切らないで

 浮遊感の後、すぐに地面に体が吸い寄せられているように落ちているのが分かった。はためくマントコートの音を聞きながら、防人は鈍くなっていく感覚で地面との距離を測り間違えないように神経を集中させる。

 弱弱しくてもおかしくない彼女の腕の中にいる少年は、自分の体に回る腕の力強さに驚いていた。

「大丈夫……ケガもさせませんし、死なせません」

ぐっと肩を握るように抱き寄せてきた防人の鼓動が聞こえてきて、少年の体は不思議なほど動けないでいる。
 もう地面に衝突してしまう、というところで二人の体はふわりと浮き上がり、まるで寝かされるように地面に下りた。

「うっ……」

背中が地面に触れて走った痛みで上がった小さな呻き声は、燃え盛る音にかき消される。体に回っていた腕が離れたことで解放された少年は、横たわっている防人の顔を覗き込んだ。

「なんで……」

 個性を解いた彼は元の学生服姿に戻っている。信じられないと動揺している彼に向けられる彼女の表情は柔らかだ。

「言っていたでしょう? "都合のいい個性"だって。だから、もしかしたら誰かにそう言われてきたんじゃないかって思ったんです」

ちらりと彼を見た防人は哀れむように目を細める。

「君は罪を犯しました。でも、あの男性とは違って人を殺めたことはありません。さっきも、私を後ろから抱きしめたのは、燃え崩れそうな足場から遠ざけたかったからでしょう?」

 気づかれていたことに少年は唇を噛みしめた。肩を震えさせる彼を見つめる防人の目は痛ましげだった。

 火の中で暴れていた二十歳ほどの男と学生服の少年の二人組の情報は、ヒーローたちの間で共有されている。ある程度、彼らは有名だった。
 この二人のことを追っていたわけではないけれど、情報を見るたび何かが引っかかる防人は違和感の正体を見つけようと個人的に調べていた。そして見つけたのは、彼らの生い立ち。先日別件で摘発された児童養護施設にこの二人はいた。

 その児童養護施設は職員による子どもたちへ精神的な虐待や洗脳じみた教育が日常的に行われており、そこに預けられた子どもたちのほぼすべてが凶悪な(ヴィラン)になっている。少年もその一人に数えられているが、よく調べてみれば彼だけは誰も殺害したことはなかった。

「個性は使い方次第です。貴方の心の在り方で素晴らしいものであっても"都合のいい"ものへと変わってしまう」

血で濡れていない右手を伸ばし、少年の頭に触れる。少し硬い髪を優しく防人の手が撫でていく。

「これから罪を償っても、貴方のことを酷く言う人はいるでしょう。でも、貴方のこれからを見てくれる人もきっといるはずです」

目にいっぱいの涙を溜めている少年に彼女は微笑んだ。

「でもきっと大丈夫。だから、負けないで、ください……」

だんだんと重くなっていく体に防人は覚悟をして目を伏せた。

「嫌だ、ねえ……」

弱弱しく体を揺すぶられて少年を見上げる。

「ここも、もう限界です。早く、逃げて」

困惑している少年に向けられる防人の眼差しは変わらずに穏やかだった。その眼差しは彼が子どもの頃に死別した母親を思い出させる。
 彼女の目が閉じられていく。同時に、これまで飛んでこなかった火の粉が降り注いできた。

「母、さん……」

自分の名前を呼んでくれる母親の声。ずっと忘れていたそれを鮮明に思い出した少年は、防人の腰から鞘を抜き取る。ぐったりと動かない彼女を横抱きにして、少年は救護を行っている人間を必死に探し始めた。

***

―崩落5分前―
 大規模火災になった現場は真夜中ということなど関係なく、周囲に熱と明るさをまき散らしている。普段、(ヴィラン)対応のみである相澤も近くにいるという理由で応援に呼ばれた。事前に得た情報では(ヴィラン)がいると聞いている。

「どういう状況ですか?」

 現場で活動しているヒーローたちの殆どが災害救助を主な活動にしている者たちばかりで、戦闘を主にしているヒーローはいない。いたとしても経験の少ない新人ヒーロー数人がおろおろと、どうしていいか分からないとばかりに災害救助の手助けをしている。

「火災元のビルにまだ(ヴィラン)がいる! 今、サイキッカーが応戦しているから、他で救助に当たっているところだ」

「暴れていたうちの一人はもう確保している。もう一人もサイキッカーに任せて消火を―――」

 説明を受けている間に出火元であるという雑居ビルの一部が崩れて轟音が地を走った。音のする直前、相澤の視界に入った人影は誰かを抱えながら建物から弾き出されるように落ちていた。

(桜……!)

そのまま落下していく彼女の姿がおかしなほどゆっくりに見えて、気づけば落ちた辺りへと駆け出していた。

 近くで避難誘導や救助活動を行っていたヒーローたちに状況の確認した相澤は憤りが膨れていくのを感じずにはいられなかった。確かに彼女はヒーローだ。しかし、どれだけ有能であっても彼女はまだ二年目を迎えるところ。経験はこの現場にいる者たちの中でも浅い。
今、この現場には火災現場で活躍しているヒーローも多く駆けつけているというのに、なぜ燃えているビルの中の救助活動、(ヴィラン)との戦闘を彼女一人が行っているのか。なぜ、誰も彼女と行動しないのか。誰かが一緒にいれば、この燃え盛るビルの上から落ちることはなかったのではないか。腹立たしさにいつの間にか相澤は唇を噛みしめていた。

 燃え崩れそうなところを避けながら、彼女が落ちたであろう場所を探す。体を撫でるように這う炎の熱に全身から汗が噴き出した。何かの下敷きになっているんじゃないかと嫌な予感がして一瞬背中が寒くなる。

(まだ、分からない)

額から流れる汗を袖で拭ったとき声が聞こえた。振り返ると、火の明るさの中から若い男が現れた。

「アンタ……!」

相澤からは火の明るさが強くてよく見えないが、相手は酷く驚いているようだ。一度足を止めた相手は、何かを抱え直すと相澤のところまで走ってきた。
 駆け寄ってきたのは学生服の少年で、腕に大きな火傷を負っている。そして、彼が両腕で抱えている人物に気づくと相澤の思考は止まりかける。

「アンタ! ヒーローだろ!?」

力なくぐったりとしている防人の腹にはナイフが柄のところまで深々と刺さっている。赤い炎の明かりでも分かる彼女の青い顔色に、どんどんと冷静さを失いそうだった。
 どうしてこんなことになっているのかと考えてしまう。今は一刻も早く、彼女を病院へ送らなければならないと頭では分かっているのに、目の前の防人を見ていると恐怖で心が潰されていく。

 動けずにいる相澤に痺れを切らした少年は眉を吊り上げた。

「しっかりしろよ! コイツのこと知ってんだろ!? 惚れてたんだろ!?」

(惚れてた?)

過去形なんかじゃない。お前が何を知っているんだと睨んだ相澤に少年はまったく怯まなかった。

「僕が言えることじゃないんだけど、コイツ……この人のこと、死なせないでくれ……」

か細く消えていった少年の声に我に返った相澤は、彼の手から丁寧に防人を受け取る。久しく触れていなかった彼女がこんなにもボロボロであることに胸が痛む。

「桜……」

心配と不安から口を突いて出た彼女の名前。それが聞こえたかのように、長いまつ毛が揺れて黒い瞳が相澤と少年を映した。

「まだ、生きてます……」

そう弱弱しく笑う防人に少年が泣き出しそうに顔を歪める。その様子はまるで幼子のように頼りなくて小さかった。

「僕、ご、ごめんな、さ……」

「……私は貴方の個性で、見失いかけていたものを思い出しました」

"ありがとう"と笑う彼女が彼に対して何を話しているのか相澤には分からない。しかし、防人の言葉で少年の表情が少しだけ変化したように思えた。

「君も早く治療した方がいい」

 ついてくるように相澤に指示された彼は何も言わず大人しく頷く。少年も小さくはないケガを負っている。
 動き出す前に腕の中にいる防人の様子を見ると、彼女は申し訳なさそうな顔をしていた。

「すみません……ご迷惑を―――」

「―――迷惑じゃない。気にするな」

 走り出した相澤の顔を見上げる。ふと、学生時代に足を折ってしまった時のことが防人の脳裏に蘇った。

「懐かしいなぁ、あの頃に、戻れたみたい……」

じわりと涙が出てきたと思ったら、だんだんと瞼が重くなってくる。寒さを感じるのに眠くて仕方がなくなってしまう。

「おい! 寝るな!! しっかりしろ!!」

近くで聞こえてくる彼の必死な声に、閉じようとする目をなんとか開けた。

「分かってますよ……」

 消え入りそうな声で答えた彼女を抱く腕に力が入る。そのまま相澤と少年は救急隊のいる場所まで駆け抜けた。

***

 腕と背中を火傷していた少年と防人のケガ。それは誰が見ても彼女の方が重傷だというのに、防人は少年を先に救急車へ乗せるようにと言い張った。

「助かる可能、性が、高い方から、搬送するのは、当たり前、じゃないですか……」

「何言ってんだ。お前も助かる」

先に到着した救急車には、結局少年が乗り込んだ。そして続いてやってきた救急車に防人と付き添いに相澤が乗り込む。

「すみません、左手のものを切断します」

救急隊員が彼女の左手に巻き付いているものを切ろうとする。キツく結ばれたそれは、手から刀が抜け落ちないようになっている。

「お願い、切ら、ないで……」

嫌だと弱く首を振る防人に相澤はやっとそれがなんであるのか気が付いた。学生時代、分けてほしいと強請られて渡した捕縛武器。今、彼が首元に巻き付けているものよりもずっとくたびれてしまっている。

「ですが、これを取らなければ処置ができません」

困った様子の救急隊員に彼女は誤魔化すような笑みを見せる。

「もう、助かる可能性も、低い、でしょう?」

だったらこのままでいさせてと言外ににおわす彼女に、相澤は目をカッと見開いた。そして、腰にある自分のナイフで遠慮なくそれを切り裂いた。
 ごとりと刀が落ちた音が車内で短く響く。鞘に納められているのは、あの少年が咄嗟にしたことのようだ。

「ふざけるな……! お前はちゃんと助かるって言ってんだろ……!」

目尻を上げて怒る相澤を防人はぼんやりとした目で見つめ返す。

「もう、痛みがありません……」

 ぽつりとこぼした彼女の声も表情も諦めてしまっているように見える。そのまま視線をどこかへ流した防人の手を相澤は思わず掴んだ。あの頃、手を握れば嬉しそうな顔をして握り返してくれた彼女は、今、顔に(すす)を付けて息も絶え絶えに穏やかな顔をしている。

「どうか、幸せになって、ください、ね」

「馬鹿なこと言うな……」

嫌だと首を振る相澤に防人は、遠退いていく意識の中で困ったように笑みを浮かべた。

「きっと、幸せに、なれますから……。だから、諦めな、いで……」

小さく動いた口。そこから出たはずの声は救急車のサイレンの音に塗りつぶされた。しかし、彼女の体に顔を寄せていた彼には聞こえていた。ポタっと相澤の目から涙が落ちる。それが合図だったかのようにバイタルモニターが警告音を鳴らし始めた。

 救急隊員が彼女の名前を呼んでいる。それでも防人は目を覚まさない。数分後、病院に到着するまで相澤は目を閉じたままの防人の顔を見つめていることしかできなかった。

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