お世辞が言えませんね

 初めてのキスは何度も繰り返しているうちに、触れるだけだったものから深いものになっていた。夢中になっている間に押し倒していた防人に覆いかぶさっていた相澤はやっと唇を離す。

「桜……」

しっとりとした彼の声に、彼女は酸欠で少しぼうっとする頭を動かす。胸の中が嬉しさだけで満たされている。息をすると、この嬉しさが逃げて行ってしまうような気がした。

「もう、ダメ……?」

 相澤に向かって小首を傾げた防人は少し息を乱している。彼女の乱れた黒髪が床に広がって、今さら、それが酷く扇情的に見えた。

「こ、これ以上は……」

これ以上、キスを繰り返すともう止められない。初めての感覚ながら相澤はそれをよく理解していた。彼女とは違う理由で彼は息を乱す。

(桜が欲しい……けど)

感情に突き動かされるまま防人を求めたら、傷つけてしまう可能性が少しでもあることが怖くて仕方がない。ぐっと、今にも負けてしまいそうな理性をなんとか保たせるように目を閉じた。

「あの、お茶にしませんか? ……お腹空いちゃいました」

 赤くなってしまった顔で口元を隠すように手を合わせる防人が、じっと相澤を見つめる。突然の申し出に彼は何度も目を瞬いてから、申し訳なさで視線を逃がした。

「ほら」

優しく抱き起こされた彼女は彼の目を見て表情を和らげる。

「なんだか甘やかされてますね」

どこか嬉しそうに見える防人に相澤は目を逸らす。"桜だから甘やかしたいんだ"とは申し訳なさのある今は言えなかった。

「用意してきます」

 キッチンへ入っていった彼女を目で追ってから彼は頭を掻く。また防人に気を遣わせてしまったと相澤は俯いた。

(いつもそうだ)

傍目には奔放な彼女に彼が振り回されているように見えるだろうが、実際は相澤が気にしないようにした優しさだ。彼もまた彼女と同じように細かなところに気が付くゆえに、防人からの優しさは周りの人間よりもよく知っていた。
 情けないとため息をついたとき、顔に温かく柔らかい蒸気が当たる。

「ホットミルクにしたんですが、これでよかったですか?」

「あ、ああ」

受け取ったホットミルクの入ったマグカップには黒い猫が描かれていた。

「あの子に似ているでしょう?」

彼女の言う"あの子"とは、学校で何度か見かけた黒い子猫のことだろう。相澤の隣に座った防人の手にあるマグカップにも同じ黒猫が描かれている。ポーズは違うが絵のタッチからこの二つのマグカップはペアであるのが分かった。

「あ。忘れてた。ちょっと待っててください」

 今度は寝室の方へ入っていった彼女は、小さな紙袋を手に戻ってきた。

「なんだそれ?」

「夕方、コンビニに入ったとき、香山先輩に会ったじゃないですか。そのときに、"相澤くんと"って渡されたんです」

チョコですかね?ラングドシャかな?なんてわくわくしている防人とは違い、相澤は嫌な予感で口を引き結ぶ。紙袋の中から彼女が出したものに、彼は顔を真っ赤にさせて動けなくなった。

「うーん、知らないメーカーだ。なんだろう?」

箱を軽く振った防人は首を傾げながら、開封しようとしている。

「ま、待て! 開けるな!」

「へ?」

箱を持っている彼女の両手を掴んで止めた彼は、それがまだ開いていないことを確認すると、ホッと息を吐き出した。

「消太くんはこれが何か知ってるんですか?」

「し、知ってるっていうか……多分……」

きょとんとしながら見上げてくる視線に相澤は狼狽えた。彼女と一緒にいるときにこれまでこんなに焦ったことはなかったかもしれない。言うか言うまいか迷う相澤を知ってか知らずか、防人は自分の手の中にある箱に視線を落としてから、もう一度彼を見る。

「食べ物じゃないんですか?」

「ち、がう……」

真っ赤になってしまった彼の様子をしばらく見ていて何か感じたのか彼女は軽く頷いた。

「じゃあ、しまっておいて大丈夫ですね」

紙袋へ丁寧に戻されたのを見て、やっと相澤は安堵の息を吐き出した。そしてまた気を遣わせてしまったことを申し訳なく彼女を見る。視線が絡むと、防人は何でもないように口元を笑わせた。敵わないと思わされながら彼はマグカップに口をつける。

「何か、つまみます?」

「いや、これだけでいい」

 温くなったホットミルクを飲み干そうかというところで、激しい雨が窓を打ち付ける音がした。窓が震えるほどの勢いに相澤も驚いたが、それよりも窓を見つめたまま動かない防人の顔色が気になった。

「桜?」

いつもなら、聞こえていないときを除いて彼女が返事をしなかったことはない。なんの感情も映さない防人の顔には、見ている方が不安になるような美しさだけがあった。
 心臓の鼓動に合わせて心配が強くなっていく。もう一度名前を呼ぼうと相澤の口が薄く開いたとき、少し体温の低い手が彼のジャージの裾を握った。

「どうした?」

さらに相澤のジャージが強く握り締められる。今日、昇降口で断ったときと同じ、泣き出す前の静けさが防人から感じられた。弱弱しくて仕方ない様子を何とかしてやりたくて、彼は彼女を引き寄せてできる限り優しく抱きしめる。

「………」

何も言わない防人は相澤の胸に耳を当てるように体を預ける。迷った手はそろそろと相澤の背に回った。しがみつくような彼女の背中を宥めるように何度も彼の手が撫でる。
防人が話したくないことなら無理して話さなくていい。でも、本心はいつも笑顔の絶えない彼女を無表情にする原因が知りたかった。

「……両親が事故に遭ったのは、今日みたいな雨の日でした」

 ぽつりと唐突に始まった呟きに、相澤はうんと頷く。驚いても聞き逃さないように、宥める手を止めないようにと注意しながら彼は彼女の話に耳を傾ける。

「午後から降り始めた雨がどんどん強くなって、夕方には警報が出てました。風邪を引いて寝込んでいた私に一声かけた母は仕事終わりの父を迎えに行ったんです。それが、母との最期の会話でした」

撫でる相澤の手が、背中から彼女の黒髪にかかる。恐らく防人は"一人にしないで"と口にしたときから、この話をする気だったのだろう。あのとき一人にしなくてよかったと彼は優しく頭から背を撫でる。

「怖いくらいの音を立てる雨が周囲を真っ白にして、そのせいでスリップした車が突っ込んだらしいんです。二人は、お互いをかばうようにして亡くなったと聞いています」

泣きそうな空気を纏っているものの、防人は泣いてはいなかった。ただ、変わらず無表情でどこか消えてしまいそうな雰囲気が相澤を怖くさせる。

「両親は、お互いのことを本当に深く想い合っていました。父も母も、私のことが一番好きだと言ってくれていましたが、本当はお互いが一番であることを幼い私は知っていて、そのことがどこか誇らしく、嬉しく思っていました。私も両親のことが大好きでしたから」

おもむろに彼女の顔が上がる。そこで初めて彼は気づいた。泣いていないわけではなかった。無表情のままだけれど、防人の目には涙が溜まっている。悲しみが深くて容易に涙を流せないでいる様子が痛ましくて、相澤は眉を顰めながら防人の頬を撫でた。

「私には今、消太くんがいます。生まれて初めて、両親以上に好きだと思える人。だから、急に怖くなっちゃって……こんな天気の日に、また一人にされたらどうしようって」

 彼女の頬に添えた彼の手が、強引に上を向かせる。まじまじと見つめると、本当によく整った顔だと改めて相澤は思う。この顔を好きになったわけではない。どきりとさせられたことは何度もあるが、間違いなく好きになったのは防人の内面からだ。確かめるように彼女の頬を親指で撫でてから、そっともう一度抱きしめ直す。

「俺は、絶対にお前を一人にしないとかそんな無責任なことは言えない。……でも―――」

額を防人の首元に付けて、相澤は目を閉じる。これから発する一音一音が無駄にならないように、余すことなく彼女に伝わるようにと願った。

「―――桜が悲しまないように努力はする」

 しがみついてきた防人の手が震えている。戸惑いながら彼女の髪に手を置く。泣き止んでほしいけれど、どんな言葉をかければいいのか分からない。ただ、できるのは宥めるように抱きしめ続けることだけだった。

 それからしばらく経っても防人は相澤の胸元から顔を上げない。ひくひくとしゃくり上げていた声も収まったというのに、ぴくりとも動かないでいる彼女に彼の心配そうな声がかけられる。

「桜、寝てないよな?」

小さくこくん、と頷いた防人は返事をしても顔を上げない。まだ泣いているのかと頭を撫でようとしたとき、くぐもった声が聞こえた。

「寝てないですよ。その、たくさん泣いてしまったから、目が腫れてたらどうしようって思って……」

 あははと乾いた笑いは、彼女が誤魔化したくて出している声だ。はあ、と安堵から息を吐き出した相澤はポンポンと彼女の頭を撫でる。

「泣きゃ誰だって腫れるんだから気にするな」

「……そこは腫れてても可愛いよっていうところでしょう?」

「見てもないのにそんなこと言ったってしょうがないだろ」

ぴったりと体をくっつけていた防人の体が、ゆっくりと離れていく。ほんの少し寂しく感じながら相澤は彼女の顔を覗き込んだ。冗談ではなく、泣いて赤くなった目元でも防人の整った顔にはなんの影響もなく、むしろ可愛らしく感じられた。

「お世辞が言えませんね」

小さく笑う防人はもういつもの彼女だ。まだ濡れているまつ毛を指で拭った彼女に見上げられて思わず胸が跳ねる。防人が望むなら、今からでも"可愛い"と言った方がいいのかと相澤が悩んでいると、またくすりと小さく聞こえた。

「さ、そろそろ寝ましょうか。明日はお休みですけど、規則正しく寝ましょうね」

「ガキ扱いするなって」

「消太くん、可愛いからつい」

「お前な……」

言いたいことはある。可愛いのは俺じゃなくてお前だと何度も思っているけれど、まだ一度も言葉にできていない。楽しそうにからかってくる防人を見ると、相澤の口はつい動かなくなってしまう。視線を左へと逃がしながら彼はため息を吐いた。

***

「おい。どういうことだ」

「どういうって、そのままです」

 寝室にはベッドが一つしかない。物が少ないとは思っていたが、寝具はこれ一つしかないということのようだ。

「セミダブルだから、そこまで狭くないと思います」

本当に一緒に寝る気でいる防人に頭を抱える。

「本気か……?」

「もちろんです。お布団、これしかありませんから」

布団を捲った彼女が先に入る。壁際まで詰めると、隣をトントンと優しく叩いて彼を呼ぶ。

「はい。どうぞ」

「………」

 これが世にいう試されているということなのだろうかと相澤は逡巡した。正直、香山からのアレが必要になってしまうのかと思ったところで、首を振って防人に背中を向ける。

「俺はリビングで寝る」

「ダメです。風邪ひいちゃいます」

下唇を突き出すように口を結んだ彼は体を斜めに彼女へ振り返った。眉間にしわを寄せて何か言いたげな相澤を見上げた防人は追いかけるように布団から出る。

「うわぁ!?」

「桜っ!」

 立ち上がった拍子に何かに足を取られた彼女が転ぶ。胸元に飛び込んて来た防人を抱きとめると、普段よりも強くシャンプーの香りを感じた。

「すみません。自分で自分の足、踏んじゃいました」

恥ずかしそうに笑って誤魔化そうとする声を聞きながら、彼は彼女をさらに強く抱きしめる。

「消太くん?」

「……俺だって男なんだ。一緒に寝たりしたら、それこそ何するか……」

傷つけたくなんかない。それでも防人の肌の匂いなんて感じてしまったら、先ほど耐えた衝動をもう押さえられない気がする。

「いいよ。怖くないから」

 優しく背中に回った腕のあたたかさが不思議と相澤に安心感を抱かせる。彼女の腕に包まれて全身から余計な力が抜けた。

「言ったでしょう? 傷ついてもいいから一人にしないでって」

するりと腕の中から抜け出した防人がベッドの中から相澤へ手を伸ばす。

「消太くん」

もうその声に逆らえる気がしなくて彼女の手を取る。そのまま引き寄せられるように、相澤も防人と同じ布団へ入った。

 掛け布団に包まれると防人の匂いをより強く感じて、全身の血が熱を持って駆け巡るのを感じた。どきどきと早い鼓動を落ち着かせようと必死になる相澤をよそに背中を見せていた防人がくるりと寝返りを打つ。

「なんだよ……」

 じっと見つめてくる彼女の視線から逃げたくて、彼は赤い頬を隠すように布団へ顔を埋めた。

「くっつきたいなぁって思って」

先ほどの話を覚えているのかと疑いたくなる口ぶりに相澤は睨むような視線を向ける。しかし、それも長くは続かない。

「ダメ、ですか?」

「……分かっててやってんのか?」

"え?"と目を瞬く彼女にため息をついてから、小さな背中に腕を回して引き寄せる。嬉しそうな笑い声はまるで小さな子どものようだ。

「消太くんは本当にいい匂いですね」

すり寄ってくる防人の温もりと、部屋が暗いせいだろうか。普段よりも相澤の口は素直に動いた。

「桜もいい匂いだ」

鼻を彼女の首筋に当てる。くらりとしてしまう匂いを感じたとき、すぐに気づいた。

「マジかよ……」

 すうすうと聞こえてくる寝息は目の前の防人からしている。安心しきった顔で相澤のジャージを握っている彼女の長いまつ毛を見ていると、だんだんと気が抜けた。

「お前はズルいな、桜」

相澤だって年頃だ。この状況なら期待しなかったわけじゃない。それなのに、こんなにあっという間に寝てしまうなんて酷いんじゃないかと思わずにはいられない。

(お前は、俺がどれだけ惚れてるか分かってない)

目の前の頬を指の背中で撫でてみる。すべすべとした彼女の頬ならいつまでも触れていたい。
 小さな寝息を聞きながら、相澤は彼女の前髪を上げる。寝ている相手にズルいだろうかと思ったが、"先に寝た桜が悪い"と彼女の額に唇で触れた。ゆっくりと離れるとやっぱり一度では足りなくて、鼻先に触れ、最後に軽く唇を合わせた。

「ん……」

身じろいだ防人が顔を相澤の胸元へ埋める。甘えているような彼女の頭を撫でていると、だんだんと彼の瞼も重くなっていく。心地のいい微睡みに抗わず、相澤もそのまま眠りに落ちた。

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