう。食べさせてもらった卵焼きは父の言う通りとても美味しく、間違いなく母の味だった。
「今日は桜さんの好きな甘い卵焼きにしたんですよ。お弁当にも入れてありますから、お勉強頑張ってくださいね」
「は、はい」
差し出された弁当を流れで受け取る。一度、弁当に視線を落としてから顔を上げた彼女へ両親が寄り添いながら微笑んでいた。それだけのことが嬉しい。嬉しくて仕方がなくて防人は両親へ笑みを向けた。
***
登校して当たり前のように授業を受ける。昼休みに入ると、隣の席の椎名が防人へ声をかけてきた。
「防人さん、一緒に―――」
「―――防人!!」
椎名の声を遮って教室に響いた声。驚いてきょとんとしている彼女を見つけた声の主は、ニカッと笑って大きく手を振っている。
「早く来い!! 昼飯行くぞ!!」
「え?」
いきなりのことに呆けている防人に構わず、彼は急げと腕を下から振り上げるように招く。
「ほら、ひざしも待ってるから急げ!」
「は、はい! 椎名くん、すみません。またあとで」
頭を下げる彼女を苦笑いで見送った椎名は、はあ、とため息を吐いて自身の弁当を取り出していた。明日こそはきちんと誘えるだろうかとぼんやりと考えながら、弁当の包みに手をかける。彼が、うっかり箸を忘れていたことに気づいたのはその後だった。
***
連れてこられた屋上は天気も良く、雲の殆どない青い空が広がっていた。わぁ、っと見入っている防人に早く座れと、教室まで呼びに来た彼、白雲が呼んでいる。
「この前、約束したのに忘れるなよ!」
仕方のない奴だな!と眩しく笑う白雲に彼女は申し訳なさそうに笑い返す。
「すみません。今日は母がお弁当を作ってくれたので、そのことばっかり考えてしまっていて……」
「んん? 意外と食いしん坊なのか? 腹ペコガール!!」
自分の弁当箱を覗き込んできた山田へ防人はこてんと首を傾げた。
「食いしん坊、ですか? そんなことは……」
どちらかといえば、あまり食の太い方ではない。何故そんなことを言われたのかと不思議そうにしている彼女に山田は"ソレ"と指さした。
「女子にしちゃ、結構デカいよな。防人の弁当」
「ああ、そういえば。お前、ちゃんと食いきれんのか?」
「確かに……」
男子生徒が使っていそうな大き目の弁当箱。もっと少ない量の方が防人にはちょうどいい。
「なんでこんなに大きなもの……?」
「親のと間違えたんじゃないか?」
確かに父のものであれば納得できるが、そうではないことだけは知っている。
「いえ、これは私が選んだものだと思うんですけど……」
なんでだっけ?と首を傾げて悩む彼女に、二人の先輩は"買ったもんが思ったのと違うことなんて、よくあることだろ"と笑い飛ばす。言われてみればそうかもしれないと防人も考えるのを止めたタイミングで屋上の扉が開いた。
「あら、今日は貴女も一緒なの?」
「はい。香山先輩、こんにちは」
にこっと笑いかけた防人に笑みを返した香山だが、彼女のものにはどこか妖艶なものが含まれている。
「いけない子ね。ここは本来立入禁止なのよ?」
綺麗に整った指先で顎を持ち上げられた防人は、自然と香山を見つめた。
「香山先輩?」
不思議そうにしている彼女に、香山は更に笑みを深くして顔を近づける。
「何も知らないのね。可哀そうに……。それじゃあ、お姉さん教えてあげる」
「うおおおお! ひざし! なんか凄いのが始まったぞ!!」
「女の花園って感じかァ!?」
これは自分を使って、白雲をからかっているなと気が付いた防人が苦く笑うと、香山もそれを察して指を外した。何故だか興奮している白雲に山田も一緒になって騒いでいる。屋上は香山が来たことで賑やかさと華やかさを増した。
晴れた屋上で食べる母の弁当はとても美味しく、彼らのお陰で賑やかで楽しい昼食だったというのに、どうしてか防人は心の隅で漠然とした寂しさを感じずにはいられなかった。
***
一日、一日を過ごしていく中で、違和感はなくなっていく。両親がいて、優しい先輩や同級生に囲まれてとても恵まれていると感じるのに、心の隅にあった漠然とした寂しさは日に日に育ち、気付かないふりが出来なくなってきていた。
「桜? どうかした?」
一緒に食後の皿洗いをしていた父に心配そうに顔を覗き込まれた防人は驚いて肩を跳ねさせた。
「え? えっと……」
よく分からない寂しさについて考えていたなんて話しても父を困らせるだけだろうと、彼女は苦笑いを見せる。その笑い方は彼女の母にそっくりで、彼はなにかピンときたような顔をした。
「もしかして、好きな男の子でもできた?」
「ええ? そんなことは……」
どうしてか"ない"と言いきれない。気になる人だっていないのに、理由が分からずに防人は自分自身に戸惑っていた。
「もしかして俺には言いにくい? 母様呼んでこようか?」
隠しきれていない、わくわくとしている父に彼女は困り果てて固まる。何をどう説明すべきかと楽しそうにしている彼を見ながら頭を働かせていると、こらこらと怒っても注意もしているようにも聞こえない声がかけられた。
「なんで桜さんを困らせてるんですか」
もう、と言いながら、ぎゅっと抱きしめられた防人は苦笑いで母へと振り返る。
「好きな人の話になりまして」
「え? いるんですか?」
きょとんとした彼女へ違う違うと防人が手を振ってみても、父は納得していないのかつまらなさそうに口を尖らせる。
「嘘だァ。だって、ぽぅっとしてたもの!」
「はいはい。アナタは桜さんに恋人が出来たら構ってもらえなくなるのが寂しんですよね」
図星をつかれた父がぐっと黙り込む。母がおかしそうにくすくすと笑っているのを見て、彼女もふふっと小さく笑う。
「洗い物、終わりました。それじゃ、先に休みます」
「ありがとう。おやすみなさい」
何か言いたげにしている父も、ふうっとため息を漏らすといつもの優しい笑みでおやすみと防人へ返した。
***
自室に戻った彼女は既に敷かれている布団へ目を落とす。どうやら母が先に敷いておいてくれたようだ。不意に学習机に目を向ければ、弁当包みに使っている大判のハンカチが置かれているのに気が付いた。
何気なく手に取ったそれに首を傾げる。
(なんで、これを選んだんだっけ?)
大きな弁当箱といい、この弁当包みといい、変なところで記憶が曖昧だった。
(母様が選んでくれたんだっけ……?)
そう考えたものの、なんだか違う気がしてならない。
鮮やかな青が美しい藍色の包み。好みかどうかと考えれば、防人の好みではある。しかし、自分に選ぶのだとすれば柄のついた可愛らしいものを選ぶような気もした。
「あれ……?」
するりと頬を伝う温いものに指を添える。自分が泣いていることに気づいた防人はどうしてなのか分からず戸惑う。しかし、戸惑う自分を置いてけぼりにするように、涙は勢いを増していった。
ただただ、寂しくて悲しい。ここには両親もいて、優しくしてくれる人たちがたくさんいるのに、何か一つ大きなものが、ぽっかりと足りていない。どうしてそんな風に感じるのか考えていると、胸にずきっと痛みが走った。
「どうして、夢の中にくらい出てきてくれないんですか……」
無意識に口から出てきた言葉でハッとする。そうか、と自覚する。しかし、それを口にするとこの優しい世界が壊れてしまうことが怖くて仕方なく思えた。
(ここは私にとって都合のいい夢なんだ……)
ぎゅっと、藍色のハンカチを抱きしめる。涙がこぼれるだけでは済まなくなり、だんだんと強くなる悲しさと共に防人の口から泣き声が漏れ始めた。
***
「……桜?」
ベッドの隣に置かれたパイプ椅子に腰かけていた相澤が防人の変化に気づく。先ほどまでは、これまでと変わらずに呼吸を繰り返していただけだった。今も眠っている彼女の閉じた目からは涙がこぼれている。
するすると流れる涙が生理的なものなのか分からないが、泣いているようにしか見えないことが彼の胸を締め付けた。両手で包んでいた防人の手を離して、指で涙を拭ってやる。しかし、彼女の涙が止まることはない。
「泣いてんのか?」
優しく頭を撫でてやりながら、防人に声をかけても答えは当たり前のように返ってはこなかった。
※ご自宅の和室にない場合もあると思いますので補足です。
長押は、柱と柱の間に水平に打ち付けてある木材です。ここに引っ掛けるフックも売ってますが、普通のS字フックとかも引っかかります。
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