会いに行こうと思います

 どうしても病院に向かう前にスマホを修理したいという彼女に折れたことを山田は強く後悔していた。処置室で手当てを受けている防人の背中を見る彼の眉間にはしわが刻まれている。
 治療中も鳴りやまないメッセージの通知音。修理後にディスプレイに表示された着信件数とメッセージの件数は合わせれば50件近くになっていた。

「……これ全部事務所からか?」

「多分。他に連絡してくる人はいませんから」

 特に焦ることもなくメッセージを確認している防人の様子から、随分と慣れているのが分かる。やはり、彼女の労働環境は劣悪だ。"なぁ"と声をかけようとしたタイミングで、また彼女のスマホが着信で震えだす。

「すみません、出てもいいですか?」

「はい。大丈夫ですよ」

 処置室の看護師に許可を取ってから防人が電話に出ると、一切のタイムラグなしに怒声が受話器から飛び出した。"申し訳ありません"と何度も謝る防人の声を聞いていられないのは山田だけでなく、その場にいた看護師たちも同じで驚いていたり気の毒そうな顔をしている。

 通話を終えて、ふう、と小さく吐き出した彼女のため息には疲れと諦めが混じっていた。額を押さえていた防人は彼の視線に気づくと眉を下げて困ったように笑う。

「変なところ見せちゃいましたね」

「……あの話、真面目に考えてるか?」

俯いた彼女に山田は表情を険しくさせた。

「このままじゃ潰されるぞ」

 何も答えられないでいる防人の脳裏にあの人の言葉が過る。

『君はもっと自信を持っていいんだぜ!』

ナンバーワンヒーローである彼の言葉が、彼女の顔を上げさせた。何かを決めたような表情をしているが目にはまだ不安が残っている。

「……返事は会いに行ってからでもいいですか?」

「誰に?」

今にも泣き出しそうな顔をしている防人に、彼の胸は締め付けるように切なくなった。

「相澤先輩に」

無理やりに微笑んだわりに、彼女の声は凛としている。そのことがほんの少しではあるが山田を安堵させた。

***

 初めて自分から休みが欲しいとかけあった。当然の如く渋られ、嫌味などをぐちぐちと言われてしまったが、その結果、ヒーローになって初めて防人は丸一日の休みを取れた。

 私服に身を包んだ彼女はあまり天気が良くないことを残念に思いながら、彼が担当している地域を歩く。そろそろ昼に差し掛かる時間だ。彼も一度、どこかで休憩を挟むだろう。
 不安の拭えない胸元に手を置く。オールマイトの言葉を真に受けて、会いに行こうと思うだなんて調子に乗っているのかもしれない。
歩幅が狭くなり、歩く速度はどんどんと遅くなる。そして、ついに防人の足は止まった。

(今、会わなかったらもう私から会いには行けない……)

それでいいのかと自問して目を閉じる。すぅっと目を開けると、彼女の足取りはこれまでよりも軽くなった。


 彼を探して歩き始めて、夕方に差し掛かろうかという頃。曲がり角を抜けたところで、防人の目にずっと探し求めていた人の姿が飛び込んできた。その姿を見ただけで、胸の中にずっと居座っていた不安も焦りも、今は感じない。

 反対の歩道にいる相澤へ近づこうと、急いで横断歩道を駆け抜けた。もう少しで彼に声が届く。

「しょ―――」

「イレイザー、私と結婚しよう! 私とならいい家庭が築けるぞ!」

 "消太くん"と呼ぼうとした"防人の声は、相澤の向かいからやってきた女性の声に上塗りされるように消されてしまった。

「あー、はいはい」

聞こえてきた会話の内容に驚いて動けないでいる彼女に気づかない相澤はそのまま背を向けたまま歩いて行ってしまう。呼びかけようとした気持ちが急速に萎れていくのを感じながら防人はその場に立ち尽くした。

「ブッハ! 何照れてんだよ!」

 バンバンと背中を叩かれた不快さに顔を顰めた相澤が、何気なく振り返る。しかし、そこにはもう誰の姿もなかった。

***

 不安定だった天気はついに崩れ雨が降り出していた。本降りの雨の中傘も差さず、歩いていた防人は目的の場所に来ると、疲れたような小さな笑みを見せる。

「胸、貸していただけますか?」

綺麗な黒髪は冷たい雨に濡れて彼女の端正な顔に貼りついている。悲しさで一杯になっている瞳は、目の前のそれに真っ直ぐ向けられていた。

「―――白雲先輩」

 墓石に打ち付ける雨が白く跳ね上がって、あちこちに飛んでいく。その場にしゃがみ込んだ防人の目から、あの日から我慢し続けていた涙がようやくこぼれ始めた。

 相澤に別れを告げられたあの日から今日までできることは必死にやってきた。一日でも早く彼に、自分の背を預けられると認めてもらえるようになりたかった。でも、それはもう遅かった。

「私、もう消太くんのこと好きじゃないんです。私―――」

 椎名に会った新幹線で、トンネルに入る音にかき消された言葉が素直に口から滑り出た。

「―――愛しているんです」

一度は通じ合ったこの気持ちは、もう相澤の中では過去のものになってしまっていた。彼への気持ちが届かなくなってしまうのが怖くて焦っていた日々も終わったのだと思うと、次から次へと際限なく涙が溢れてくる。両手で顔を覆う彼女に誰の返事もない。誰もいない雨の墓場であることも手伝って防人は人目もはばからずに泣いた。

 どのくらい泣いていたのか分からないが、掠れて声が出なくなった頃。突然、彼女の腕は引き上げられた。引き上げられたままの勢いで防人の体は、その相手に抱きしめられる。

「胸貸してやるって言ったのは朧だけじゃねぇだろ」

強く抱きしめてくる腕は彼女の知っているものではない。いつも埋めていた胸ではないことが悲しくて涙の勢いが増してしまう。

「俺のことも忘れんなよ」

体を預けてこようとはしない防人の頭を引き寄せた山田の表情は沈んでいた。止みそうにない雨から少しでも、この弱弱しい存在を何とかしてやりたい。何もしてやれないことを心苦しく感じながら山田は何も訊かずに彼女を抱きしめていた。

 雨の音が聞こえる。激しく冷たい雨は防人の心を癒すことはなく、体だけでなく胸の中からも熱を奪っていった。

***

 相澤に会いに行こうとした日以来、防人はこれまでにも増して仕事にのめり込んだ。睡眠時間を削り、基本的には休みも取らない。

 そんな生活を送っているうちに防人がプロヒーローとして活動し始めて一年が過ぎようとしていた。相変わらず、メディアの前には姿を見せない性別不明のミステリアスなヒーローとして有名な彼女だが、一つだけ変わってしまったことがあった。

 風船を飛ばしてしまった子どもに偶然出会った防人は、その個性を使って自分の手元へ風船を引き寄せた。飛んで行ってしまうはずだった風船が戻ってきたことに喜んだ子どもが笑顔で彼女へお礼を口にする。

「ありがとう!」

「今度は飛ばさないでくださいね」

目深にかぶったフードから覗いた笑みに、子どもは不思議そうな顔をした。隣にいた子どもの母親のお礼で送り出されるように、防人はパトロールへ戻っていく。その背中を見ながら、子どもは母親の手を引いた。

「ねえ、ママ。あの人、どうして笑ってるのに泣いちゃいそうなの?」

「え? そうだったかしら?」

母親には分からなかったが、子どもは違うらしい。"絶対そうだった!"という子どもに母親は"うーん"と考える。

「何か悲しいことがあったのかしらね」

ヒーローでも悲しいことがあるのかと子どもは、彼女が歩いて行った方を見る。子どもの視界に入ったのは、少し雲の多い空と、柔らかくなったつぼみを付けた桜の木だった。

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