どこまで許されてる?

 いつもの昼休みの屋上。連日続いた雨が上がり、晴天と言っていい空が広がっている。雲が少ない分、日差しが強く感じられる空に目を(すが)めてから、相澤は先ほどからきゃっきゃとはしゃいでいる彼らに目を向けた。

 今日、午前の戦闘訓練で相澤と白雲が褒められたと聞かされた防人が喜んで笑った。自分のことのように喜んで、山田や白雲とハイタッチをしたり、繋いだ手を振ったりして、三人で喜びを表している。いや、喜んでいるのは白雲と防人だけで、山田はノリに合わせているだけのようだ。
 彼女が楽しそうにしているのは悪いことではない。むしろ喜ばしく感じていなければおかしいというのに、相澤の胸には針の穴ほどの小さな寂しさがあった。

 ふいに、彼女の顔が相澤へ向く。まるで彼の視線に気づいたようなタイミングだった。淡く染めた頬が緩む。それが自分の為に向けられた微笑みだと感じたものだから、相澤も赤くならずにはいられなかった。ただ、微笑まれただけ。それだけで胸にあった針の穴ほどの小さな寂しさは綺麗に埋められてしまった。

「ほら防人!」

 いつだか見てみたいと言っていた防人の為に白雲が個性の(クラウド)を披露している。ふわふわとしたそれに触れながら"わあ!"と子どものように目を輝かせた彼女の横顔に小さく笑みが込み上げた。不思議と先ほどの寂しさは、もう感じなかった。

***

 骨折をした防人を送って行った日がきっかけとなり、時間が合えば二人は一緒に帰るようになった。今日も昇降口で待ち合わせをしていたまでは普段通りだった。

「凄いですね」

 ぽつりと防人の口から出たとおり、激しい雨が強かに地面に打ち付けている。昼頃とは一転して、夕方から降り始めた雨の勢いは増す一方だった。隣にいても聞き取りづらいほどの雨音だというのに、彼女の透き通った声はきちんと相澤の耳に届く。

「……このまま止まないかもな」

ネットで簡単に天気予報やニュースを読んだ相澤はポケットにケータイを戻す。職員室に提出物を出した少しの時間で、他の生徒たちはあっという間にいなくなり、雨は強くなってしまっていた。

「……相澤先輩」

 降りしきる雨を見つめている防人の横顔を見下ろす。長いまつ毛が揺れて、おもむろに見上げてきた彼女の黒い目に、相澤の胸はどきんと強く脈打った。

「今日、ウチに泊まっていきますか?」

「え……?」

彼女の家に泊まるというのはそういうことなのだろうか。防人がすでに実家と縁を切り、叔父の援助を受けて一人暮らしをしていることは知っている。そこに行くことの意味を考えると、大きな雨の音に負けないほど鼓動が強くなって体が上手く動かせなくなったような気がした。

「雨、止みそうにないですし、ここから近いですから……。相澤先輩が嫌じゃなきゃ、ですけど」

昼間の屋上で見たときよりも、頬を赤くさせ目を伏せている防人から視線を逸らす。どこか不安そうに胸の前で手を握り締める彼女を長く見ていてはいけない気がした。

「……ダメだ」

「そう、ですか……」

俯いた防人が、あまりにも悲しそうで、見ている方の胸が痛んだ。

「お前が嫌だからじゃない。信用されてるのかもしれないが、俺だって……」

 顔を上げた防人が見たのは、赤くなった顔を背けている相澤だった。口を固く結んだ彼は赤くなった顔に似合わない難しい表情をしている。

「俺も、男だから……。お前の傍にいて何もしない、とは、言い切れない」

下を向いてしまった防人の顔は、相澤の位置からは見られない。彼女が震えるほどの決意で提案してくれたのも分かっている。

「一緒にいたくないわけじゃない。……大事にしたいんだ。防人のこと、傷つけたくない」

 まだまだ大人になれていない自分が、こんな言葉を使うのはどうかと思う。それでも、生まれて初めてと言えるほど、相澤の中で防人は愛しく大切な存在だった。そっと、壊れてしまわないように慎重に彼女の頭に触れる。同じ黒い髪でも自分のものとは大違いだった。絹のようにサラサラとした防人の髪はいつまでも撫でていられるほど触り心地がいい。

「いいですよ」

小さな消え入るような声とともに、彼女の白い手が相澤の制服のブレザーを小さく握った。予想外のことに動けないでいる彼に、防人は俯いたまま口を動かす。

「傷ついてもいい、から……一人にしないで」

「防人?」

ゆっくりと近寄ってきた防人の額が相澤の胸に弱弱しく触れた。震える声と泣き出してしまうような静けさが今の彼女からする。

「お願い、します」

様子がおかしい。このまま一人にはしてはいけない気がして彼女の頭を片手で抱えるようにして抱きしめた。

「……分かった」

抱きしめたせいで返ってきた彼女の"ありがとう"は、くぐもっていた。
 雨が強くなる。叩きつけるような雨の音を聞きながら少しだけ強く抱きしめて、相澤はそっと防人の髪に頬を寄せてから体を離した。

***

 以前にも来たことのある、防人が一人で住む部屋。この部屋の前までは来たことがあるが、中に入るのは今日が初めてだった。

「ちょっと待ってくださいね。すぐタオル持ってきます!」

パタパタと慌ただしく中へ入っていった彼女の背を見送って、役に立たなくなってしまったビニール傘を傘立ての横へ立てかける。
 ここに来る前に寄ったコンビニの後、突風で二人とも傘が折れてしまい、ずぶ濡れになってしまった。

「お待たせしました。どうぞ」

「悪い」

 差し出された真っ白なタオルを受け取るときに、お互いの手が触れ合った。普段から少し冷たい手をしている防人の手が氷のように冷たい。髪から滴る雨水が鬱陶しくて気付かなかったが、よく見れば彼女の髪はまだ濡れていてどこも拭いた様子がない。

「わぁ!? な、なんですか!?」

 驚いている防人に構わず、受け取ったタオルで彼女の髪を拭く。そして、顔と耳の裏も拭いてやってから、タオルから防人の顔を出してやった。

「あの、私、相澤先輩に拭いてほしくてタオル持ってきたわけじゃ……」

「分かってる。俺のことは自分を拭いてからでよかったんだ」

彼女に使ったタオルを自分の頭にかぶせた相澤は、先ほどとは違って適当にガシガシと髪を拭き始める。しかし、その手は伸ばされた防人の手で止められた。

「私はいいんです。それより相澤先輩に風邪を引いてほしくありません」

 彼女の手が撫でるような手つきで相澤の濡れた髪を拭いていく。彼の髪にタオルをかぶせたまま額や頬を拭き、そして目元をとても丁寧にタオルを当てた。
 ゆっくりと目を開ければ、じっと見つめてくる防人の顔が見える。濡れた髪に、穏やかな視線が妙に艶っぽい。

「さ、上がってください」

すっと、体を退いた彼女に彼はぎこちなく頷く。今、何を考えたのか見透かされたようで気恥ずかしかった。

 初めて入った防人の部屋は思っていたよりもずっと物がない。どちらかと言えば好奇心旺盛な彼女はあれこれと物を買ってしまいそうなイメージがあった。イメージとの差を感じていれば、タオルを肩にかけた防人がひょっこりと風呂場から戻ってきた。

「お風呂沸きました! どうぞ、先に入ってください」

「いや、俺よりお前が先に―――」

 ずいっと整った顔を近づけられて、思わず相澤はのけ反った。

「ダメです! 風邪引かせたくないって言ったじゃないですか!」

「俺だってそうだ。防人に風邪引かせたくない」

当たり前に口から出た言葉に防人は一瞬、動かなかった。しかし、すぐにハッとした彼女から、その表情は無くなる。

「じゃあ、一緒に入ります? 狭いですよ?」

「な、何言って……!? お前、いつもいつも、そうやって俺のことからかって……!」

 ブレザーに隠れているブラウスが雨に濡れて、防人の白い素肌が透けていることに気づいてしまう。そして、女性特有の下着が視界に入り、全身が熱くなった。

「私は構いませんよ。先輩の背中を流せるなら嬉しいです」

「もういい。先にもらう」

これ以上言っても彼女は絶対に折れないし、時間が勿体ない。それに何より、あんな姿を見ていると変な気を起こしてしまいそうだ、と相澤はすぐに背中を向けた。

「……早く着替えろ。風邪も心配だけど、その、透けてるから」

 言いにくかったのか、ごにょごにょと話した相澤の声はとても小さかった。それでも、二人きりの部屋の中では小さな声でも十分に防人の耳には届いたようで、彼女は焦ったように自分の体を抱きしめるようにして隠す。

「あ、あの、すみません。お見苦しいものを……」

見苦しいなんて思っていない。それよりも、自分がこんな風になるだなんて思っていなかった相澤は内心、酷く動揺していた。

「風呂、もらってくる」

 すたすたと風呂場へ向かう彼を少し見送る。不快にさせてしまっただろうかと、思いながら新しいバスタオルを用意して相澤のいる脱衣所へ声をかけた。

「あの、相澤先輩。バスタオルを持ってきたんですが……」

「あ、ああ。ちょっと待て」

ぱたんと、浴室の扉が閉まった音の後に、"いいぞ"と中から返事があった。そっと、脱衣所のドアを開けると彼の姿はなく、濡れた制服がきちんと畳まれて置いてあった。

「制服はハンガーにかけておきますね。後で浴室乾燥にかければ綺麗に乾くと思います」

「悪いな」

 "いいえ"と言いながら、バスタオルを置いて、自分のものよりも大きな制服を手にする。中から出てきた、男性ものの下着に驚きながら意識しないようにハンガーに制服をかけていく。どうすべきか考えたが、彼の下着はこれから回そうと思っていた洗濯機の中へ入れて、そのまま脱衣所を出た。

 ほう、と息を吐いて防人は、よし!と両手を握って気合を入れる。彼に言われた通り、濡れた制服を脱いで彼の制服と同じようにハンガーにかけてから、キッチンへ急いだ。

***

 ちゃぽんと湯船に張られたお湯が音を立てる。熱すぎず、(ぬる)くもない温度はまさに適温だ。長く息を吐きながら、相澤は先ほどの防人の表情を思い出していた。

 風邪を引かせたくないと言ったとき、彼女の目は違う場所を見ていたような気がした。驚きと懐かしさを含んだような目には、少しだけ寂しさもあって、相澤を落ち着かない気持ちにさせる。
 何が彼女をあんな顔にさせたのかは分からない。知りたいと思っても、それが防人を不快にさせるんじゃないかと思うと聞き出せない。

(これじゃ、付き合う前と変わらない)

付き合う前は、大した関係でもないのに相手のことをズカズカと無神経に訊こうとは思わなかった。それはそれでいい。しかし、防人を好きになればなるほど、彼女のことを知りたいという欲が湧いてくる。その欲は、これまで相澤にあったものの中でも、とても強い部類のもので扱い方を間違えれば、対象である防人を傷つけてしまうような、そんな予感がしていた。

(今の俺は、どこまで踏み込むことを許されてるんだろう……)

 あまり長湯をしては、彼女に風邪を引かせる。立ち上がれば、体についてきたお湯たちが湯船の中に戻り、ザバッと音を立てた。髪から滴る水が湯船に落ちて立てた音を見てから、相澤は風呂から上がった。

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