ツラいなら離れていい

 深夜。連絡を受けた彼は病院の廊下を駆けていた。目的の病室に着くと遠慮なくドアを開く。

「……静かにしろよ」

ベッドの隣には山田に連絡をしてきた相澤がパイプ椅子に背中を丸めて座っていた。
 横たわる防人には点滴の管やら、ドラマでしか見たことのないようなコードが繋がれている。それと整った顔を隠すように覆っている酸素マスク。あまりに痛々しい彼女の姿に山田が絶句していると、控えめなノックの音が病室に響いた。

「防人桜さんの関係者の方ですか?」

比較的若そうな男性医師が相澤と山田を交互に見る。相澤がなんと答えるべきか考えるよりも早く、山田が口を開いた。

「彼女が次に移籍する事務所の者です。彼女の容体は……?」

「すみません。基本的にご家族にしかお話しできないんです。防人さんのご家族の連絡先をご存じありませんか?」

小さく息を吸い込んだ相澤は眠っている彼女を見ながら口を開く。

「……医師をしている叔父がいます」

防人の叔父が開いている病院を教えれば、担当医師は慌ただしく病室を出て行った。

「よく知ってたな。防人の叔父さんなんて」

「……最初に会ったきっかけだったからな」

 初めて出会った彼女の姿を思い出す。黒い子猫を抱えて、雨に濡れて途方に暮れていた少女。その少女は今、見ていられないような状態でベッドに寝かされている。
彼女の胸元が上下して、息をしているのを確認していないと不安で仕方ない。防人の手に触れることはせず、相澤はただじっと彼女が息をしているのを見ていた。

「今、お前らってどうなってんだ……?」

「どうも何も知ってんだろ……」

 自分の卒業式のときに別れた。今の彼女と相澤は何の関係もない。

「その割に、防人に気持ち残ってんだろ。コイツが地下に閉じ込められたときも、必死だったしよォ」

今だって相澤は不安そうに自分の手を握り締めている。なかなか答えようとしない彼に、返事を諦めかけた頃、聞き取りにくいような小さな声が室内に零れた。

「……好きだ。今も」

分かりきっていたことだけれど、まさか相澤がこんなにも正直に答えるとは思っていなかった山田は目を見開く。

「でも、俺なんかじゃ守ってやれない……。あのときみたいに、目の前で桜に死なれたら俺は……」

頭を抱えるように更に背を丸めてしまった彼に、だんだんと苛立ちに似たものが山田の中で膨れ上がる。

「お前、ちゃんと見てやってたか? 防人がお前の隣に立とうとして、どんだけ―――」

 トントンと室内の空気に割り込むように響いた音。ノックの後にスライドドアが開き、先ほどの男性医師が顔を出した。

「すみません、相澤さんはいらっしゃいますか?」

どちらだろうかと相澤と山田を交互に医師の視線が動く。

「はい……」

名前を呼ばれた彼が顔を向けると、医師の男性は相澤へと向き直る。

「防人さんのご家族の方と連絡が取れました。あちらへ一通り説明をしましたら、この場に相澤さんがいらっしゃって、本人が希望すれば説明をとのことなのですが」

どうされますか?と訊いてくる医師に、相澤は目を見開いたまま動けずにいる。苛立っている山田がすっと彼に近づいた。

「聞いてこい。それで俺にも説明しろ」

少し強めに背を叩かれ、相澤は一度防人に視線を向ける。呼吸を繰り返して上下している胸元とバイタルをチェックしている機械の音を聞いていると、彼女がどういう状況なのか知りたい気持ちが強くなっていく。

「……お願いします」

ではこちらへと案内されて病室を出て行く相澤の背中を見送る。いつもの猫背が小さく見えた山田はため息を漏らして防人を見た。
 先ほどまで彼が座っていたパイプ椅子に山田が腰を下ろす。彼女の枕元には救急車の中で相澤が切ったそれが置かれていた。

***

 医師から一通りの説明を受けた相澤は、山田をロビーへと呼びだした。意識がないとはいえ、彼女の病室でしたい話ではない。ライトが落ち、薄暗いロビーに置かれたソファーに二人は離れて座る。なかなか話し出さない相澤を急かすことなく山田は黙って待っていた。

「……簡単な治癒を受けたおかげで気道熱傷の呼吸困難は避けられる。腹の傷と左腕の傷も大まかに治してあるらしい」

ふぅ、と息を吐き出した相澤は祈るように組んだ両手に額を乗せる。

「ケガはなんとかなる。今、眠ってるのは出血性ショックと脱水症状のせいだ。ただ、それよりも長い間、過労状態が続いてたことの方が問題で……過労死寸前、らしい」

口をぎゅっと強く引き結んだ彼の近くで、山田は似たように背を丸めていた。

「だろうな。あんな働き方してりゃ、誰だって過労死するぜ」

悲しみと呆れの混じった声の山田に相澤は顔を上げて睨みつける。

「知ってて、何も言わなかったのか……?」

睨みつけてくる目に激しい怒気がある。彼のその目に山田は腹立たしさを感じずにはいられず強く睨み返した。

「お前のせいだろ……!」

低い声音に込められた憤りの強さに相澤は瞠目する。驚いた様子の彼を山田は変わらずにサングラスの奥から睨みつけた。

「何度も言った。こんなまともじゃない働き方をしてたら死ぬぞってな。でも防人のやつ、聞きやしねェ。もう一度、お前に会うには早く一人前になって認められなきゃならねェからって、この前までは笑って無理してたんだ」

 山田の言う通り少し前まで、防人は苦笑いではあるがよく笑っていた。しかし最近の彼女は笑うことも少なくなり、無理やり仕事に没頭しているように見える。

「あの日、防人に何言った?」

「あの日?」

 なんのことだと眉を顰める相澤に山田はカッとなって立ち上がる。そして、目の前に立って詰め寄った。

「防人が会いに行った日に決まってんだろ!」

本当に何のことだか分からない相澤は山田の剣幕に困惑するしかできない。冷静ではない山田は彼の困惑を動揺と取った。

「付き合う付き合わねぇはお前らの勝手だ。でもなァ、振るならそれなりにやり方もあっただろ……!」

 雨の中ずぶ濡れで白雲の墓の前で蹲って泣いていた彼女を見つけた日のことが、山田の脳裏に鮮明に思い出される。あの日、相澤に会いに行くと言った防人が心配で何度も電話を掛けた。一度も繋がることのない電話に嫌な予感がして捜し歩いて、やっと見つけた彼女は普段山田が見ていた苦笑いで無理をしている新人ヒーローではなく、嗚咽を漏らす弱弱しい一人の女だった。
 勢いよく伸びた手が真っ直ぐに相澤の胸倉を掴む。掴まれた彼は微塵の抵抗も見せなかった。

「マジで惚れてんなら、そんな女を朧の墓の前で泣かせてんじゃねェよ……!」

自分に身を預けてこようとしなかった防人を思い出すと、煮え切らない態度を見せる相澤に対して苛立ちが増す。

「……あいつは俺に会いになんか来てない」

目を見開いた山田に胸倉を掴まれたまま、相澤は力なく口を動かす。

「会ってたら……」

 顔を俯かせた相澤は唇をぐっと噛みしめた。会っていたら防人が無理をしていることに今の自分は気づいたのだろうか。彼女の一番近くにいた頃であれば気づいたんだろう。しかし、今は防人について分かってやれる自信のなさが悔しくて情けない。

「傍にいてやれよ……。アイツの為だけじゃねェ、お前の為にも」

 会いに行くと言っていた彼女が、どうして相澤に会いに行かなかったのか、どうして白雲の墓の前で泣いていたのか、あの日のことは防人にしか分からない。

 無理やり相澤と何があったのか聞き出したとき、"私の気持ちはもうあの人には迷惑なものに変わってしまいました"とだけ彼女は答えた。とても悲しそうな笑みにもうそれ以上、山田は問い質すことができなかった。

「防人と話すことがあんだろ?」

「……そう、だな」

 小さく答えた相澤の声。それを聞いてから山田はゆっくりと彼の胸倉から手を離した。

***

 数日後。眠っている防人の隣に置かれたパイプ椅子に相澤は座っていた。目を覚ます様子のない彼女が呼吸をしているかが気になって、彼の目はずっと彼女の胸元がちゃんと上下しているかばかりを見ている。

 コンコンと控えめなノックに気づいて顔を上げると、スライドドアの奥から男性が現れた。

「久しぶりだね、相澤くん」

疲れのある顔で微笑む男性に相澤は立ち上がって頭を下げる。

「ご無沙汰しています」

防人の叔父である彼は、ベッドで眠る自分の姪の傍へ寄った。

「桜、頑張ったんだね」

優しく防人の頭を撫でた彼は、点滴とバイタルモニターをちらりと見てから相澤へと向き直る。

「付き添ってくれてありがとう」

「いえ……」

目を逸らした相澤に防人の叔父は心配そうな顔で眉間にしわを寄せた。

「顔色が良くないね。ちゃんと休んでるかい?」

「……はい」

俯きがちな相澤の返事は明らかに嘘だった。困りながら"そう"とだけ返事をした彼も顔を伏せる。しばらくお互いに何も話すことはなく、二人の目は防人に向かう。

「相澤くん、無理はしないでくれ。ここにいるのがツラいなら離れても大丈夫だから。桜もきっとそう言うよ」

「……離れたく、ありません」

 口から出た本音に相澤は固く目を閉じる。本心では、ずっと傍にいたかった。それなのに、自分には無理だと突き放した。自分の身勝手さに反吐が出そうだ。

 苦しそうな相澤の様子が彼女の叔父は姪の容体と同じように心配になる。握り締めている手を見れば、彼がずっと自分を責めているのは一目瞭然だった。

「……君が桜と別れた理由はなんとなく分かるよ。相澤くんはとても優しいからね」

悲しさに眉を下げながら彼は俯いている相澤を見つめる。

「でも、君が一人ですべて背負ってしまうことはないんじゃないかな。君を大切に思ってくれる人たちに少しずつ寄りかかっていいと思う」

おもむろに相澤は顔を上げた。動揺している彼の目を見つめながら、防人の叔父は彼女に似た微笑みで優しく言う。

「きっと桜は、相澤くんに寄りかかって欲しいと思うよ。だから、まだ君がこの子を想ってくれているなら、目が覚めたときにそうしてあげてほしい」

 もう一度、防人の頭を撫でた彼を見て相澤は薄く口を開いた。しかし、言葉を発することなくまた口を引き結ぶ。

「……そろそろ時間だ。次はいつ来られるか分からないんだけど、相澤くんを頼ってもいいのかな?」

「はい……」

頷いた相澤に彼女の叔父は少しだけ安心したような笑みを浮かべる。

「嫌じゃなきゃ、手を握ってあげたりしてほしい。外部の刺激がきっかけで目が覚めることもあるからね」

"またね"と防人に声をかけてから彼女の叔父は相澤に会釈して病室を後にした。彼が出て行く様子を見送っていた相澤は防人の方へ振り返る。
 点滴の管が繋がっている白い腕。その先の手に触れてもいいのかと悩んで視線が下がった。

(俺は桜に触れる資格があるのか……?)

彼女が搬送されているときは思わず手を握ってしまったが、あれは許されることだったのかと考える。

 学生時代、白雲のときのように防人を守れずに、目の前で死なせるかもしれないと怖くなった。それを払拭しようと訓練を重ねても満足はできず、日に日に膨れる彼女への想いと同じように恐怖も膨れていく。どうしようもない怖さに、それなら自分よりも頼りになる男と一緒になって、幸せに生きていてくれればいいという考えがでてくるようになった。

「俺はお前の気持ちから目を背けてたのか……?」

彼女を守りたい気持ちでいっぱいになっていて、肝心の彼女の気持ちを無意識に除外していたのかもしれない。

 どうしたらよかったのか分からないが、こうなる前に何かできることがあったのではないかという気持ちが相澤を苛む。こんな情けない男は防人に相応しくない。そう思うのに、彼女のいる病室から出て行くこともできないでいた。


-30-
[*prev] [next#]
top