想っているから…

※このお話にはアニメ化されていないネタバレがあります。閲覧には十分、ご注意ください
 今日も屋上から見上げる空は青い。風に長い黒髪をなびかせながら防人は遠くを見つめていた。
 白雲の事件から一年が過ぎた。あの頃、毎日一緒に昼食を摂っていた相澤の姿はここにはない。昼食を軽く済ませ、残りの休み時間をすべてトレーニングに回してしまう彼と最後に一緒に昼食を摂った日を思い出すのは、少し時間がかかるほど前のことだ。
 それを寂しいと思った事はないけれど、最初の頃は直向きな彼の姿が痛々しく見えて仕方なかった。

 いつも三人が座っていた場所に腰を下ろす。しばらく手元の弁当を見つめる彼女は無表情だった。そっと開かれた弁当の中身は、よく白雲が食べていたものに似ている。寂しそうに目を細めた防人は誰に言うでもなく、"いただきます"と手を合わせて箸を持った。
 もう涙は出ない。しかし、彼の月命日にはこうして一人で、彼の弁当に内容を似せて食べるのを止められない。

(寂しい……)

そう感じるせいなのか、今日も味がよく分からない。ゆっくりと何度、咀嚼しても変わらない。
 あの三人の姿がないことがこんなにも寂しいのは、まだ自分がちゃんと前を向けていないせいなのだろうかと防人は箸を止めた。自分が寂しさに囚われているこの瞬間、ふと、相澤は何をしているのだろうかと頭を(よぎ)る。
 きっと、手早く昼食を済ませ、トレーニングか、午後の戦闘訓練に備えて、どこでも寝られて便利だと持ち込むようになった寝袋で寝ているんだろう。

 まだ、相澤の心には影が落ちている。それを自分が払拭できるとは思えない。いくら恋人であるからといっても、そんなことはできないし、自分にできるのは相変わらず彼に寄り添うことだけ。何もできないもどかしさは日に日に強くなり、じりじりと炎で身を焼かれているような感覚が防人を苛んでいた。

 隣を吹き抜けていった風に顔を上げる。そこには青い空にぽつんと小さな雲が浮かんでいた。真っ白でふわふわと浮かんでいる雲をぼうっと見つめてから防人は膝上の弁当に視線を落とす。
 相澤は戦闘訓練に力を入れることで、前を向こうと必死になっている。それなのに、自分はいつまでも心の中でめそめそしている。急激にそれが恥ずかしくなって、ぎゅっと固く目を閉じた。

 昼食を済ませると、防人はケータイを取り出した。気持ちが鈍らないうちにと、簡潔に指をケータイの画面に滑らせる。

『今日から私も帰りが遅くなるので、時間が合えば一緒に帰りましょう』

昨年とは違い、放課後も体育館で自主トレをする相澤と一緒に帰ることは無くなっていた。一度、彼の自主トレをこっそりと覗いたことがあったが、ボロボロになりながら必死になっている姿が痛々しくて、見ていると止めてしまいそうな自分に気づいてからは一度も様子を見に行っていない。

 顔を上げるとそこには先ほどの雲がまだあった。その少し離れたところに小さな白い雲がちょこんと浮かんでいる。

「前、向かないと、ですね。形だけじゃなくて、ちゃんと……」

浮かんでいる雲に向かっているはずなのに、防人の視線は雲を通り過ぎて別のものに向けられているようだった。

***

 待ち合わせの中庭には、なぜか誰も使わないベンチがある。日が沈み、周囲が完全に暗くなってしまっても、そのベンチに誰が座っているのかが分かった。

「お前、こんな時間まで何してたんだ?」

呆れた相澤の声に防人はベンチに座ったままゆっくりと顔を上げた。

「勉強を頑張ろうと思いまして。さっきまで先生にマンツーマンで教えてもらってました」

彼女の成績は悪くない。どちらかといえば優秀な部類のはずだ。そんな防人がなぜ居残りまでして勉強をしていたのか分からず、相澤は首を傾げた。

「そんなに苦手なところなのか?」

「いえ、そこまで苦手というわけじゃないんです」

じゃあ、なんでと言わんばかりの彼の目に微笑みかけた彼女からは、どこか悲しさが感じられた。

「……今、私ができることを全力でやろうと思って」

 立ち上がった防人の黒髪が僅かに揺れる。普段と何も変わらない美しさに、僅かな影が落ちていることを相澤は見逃さなかった。

「帰りましょう。明日もありますから」

にこっと笑った彼女に手を伸ばす。自分よりもずっと小さな手を相澤の傷だらけの手が包み込んだ。

「何かあるならちゃんと言ってくれ」

 少し不機嫌そうな顔をしているのに、彼女に向けられる彼の目には心配が含まれている。彼だってまだ前を向こうと必死になっている途中だというのに気遣ってくれる。その優しさに自然と涙がこみ上げてきそうな気がして、防人は意識して笑みを作った。

「今は大丈夫です。ダメになりそうなときは聞いてください」

まだ自分が白雲の死に対して受け入れ切れていないなんて言ってしまったら、優しい彼が自分を放っておかないことは分かり切っている。そんなことになったら自分は相澤の足枷になってしまう。少しずつでも、まだ心に影を落としていても、前を向いている彼の強さに敬意を覚えるからこそ、邪魔になりたくはないし、まだ大丈夫と虚勢を張れた。

 納得していないような目している相澤は困ったように目を伏せる。それを分かっていながら防人は見ないふりをした。

 その日から、二人は時間が合えばまた一緒に帰るようになった。

***

 時間の流れは早かった。夏が過ぎ、秋が来て、冬を越し、春になった。桜の花びらが水色の空に舞っている。ぼうっとその様子を眺めていた相澤の背に柔らかな声がかけられる。ゆっくりと振り返れば、そこにはそよ風に綺麗な黒髪を揺らす彼女が立っていた。

「卒業、おめでとうございます」

「ああ」

 胸に卒業生の証である記章をつけたヒーローコスチューム姿の彼に防人は眩しいものを見るように目を細めた。

「もう、消太くんと一緒に学校にいられないことが凄く寂しいです」

「……そうだな」

 視線を逃がした相澤は、桜の木の根元に腰を下ろすと、その隣をとんと叩く。隣に座れと言っている彼の行動に従って、彼女は素直にすぐ傍に座った。

「………」

 卒業式の後に、よく一緒に昼食を摂ったこの場所に呼び出したのは相澤だった。防人に伝えなくてはならないことがある。それなのに、いざとなると口が動かない。こういうところは付き合う前と変わらないなと自嘲した。

「……去年、ここによく来ていた黒猫、この前赤ちゃんを連れてきたんですよ」

 ほらと彼女が見せてきたケータイを覗き込む。そこには大きくなった黒猫と、白と黒のハチワレの子猫に、茶色と白のバイカラーの子猫が映っていた。

「可愛いでしょう?」

「ああ」

にっこりと笑う防人に胸がどきりと跳ねる。頬が赤くなるのを感じながら、彼女への気持ちがまだまだ深くなる予感がした。
 はらはらと落ちてきた桜の花びらが防人の髪に落ちる。何気なくそれを取ろうと相澤が手を伸ばすと、いつの日かのように彼女の顔が真っ赤に染まった。

「……あのときと同じだな」

「え?」

目を瞬く防人の頭を抱き寄せて撫でる。長い黒髪は触り心地がよく、シャンプーのいい香りがした。

「卒業したら、個人事務所を作る話はしたよな」

「はい。言ってましたね」

 ふぅっと大きく息を吐き出した相澤の頭にはこれまで防人と雄英で過ごした日々が思い返されていた。何度も何度も考えて出した答えは変わらない。不甲斐ない自分を許してほしいとは思わない。むしろずっと恨んでてほしい。そうすれば、少しでも長く彼女の心に留まれるように思えた。
 体を離して、防人の顔を正面から見つめる。これから口にすることは彼女の為だと彼は固く目を閉じた。そして、静かに息を吸い込んでから目を開けて口を開く。

「これからの俺には今以上に余裕がなくなる。連絡も取れなくなる」

「……ヒーロー、ですからね」

嫌な予感がしたのか、防人は思わず相澤の袖の端を小さく握った。不安そうな顔をする彼女を見ると堪らなくなって目を逸らす。

「俺は桜が好きだ。でも、今の俺じゃ、傍にいることも守ってやることもできない」

 相澤の中で防人の存在は大きくなりすぎた。彼女を守れず、あの事件のときのように目の前で失うことにでもなったらと思うと体の芯から凍っていくような恐怖が這い上がってくる。いくら自主トレを重ねてもその恐怖を拭うことはできなかった。
 袖の端を握ってくる防人の手に相澤の手が重なる。そっと外すように促そうとするよりも早く、彼女のもう一つの手が拒否するように重なった。

「私は、一方的に消太くんに守ってほしいなんて望んでません」

察しのいい防人にはこれから相澤が何を言おうとしているのか分かっている。うっすらと目に涙を溜める彼女に彼の表情が切なそうに歪む。傷つけたくはないけれど、これ以外に思いつかない。防人の頬を撫でた手をそのまま後頭部に回す。すっ、と触れ合った唇が離れて、彼女を残したまま彼は立ち去った。

 風が吹き抜けていく。黒い髪が揺れる中、防人の頬につうっと涙が一筋流れた。涙はその一筋では止まらず、幾筋も幾筋も彼女の頬に跡を残していく。最後のキスの終わりに相澤が残した声が消えないことが苦しかった。

『愛してる。元気で』

初めてもらった言葉が防人の胸を苦しめる。ぎゅうっと強く胸元を握り締めながら俯いた彼女の涙が地面をポタポタ濡らした。
 酷い男だと思う。彼が自分のことを深く想った結果がこれなのだと分かっていても、あんなことを言われたら嫌いにはなれないし、忘れることだって容易ではない。呪いの言葉のようだ。

「……私もですよ」

伝えられなかった"愛している"を飲み込んで、防人は指先で涙を拭う。今の自分は彼にとって守る対象でしかなかった。あまりにも不甲斐ない自分に手を握り締める。
 長く細く息を吐き出す。おもむろに上げた防人の顔にはなんの表情もなかった。立ち上がって、スカートをはらって歩き出す。何も出来ずに涙を流すなんて、もう二度とごめんだった。

 風が巻きあげた桜の花びらが春の空に飛んでいく。水色の空にポツンと浮かんだ小さな雲が寂しげだった。

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