一人で生きていける

 燃え盛る炎が周囲の夜闇をかき消す。昼間、路地裏でひっそりとしていた雑居ビルは、轟轟と燃え、現場に駆け付けたヒーローたちが近隣住民の避難を呼びかけている。

「さあ、苦しみ悶えて踊ってくれ」

 歪な笑みを浮かべた二十歳ほどの男性に向かい合うフードをかぶったヒーローは左腰の刀に手を添えて何も答えない。燃え上がるビルに見えているのは男と刀を持ったヒーローだけ。
 彼が手をかざすと炎が勢いを増した。焼け落ちてきた柱をサイコキネシスで払いのけ、防人は男へと刀を振りかざす。世間では流麗と評価される彼女の剣。今、その剣技は美しさよりも苛烈さが上回っている。

「ああ、素晴らしい! とても美しい剣筋なのに、油断したら首を跳ね飛ばされてれしまいそうだ!」

 優雅に踊るような動作で男は防人の突きを躱す。しかし、その行動も予想の範囲内だったのか、防人は突きから横へ刀を薙ぎ払った。

 一瞬、反応が遅れた男の髪が数本斬れて、はらりと周りの火の中へ消えていく。何が起こったのか理解できないような男に、刀を構えたまま話しかける防人の声音は冷静だった。

「ここにいては貴方も無傷ではいられません。大人しく捕まってください」

「ワタシの……髪が……」

わなわなと震えだした男は、胸ポケットから出した鏡で確認しながら斬られた部分の髪に触れる。

「あ、ああ。……ワタシの髪が。美しい、髪が……!」

顔面を覆っていた男の手は這うように頭の方へ上り、髪を押さえつけながら絶叫した。
 激しく興奮した男はこれまでの笑みを引っ込め、吊り上げた目から涙を流し出す。

「き、貴様……!! よくも……!!!」

男が両手を炎へかざすと、一気に火が吹き上げる。降りかかりそうな火の粉を個性で払った防人へ男が落ちていた鉄パイプで殴りかかった。

 紙一重でそれを躱すが、男の狂気じみた攻撃は変わらない。大きな奇声を発しながら、周囲のものすべてを凄まじい力で殴っていく。

「落ち着いてください! ここは燃えて足場も脆くなっています! 下手に暴れないでください!!」

宥めようとしても、防人に攻撃が当たらない腹立たしさを男は周囲を殴ることで晴らすように暴れる。こうなっては声が届くことはなさそうだ。

「兄ちゃん、また正気じゃなくなったのかい?」

 ぞわりとするような冷たい声に振り返ると、学生服の少年が男に似た歪な笑みを浮かべていた。獣のような声を上げる男に少年は面白がるように手を叩く。

「ここまでイッてるのは久々だなァ。何、アンタそんなに強いんだ?」

一見真面目そうな印象を受ける少年が何かをしようとしているのを感じて防人は身構える。

「ねえ、僕とも遊んでよ」

ふ、と間合いに入り込んできた少年の手元には刃渡り25センチほどのナイフが握られていた。彼女の腹を裂こうとしてきたナイフを刀でいなし大きく飛び退くと、背後では暴れる男が鉄パイプを振り上げている。それを刀で受け止めずに、個性で鉄パイプを押さえつけた。

「うああああああ!!!!」

 叫んだ男は鉄パイプを放り捨てると両手を振り下ろす。彼の個性は炎を操る。何もないところから火を出すことはできないが、この場のように燃え盛っている火であれば彼の思いのまま動かせる。つまり、その気になれば、近隣の建物に燃え移らせることも人に炎を纏わせて殺すことも自在だ。

 あぶるように炎が体をかすめ、防人は顔を顰めた。サイコキネシスを使って炎を振り払う。自分と同じような個性で炎を防がれたと思った男が驚いている間に、彼女は彼の体を刀の下げ緒で縛り上げた。
 燃え崩れた壁の向こうに外が見える。下では水の個性を持ったヒーローたちが懸命に消火活動を行っていた。

「この男をお願いしますッ!!」

燃えてしまいそうなほどの熱を孕んだ空気を肺いっぱいに吸い込む。消火活動をしているヒーローたちへ向かって腹の底から声を張り上げれば、気付いた数人が、すぐさまこちらを見た。ドン、と男を地面に向かって突き落とす。
 まさかそんなことをされるとは思っていなかったのだろう男は甲高い悲鳴を上げて落ちていく。そして、防人が地面すれすれで彼の体を浮き上がらせた瞬間、気を失ったようだ。

「兄ちゃんばかり見て、妬けるなァ」

 ハッと振り返れば、後ろから少年に抱き寄せられる。ぞわっと背中に走る嫌悪感に彼女の柳眉が不快そうに寄せられた。

「いい匂い……。やっぱりお姉さんなんだね」

防人の体を抱きしめたまま離さない少年の体が弾けたように引き離された。意外そうに口を尖らせた少年は、手首を痛めていないか確かめるように回している。

「そんなに怒ることないじゃない」

「貴方はここで何をされていたんですか?」

 冷静な彼女の様子に少年は思い出すように顔を上げてため息を吐いた。

「ちょっと遊んでただけだよ。でも、つまんないよね。すぐ壊れちゃった」

彼が指さした先を追う。ドアだったものの影に、ぐったりとしている女性がもたれていた。

「大丈夫ですか!? しっかりしてください!」

声をかけてみるも、女性は耳を塞いで細かな声を漏らしながら泣いている。

「……何をしたんです?」

 向けられた防人の目の冷たさに少年は嬉しそうに歪んだ笑みを口元に浮かべた。

「お姉さんにもしてあげるよ」

少年と目が合った瞬間、くらりと視界が歪んだ。強く目を閉じたときに聞こえてきた声で彼女の体が強張った。

「こっちを見ろ」

 顔を上げれば、先ほどまで少年がいた場所にはいるはずのない人が懐かしい姿で立っている。

「な、にが……」

防人の目に映っているのは、雄英の制服を着た数年前の相澤だった。初めて動揺した様子を見せた彼女に、相澤の姿をしたそれは彼がしないであろう歪な笑みを見せる。

「こいつがアンタの一番大事な人間だろ?」

「……それが貴方の個性ですか」

 息を短く深く吸い込んだ防人の目から動揺はもう見られない。相澤の顔で少しつまらなさそうな顔をした少年は軽い様子で頷いた。

「そう。相手が一番大事に思う人間に化けられる。都合のいい個性だろう?」

手の中でナイフをくるくると回しながら彼は視線を左へと流す。

「この個性を使って傷つけてやるとさ、みんな凄く怯えたような顔をするんだ。その顔をさせることが僕の存在価値さ」

ナイフを握り直した少年が駆け出す。しかし、それは防人に向かってではなく、座り込んで泣いている女性へ向かっている。
 後から駆けだした防人が少年より先に女性の前に出る。ナイフをはじき落とすと、彼女の肩を掴んだ。

「貴女が誰の姿を見せられて何をされたのか私には分かりません」

でも、と言葉を切って女性を個性で持ち上げる。

「負けないでください」

外で消火活動をしているヒーローたちへ彼女を投げ飛ばすように運ぶ。炎を弾ける音の間に聞こえてくる彼らの声を頼りに女性を下ろしていくと、誰かが彼女を受け取ったのか動かそうとする方向とは別に引かれているのが感じられた。

「そっちばかり見るなよ」

 その声に体が勝手に反応してしまう。違う。そう頭では理解しているのに、彼の存在を渇望している防人の心はまだ動揺したままだった。

「……ちゃんと見ていますよ。貴方を捕まえなくてはいけませんから」

目を閉じて空気を吸い込む。そして、狼狽える気持ちと一緒に胸の奥から吐き出した。

 攻撃を仕掛けたのは防人からだった。刀が空を切る音をさせながら少年の体に向かう。躱されれば、間髪入れずに少年の動きを追いかける。そしてすぐに、彼の腕を刃が掠めた。

「酷いな。……桜」

切なさそうなその表情に一瞬、体が強張った。記憶の中の彼が目の前でしゃべったような感覚に囚われて、体の自由を奪われる。
 それを見逃さなかった少年はまた口元に冷たい笑みを浮かべて、ナイフを突き出した。

「……ッ!」

避けられなかったナイフは深々と防人の左腕を切り裂いた。

「これでもうそれは振り回せないな」

左腕を押さえる彼女を見る少年の目には何の感情もない。ダラダラと防人の左腕から流れる血。すぐにその血は彼女の纏うヒーローコスチュームを染めていった。

「随分、この男とは会ってないんだね。振られたの?」

防人の血がべっとりとついたナイフを眺めている少年に、痛みと周囲を焼く熱さで汗を流しながら彼女は顔を上げる。

「……貴方は他人の記憶を読むんですね」

「全部じゃないよ。相手の一番大事に想っている人間に関する記憶を少しだけ」

 鎌首をもたげるように顔を上げた少年は腕を押さえたままの防人に微笑みかける。

「一緒にいてあげようか? 桜が一人ぼっちにならないように」

彼の姿で、彼の声で言われたそれは心のどこかで、彼にそう言ってほしいと願ったものだ。

(消太くんは、こんな言い方しない)

 いつも不器用な優しさで包んでくれる人だった。自分の想いに応えてくれた日だって、一緒にいてあげるだなんて見下したような言い方はせず、"一人で泣かせたくない"と隣に立ってくれた。

 ふっ、と小さく笑った防人はいつも深くかぶっているフードを外す。雄英に在籍していたときよりも短いけれど、美しい黒髪は高く結われていた。

「こっちに来れば、もう君が悲しい思いをすることはない」

手を差し出してくる相澤の姿を見てから、彼女は高く結っていた髪を解く。

「行くわけないでしょう。私は"ヒーロー"なんですから」

上手く力の入らない左手に刀を握らせ、髪を結んでいたそれを上から巻いていく。口の端でくわえて、キュッと固く結んだ防人は相澤に向けていたような柔らかな表情をしていた。

「傍にいられなくても、私のすることは変わりません」

 ヒーローという選択肢は相澤からもらったものの一つだ。彼から与えてもらったものを一つ一つ大事にしながら、自分は一人で生きていける。そう思い返せたのはこの少年のおかげだろう。

「ここで貴方を止めます。貴方の個性は、きっと人の役に立てる。だから―――」

 目を見開いた少年に一度目を伏せる。そして、防人は正面から相澤の姿をしている彼を見つめた。

「―――ちゃんと、罪を償いましょう」

ギリギリと歯ぎしりをしている少年は、きつく目尻を吊り上げる。

「何が"人の役に立てる"だ。知ったような口を利くな!!」

激高した彼はナイフを持って彼女の間合いに突っ込む。ブンブンと響く空を裂く音をさせるナイフの先をすべて躱した防人の動きには余裕が見られた。

 軽い動きで少年の猛攻を躱していく。これまで彼に見せていた動きよりも格段に速い体捌き。動揺が消えたことで彼女本来の動きになっていく。

「クソ!! 当たれよ!!」

冴えのある動きをする防人とは対照的に、少年は苛立ち、攻撃が当たらないことに焦り始めていた。
 ナイフを少年の手から落とそうと振るわれる彼女の剣技は左腕を負傷する前と変わらない。どうして威力が落ちないのか、それを考える余裕も彼には残されていなかった。

 バキバキとした一段と大きな音。ハッと顔を上げた防人が見たのは、今まさに崩れようとしている少年の頭上。

「何も知らない奴が好き勝手なこと言いやがって!!」

迫りくるナイフを避けることも捌くことも難しくないけれど、そうして彼の動きを止めてしまったらどうなるか、彼女には考えなくても分かった。

(消太くん……)

 目の前にいる相澤の姿を模した少年ではなく、目を閉じればいつも見える学生時代の相澤を思い描く。
 建物の周囲が揺れるほどの地響きとほぼ同時に、防人は少年を抱きしめるような形で燃え崩れる雑居ビルから落下した。

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