なんで俺じゃないんだ

 昨日と変わらずに眠っている防人の顔を覗き込む。きちんと呼吸をしているのを見て相澤は自分が安心していることも確認した。

「そんな心配すんな。なんかあったらすぐ連絡すっから」

 病室に置かれているソファに深く腰掛けた山田からかけられた言葉に彼は目を閉じて頷く。すう、っと息を吸い込む。不注意でケガでもしたらきっと防人は責任を感じるだろう。それに自分はプロなのだという気持ちが相澤に前を向かせた。

「頼む」

それだけ言い残すと相澤は病室を出た。その背を見送った山田はやれやれと肩をすくめて眠っている彼女へ目を向ける。

「まったく、お前らは本当に手がかかるよなァ」

 聞こえていないであろう防人はいくつもの管やコードに繋がれていて今日も痛々しい。小さく息を吐き出した山田は組んだ足の上で頬杖をついた。

 彼女の容体が急変したら。そう不安に思うのは相澤も山田も同じだ。だからこうして二人は仕事を調整し、交代で防人の病室に泊まり込んでいる。

「……防人が起きねェと、また相澤のネガティブトークが止まんなくなっちまうぞ」

小さく聞こえてくる呼吸音に、ふ、っと山田が悲し気に笑う。例え彼女がこのままいなくなってしまったとしても相澤が後を追うことはないだろう。しかし、今以上に彼は自分を責め、苦しみながら生きていくことになる。そんな確信が山田にはあった。

「早く起きて、アイツのネガティブ止めてやってくれ」

ため息を漏らして頬杖をついたまま首を倒す。不安だらけの胸中でやれやれと山田は目を閉じた。

***

 夜の街をビルの上から見下ろす。今のところではあるが比較的事件もなく、静かな夜だった。風に吹かれながら、相澤は注意深く視線を巡らせる。
 しばらくすると、向こうの方から(ヴィラン)が暴れながら走って来た。すっとフェンスの上に立った相澤の視界に、もう一人入ってくる。フルフェイスのヘルメットのようなものをかぶったヒーローは、(ヴィラン)に追い付くと背後から飛び掛かった。
 近接戦闘が始まり、二人は縺れ込みながら路地裏へ入り込む。少し危なっかしいように見える戦い方が気になった相澤は二人が見える位置へと移動した。

 お互いがお互いを殴り合う鈍い音が響く路地裏。激しい殴打が繰り広げられ、(ヴィラン)の男は明らかに追い詰められていた。

「いい気になんなよ!!」

左顔面が大きく腫れた(ヴィラン)が向かい合っているヒーローに対してかぶっていたキャップを投げつけるように脱ぎ捨てる。このまま、髪に隠れていた額の目を開ければ、強烈な閃光が走り相手の目に深いダメージを与えるはずだった。

「な、なんだ!? なんで出ない!?」

 確かに個性を発動させようとした(ヴィラン)は、自分の身に何が起きているのか理解できずに狼狽している。
相手が何をしようとしていたのか知らないヒーローは錯乱している(ヴィラン)の様子を見て動かなかった。

(ヴィラン)の個性は発動しない。今だ!」

 ビルの上から相澤に声をかけられたヒーローはフルフェイスのヘルメットの下で驚いたように目を(みは)っている。見上げたまま固まっているヒーローはその間にも隙を見せている相手に対して動こうとしない。

「何してんだ! 逃げられるぞ!」

"あっ"と小さな声をもらしたヒーローには何故だか動揺があり、的確に判断ができていない。痺れを切らした相澤は路地裏に下り立つと、捕縛武器でわめいている(ヴィラン)の体を縛り上げた。

「新人か? 戦闘中にぼうっとするな。場合によっちゃケガじゃすまないぞ」

 立ち尽くしたままのヒーローへ振り返った相澤はその異様さに眉を顰める。ヒーローらしからぬ強い憎悪を滾らせている相手に、すぐさま相澤が戦闘態勢を取った。そんな彼をヒーローは鼻で笑う。

「まさか僕のことをお忘れですか? 相澤先輩」

頭全体を覆っていたフルフェイスのヘルメットが外される。その下から出てきたのは見覚えのある顔だった。

「お前……」

「お久しぶりです」

 そこには親しみやすそうな笑みを貼りつけていた頃の面影はまったくない椎名が立っていた。いつだか向けられた敵対心丸出しのものよりも、ずっと強い感情を宿した椎名の目は、まだ相澤を睨むことを止めない。

「……彼女のこと、何か知ってますよね?」

「今は、コイツを引き渡すのが先だ」

情報をばらまく気はないと話を切ろうとする相澤の腕が掴まれる。

「逃げないでくださいよ。ちゃんと聞かせてください」

ギリギリと握り締めてくる彼を見ず、何も答えないでいる相澤に"先輩……!"と椎名のキツい声がかけられた。

「これが片付いたらな……」

ぽつりとそう答えると、やっと相澤の腕は解放される。ジンジンとする痛みを先ほど掴まれていたところから感じるが、それよりも彼の胸にある、息苦しさを覚えるような苦しい痛みと比べれば何でもなかった。

 (ヴィラン)を警察へと引き渡し、路地裏に残った二人は、ビルの壁を背に向かい合う。いまだに強く睨んでくる椎名に相澤は息を一つ吐き出しながら、ビル壁に背を預けた。

「早く説明してください」

「何が知りたいんだ」

 椎名に必要以上の情報を与えるつもりはない。防人の事務所が公表していない以上、うかつに話を広められないと考えるのは、あの自分たちの利益のことしか頭にない名ばかりヒーローに彼女が責められない為だ。山田に聞いた話では、防人が入院したことによって利益が上がらないと息巻いているが、世間体を妙に気にする小物であるので、周囲には"働きづめのサイキッカーに長期休暇を"ということにしているらしい。

「防人さんは無事なんですか?」

「……無事とは言えない。今も入院してる」

不安からくる緊張のせいか椎名が唾を飲み込んだ。その様子を見ても相澤は表情一つ変えなかった。

「それはどこの病院ですか?」

「それは訊くな」

ぴしゃりと質問を切り捨てられた彼は、また相澤を睨みつける。

「どうしてですか。他言なんかしません」

「アイツの事務所が公表していないことを俺からベラベラ話すわけにいかないだろ」

もう話がないならと背を向けようとする相澤を睨みながら椎名は両手を握り締めた。ギリギリと音を立てる彼の手に気づいてしまった相澤は一度立ち止まったものの、そのまま歩き出そうとした。

「なんでアンタなんだ!!」

 路地裏に響いた大声にぴくりと相澤の肩が揺れる。彼の叫びは、大通りの賑わいに消えて相澤以外の人間には届かなかった。ゆっくりと背後へ顔を向ければ、椎名の鋭く睨む双眸から惜しみなく涙が溢れだしている。

「ずっと、ずっと、アンタなんかより俺の方が彼女を好きなのに……!」

 普段、"僕"と言っている彼の一人称が激しい怒りや嫉妬によって変わっている。そんな自分の変化にも気づく余裕のない椎名は、ツカツカと足を鳴らして相澤へと詰め寄った。

「高校のときから俺はまったく相手にされなくて、今だってチャンスだと思って近づいても見向きもされない!!」

"なんで俺じゃないんだ!"と叫びながら、椎名は昔のことを思い出していた。

***

 学生の頃、彼女が頻繁に相澤と一緒にいるところを見るようになったときから嫌な予感が椎名にはあった。
 周囲からイケメンと、もてはやされてきた彼はそれまで恋愛で苦労してきたことはなかった。自分から好意を伝えなくても、それなりに優しくして笑いかけていれば相手の方から告白をしてくれた。ところが、雄英に入学して隣の席になった防人は違った。

 これまで見たことがないほどに容姿の整った彼女に椎名は目を奪われた。話しかけてみれば、気取ったところもなく、気さくで穏やかな人柄の防人に更に惹かれていった。
 彼女と付き合いたい。そう思った日から椎名は行動に出た。しかし、いくら優しくしてみても、他よりも特別な扱いをしてみても彼女は何も言ってこない。ただの友人以上になれないことは、椎名にとってのこれまでの自信を簡単に崩壊させた。

 そして、椎名は初めて失恋というものを体験することになる。それは体育祭に向けて徒手での戦闘を教えてほしいと言った彼女と一緒に歩く中で、ただ、なんとなく選んだ話題に過ぎなかった。

『防人さんって、よく二年生の先輩と一緒にいるのを見かけるけど、もしかして好きなの?』

意図して作った笑みと一緒に向けた質問に、椎名の予定では焦った彼女から"そんなんじゃないです!"という返事が来るはずだった。

『へっ!? あ、あの……』

明らかに動揺している防人の顔が急激に赤く染まっていく。えっと、と言い淀んでから彼女は俯きながら頷いた。

『でも、まだ全然信じてもらえてないんですよ』

『どういうこと?』

ショックを受けていることが伝わらないようにと、彼女と同じ柄の弁当包みを彼は強く握る。

『まだ、私の好きは先輩に届いてないんです』

 相手の先輩のことを考えているのか、防人の微笑みは椎名が見たこともないほど優しいものだった。それが悔しくて、先ほどのもの以上の強いショックを彼に与えた。

 その後、体育祭の昼時に見かけた相澤へ椎名から宣戦布告をしたものの、功を奏さず二人は付き合いだした。悔しさもあった。しかし、日に日に綺麗になっていく防人を隣の席から見ている彼には、その幸せもよく伝わって来ていた。
 この恋は上手くいかなかった。すぐに気持ちを捨てることはできそうにないが、そのうちにまた自分にも好きな相手ができるだろうと思っていた。そうして過ごしていた椎名に、耳を疑うような話が飛び込んでくる。

"防人が先輩と別れた"

 三年になってすぐに回ってきた噂。その噂を心配を装って本人に確かめてみれば、彼女からは酷く悲しそうな微笑みと小さな頷きが返ってきた。

(チャンスかもしれない)

そう思った椎名はそれからなるべく防人の傍にいようとした。休み時間に勉強をするときも、放課後に自主訓練をするときも、できるだけ一緒にいた。少しでも彼女の気持ちが自分に向くようにと考えるあまり、どうして防人がこんなに勉強や自主訓練に打ち込むのかを考えもしなかった。

『椎名くん、もう心配してくれなくて大丈夫ですよ』

 向けられた微笑みは困ったように眉が下がっている。何故、いきなりそんなことを言い出されたのか理解できない椎名は食い下がった。

『どうしたの? 何かあった?』

ゆるく首を振った彼女は申し訳なさそうに口を開く。

『心配をしてくれているのは凄くありがたいんですが、ここからは一人で頑張ってみたいんです』

 無理やり気づかないようにしていたことを彼女の口から直接叩きつけられた気分だった。これまで、徒手での戦闘は椎名の方が防人よりも優れていた。しかし、徐々に徐々にその関係は変化していって、今ではもうまったく彼は彼女の相手にならなかった。それは勉強面でも同じことで、自宅でどれだけ椎名が勉強をしても防人の学力には追い付けないほど開きができてしまっていた。

『そう、か。でも、無理はしないでね。僕もできることなら応援するから』

 現状を考えれば理解のあるふりをしなければならなかった。そうでなければ、この"防人桜と一番親しい友人"の地位がなくなってしまう。本当はそんなものに固執したくはないけれど、恋愛に発展させるには仕方のないことだと椎名は思い込むことにした。

『ありがとうございます』

そう笑う彼女は、どこか悲しげだった。それっきり、防人と椎名が関わることは格段に減った。それは卒業まで続き、また彼は彼女を諦めることにしたのだった。

 ずっと、ずっと、欲しくてたまらなかった防人の心は今も相澤のもの。それを知ったのは、ヒーローとして活動し始めた年、移動で飛び乗った新幹線の中のことだった。
 会えて浮かれている椎名とは対照的に彼女は抜け殻のような顔をしていて、話しかけてきてはくれなかった。気を引きたくて出した相澤の名前。防人は聞こえないふりをしていたが、彼の名前を出した瞬間、彼女の黒い目に動揺が映っていた。あの目を見れば、まだ防人が相澤へ未練を残しているのは明らかだった。

***

 それなのにと、椎名は目前の困惑した様子でいる相澤を睨みつける。

「俺の方が彼女を幸せにしてやれるのに……アンタばっかりだ……」

悔しくて惨めで仕方ない。歯噛みの音が椎名の気持ちを代弁する。

「こんなに防人さんを愛しているのに、俺にできるのは本当かも分からないゴシップ記事を読み漁って集めて、彼女を知った気になるくらいでッ!!」

何をしようが自分の気持ちが防人に届くことはないと理解しているからこそ、目の前の男が憎たらしくてどうしようもない。悔しさと羨ましさと憎しみを込めて睨みながら椎名は相澤の胸倉を掴んだ。

「なのに、アンタは!! 彼女に向き合ってもやらないで苦しめるだけのアンタがどうして……ずっと防人さんに愛されてんだよ!!」

 涙を流しながら睨みつけてくる椎名の目を見てから相澤は視線を逸らす。そしてぽつりと小さく消え入るようなこえで呟いた。

「本当に、なんでだろうな。……俺なんか」

そう口にしたとき。相澤の耳にいつかの防人の声が聞こえてきた。

『"俺なんか"なんて言わないでください。貴方は私の好きな人なんですから……』

声と共に酷く悲しそうな目に見つめられたことも思い出す。

「譲れなんかしないんだ、貴方は。そうやってずっと悲しませることで防人さんの心に居続けるつもりだったんだろ……! ずっとずっと苦しめ続けて幸せになれないように」

 鬼気迫る彼に相澤は我に返る。恨みの込められた声に"違う"と苛立ちが募り始めた。確かに別れた当初は、彼女の心に長く留まれるなら恨まれていたいと思った。しかし、防人に不幸になってほしいなんて気持ちは今も昔も微塵もない。

「お前に、俺たちの何が分かるってんだ!!」

腹立たしい。そう思った時には、相澤は椎名の胸倉を掴み返していた。

「何も知らない部外者が! 俺が、桜とどんな思いで別れたかも知らねぇくせに、口を出すな!!」

 静まり返った路地裏に表通りの賑やかな音が入り込んでくる。まだ相澤の胸倉を掴んだままだった椎名の手からゆっくりと力が抜けると、同じように相澤も手を離した。

「……彼女、危ないんでしょう?」

確信しているような口ぶりに返事をしないでいれば、椎名は鼻で小さく笑った。

「僕、防人さんが自分のものになってくれる可能性がゼロであるなら、このまま誰のものにもならずにいっそのこと、と思わなくもないんです」

まさか防人の死を望むような発言が出るとは思ってもいなかった相澤は、疲れたような顔の椎名を睨みつけた。

「貴方もそうでしょう? そうすれば、貴方は防人さんの唯一の人でずっといられるんだから」

羨ましいですよ、とヘラヘラとした笑みを見せる彼に、頭の中が真っ赤に燃えるような感覚が走る。

「お前と一緒にすんじゃねェよ。俺は桜に死なれたくなんかない……!」

 怒気のこもった目を冷たく睨み返しながら椎名はまた小さく笑う。珍しく感情を心の底から吐き出したせいか、気持ちはおかしく思うほどに凪いでいた。

「本気でそう思うなら、どうして手を離すんです」

僅かに相澤が体を強張らせたのを見逃さず椎名は続ける。

「どうして、傍にいる覚悟をしてやらないんですか」

 責め立てるものがない彼の声には、彼女の一番になれなかった悲しみだけが含まれていた。

「想っているんでしょう? 彼女と同じように」

動揺で返事のできない相澤に、これまでの毒気を含んでいた椎名の態度が嘘のように和らいでいく。

「お願いですから、ちゃんと僕が防人さんを諦められるようにしてください。悲しむ彼女を口説く気には、どうしてもなれないんですよ」

初めて見せる彼の穏やかな笑みは、相澤の中に驚くほど響いた。

「相澤先輩がいれば、彼女は死んだりしませんよ。だから、できることはしてあげてください」

 会釈して隣を通り過ぎようとする彼の耳に相澤の掠れた声が届く。フッと口元に笑みを引いた椎名はフルフェイスのヘルメットをかぶりながら路地裏を出て行った。

「敵に塩を送りすぎじゃない? コレ」

賑やかな大通りの中、ぽつんと呟いた椎名の声は誰にも届かない。小さな呟きと同じように、彼は人込みの中へと消えていった。

***

 山田と交代で防人の病室へと戻ってきた相澤は、いつもベッドの傍に置かれているパイプ椅子へと腰掛ける。このパイプ椅子は彼の指定席とも言えそうなほど、病室にいる間は長く腰掛けていた。

「……今日、椎名に会ったぞ」

目を閉じたまま答えない彼女からは呼吸の音だけが聞こえてくる。

「アイツ、思ってたよりいい奴だった。桜が友達だっていうのも分かる気がした」

もしかしたら、防人は椎名の気持ちに気づいているのだろうかと考えてから、それはないなと相澤は軽く目を伏せた。気づいていたら、相手を傷つけないように彼女なら距離を取るだろう。それだけ、彼が上手く自分の気持ちを押し隠してきたのだとしたら、それはどれほど苦しいものだったのだろうと想像する。

(俺にはできそうにない)

きっと自分なら逃げ出してしまっただろうと自嘲する。椎名の自分の気持ちから逃げない姿勢は見習わなくてはならないなと思わされた。

 すっと、目を開ける。点滴の管がつけられている白い腕を、掛け布団の中から取り出す。そして、その手を相澤の両手が包み込んだ。

「……桜に話したいことがある」

真剣味の強い彼の目にはしっかりとした何かがある。付き合っていた頃と同じ少し体温の低い手。その手が握り返してくれない寂しさを相澤は感じずにはいられなかった。

「だから、早く起きて俺を安心させてくれ……」

握る防人の手の上に相澤の額が(こいねが)うように押し付けられる。
 もう一度、自分の気持ちを聞いてほしい。そう思いながら、相澤は防人のベッドに頭を寄せて眠りについた。

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