弁当と祝福

 雄英の屋上は本来立入禁止だ。しかし、彼らはそこで昼食を摂るようになり、そこにはいつしか彼女の姿があることも多くなっていた。

「はい。コレ」

「え?」

 昼食を摂る前に会えないかと防人に呼び出された相澤は、空き教室の真ん中で差し出されたものを受け取る。

「なんだ、コレ」

「お弁当ですよ」

そう。確かに相澤の手にあるのは弁当で間違いない。鮮やかな青が美しい、藍色の包みは相澤が持っていても自然に見える。しかし、彼が訊いていることはそういうことではない。

「相澤先輩、いくら言ってもお昼がアレですから勝手に用意しました」

「大丈夫なのか……?」

彼の手にある弁当は、普段、彼女が使っている弁当箱よりも大きい。もしかして、わざわざ弁当箱を用意してくれたのだろうか、とそんな意味で言っただけだった。

「大丈夫です。山田先輩たちにからかわれないように、ちゃんと中身も変えてますし、お弁当箱も違うものにしましたから」

 にこっと笑う防人に相澤は罪悪感を覚えた。彼女との関係をひけらかすつもりはないが、隠すつもりもない。確かに、防人に作ってもらった弁当だと山田にバレればからかわれるだろう。しかし、それは彼女に無理をさせる理由になんかならない。

「……そうじゃなくて、俺はお前に無理させたいわけじゃない。弁当作ってくれるなら同じ中身でいいよ」

意外だったのか目を数度瞬かせた彼女は、おかしそうに小さく笑った。

「私の作ったお弁当で相澤先輩に嫌な思いをさせたくなかっただけです」

"私が勝手にしたことですから、気にしないでください"と言う防人に心苦しさと同じか、それ以上の気持ちが胸の中にじわじわと広がる。上手く言葉にすることはできない気持ちをなんとか伝えようと思った時には既に相澤の体は動いていた。

「先輩?」

「嫌な思いなんかしない。からかわれても、別にいい」

 抱きしめられて驚いていた防人が、嬉しそうに笑いだす。くすくすと笑っている彼女に相澤は、ほっとしていた。衝動的に抱きしめたことを嫌がられたらと、今さらになって怖かった。

「お弁当、気に入ってくれたら、また作ってもいいですか?」

 ふと、体育祭前に防人と椎名が歩いていた様子を思い出す。あのとき、彼女と同じ弁当包みを持っていた椎名とは何を話していたのだろう。それよりも、防人は誰にでも弁当を作るのかと気になってしまった。

「……他の奴に作らないならな」

「私、相澤先輩以外に作ったことないですよ」

 腕を緩めてお互いの顔が見える距離を取る。小首を傾げている彼女の様子から嘘を言っているわけではない。もしかしたら忘れているのかもしれないと、相澤は左下へと視線を逸らす。

「……体育祭の決勝の相手。あいつに作ったんじゃないのか?」

「椎名くんですか?」

本当は名前も覚えているが、言いたくはなかった。それなのに、あっさりと彼女の口から、その名前が出てきてしまったことに相澤の口は不満そうに引き結ばれる。

「作ってませんよ。もしかして、同じお弁当包みを持ってたの知ってるんですか?」

横目で防人を見てから、こくんと一つ頷く。どうしてか言葉で肯定するのは嫌だった。

「たまたまです。お弁当包みが偶然同じものを使っていたから、初めに話すきっかけになったくらいですよ」

顔を彼女の方へ戻す。やっとこっちを見たとばかりに、防人は表情を緩めた。

「間違ってたら申し訳ないんですが、もしかして、ヤキモチ、ですか?」

はっきりと明確な言葉にされてしまったことで、ぐわっと顔中が熱くなる。自覚はあった。あのとき感じたのは、防人の気持ちが自分以外へ流れてしまったのだという絶望の悲しさと、これまで知ることのなかった強い嫉妬だった。

「……悪いか」

視線だけを逃がした相澤の顔が赤く染まっている。恥じらいを含んだ声は、とても小さかった。それが酷く可愛らしく思えて防人は目を細める。

「いいえ。私だけじゃなくてよかったって思いました」

 どういう意味かと彼女の目を見ると、頬に細い指をふにり、と柔く押してきた。

「ヤキモチは私もしてるんです。しかも、許してません」

「え?」

妬かせるようなことはしていないし、身に覚えだってこれっぽっちもない。許していないと言う防人が怒っているんじゃないかと不安に感じながら見てみれば、くすりと笑みが返ってきた。

「さ、お昼に行きましょうか」

 自分の腕の中から抜け出して、くるりと背を向けた彼女の動きに合わせた長い黒髪が揺れる。そんな何気ないことも防人がすると妙に心が惹きつけられた。

「相澤先輩?」

動けずにいる相澤に振り返った彼女が不思議そうにしている。我に返った彼は、怒っている様子のない彼女へ不安げな眼差しを向けた。

「……俺は、こういう関係になったのは防人が初めてだし、上手く気を配れてないと思う。だから、俺が気づいてないことでお前に何か嫌な思いさせたり、我慢させたりするのは―――」

口が動かせなくなる。それは防人の個性によってではなく、その白く細い人差し指が相澤の口をぴったりと押さえつけているせいだ。

「あんまり私を喜ばせるようなことばっかり言わないでください。それから―――」

ゆっくりと離れて行った指先の感触が唇に残っている。

「―――初めてなのは、私も同じです」

離れて行った指先が、あのときと同じように防人の唇に触れる。違うのは、彼女の顔が赤くなっていたことだけ。

「やっぱり、恥ずかしいですね」

恥ずかしそうに笑う防人の唇から離れた指を(さら)う。その指に相澤は自分の唇を押し付けた。

「あ……。え……?」

驚いて目をこれ以上にないほど見開いている彼女を上目で見つめながら、そっと口を離す。触れたのは同じ指だというのに、先ほどの感触とはまったく違うように感じられた。

「確かに、恥ずかしいな」

小さく呟いた相澤に、防人は真っ赤になって俯いた。触れ合ったままだった彼女の手に握られる。

「でしょう?」

か細くて聞き取りづらいほどの声と、その姿が可愛らしい。握ってくる手を、強くなりすぎないように気をつけて相澤から握り返す。そして微笑みを交わして、どちらともなく手を離した。
 彼女との関係を隠すつもりはないが、わざわざ公言するのも違う。自分たちは自分たちの穏やかな時間を大切にしていけるのが一番だ。そう思うのは自分だけでなく防人も同じことを知っている。もう一度お互いの顔を見てから、二人は空き教室から一緒に屋上へ向かった。

***

「やーーーーーーーーーーーっとか! お前ら!!!」

 屋上に出れば、一人で昼食を始めていた山田に迎えるような視線を向けられた。白雲がいないということは、呼び出された職員室からまだ戻ってこられないらしい。
彼の言うことが二人一緒にやってきたことかと思えば、どうも山田のニヤニヤとした視線から違うことだというのが相澤には分かった。

「すみません、お待たせしてしまいました」

素直に謝っている防人から向けられた山田の視線で相澤は間違いないと確信する。気恥ずかしさを感じながら、視線を横に逃がす。彼は相澤と防人の関係の変化に、とっくに気づいていて、あえて何も言ってこなかった。その気遣いには感謝したいが、今のニヤニヤと面白がっている表情には何か別のものをにじんでいて嫌な予感しかしない。

「相澤先輩、食べましょう?」

先に座った防人の髪が風に揺れている。屋上に降り注ぐ陽の光に当たって、彼女の黒髪がキラキラとしているのが綺麗だと思った。

「ああ」

 当たり前のように隣に座って、防人が作ってくれた弁当を開く。中身は彼女の言った通り、すべて違った。共通しているのは、おかずが和食というところだけ。
綺麗に盛り付けられたおかずに箸を伸ばす。口に含んだそれは、あの日の金平ごぼうと同じ上品で美味だった。

「オイ、防人! 相澤なんかのどこかいいんだ!?」

「山田先輩が気づいてないなら教えません」

きっぱりと即答した防人に、いつも必要以上におしゃべりな山田も口を(つぐ)む。てっきり、彼女はあれこれと話すものだと思った。意外な返答に山田だけでなく、相澤も防人へ視線を向ける。

「結構、強いんです。独占欲」

どこか悪戯っぽく笑う防人に、相澤だけでなく山田までもがどきりとする。それに気づいた相澤は山田にムスッとした視線を送りながら、独占欲が強いのは自分も同じかもしれないと感じていた。

「お熱いねぇ。んじゃ、不満なんか一つもないってか?」

HAHAHAHAHA!と大声で笑う山田を遮った彼女の声に辺りが、しん、と静まり返る。驚いているのは相澤だけでなく山田も同じで笑ったままの顔で固まっていた。

「え? 何何、なんつった? Pardon?」

「ありますって言ったんですよ。この前も目の前で他の女の子とイチャイチャしてキスまでされてましたし」

 信じられないと相澤へ向けられた山田の目には強い疑いの色があって、普段と違いまったく笑っていない。むしろ、軽蔑に近いものがある。

「ま、待て! 俺がいつそんなことしたんだよ」

身に覚えがないどころの話ではない。一体、いつどこでの話だ。身を乗り出すように防人の顔を見れば、彼女は少し拗ねたような顔をする。

「この前のデートのときです。確かに凄く可愛い子ですし、相澤先輩の好みの子でもおかしくないですから気持ちは分からなくないですが……私だってまだしたことないのに、あんな目の前でイチャイチャしなくたって……」

「おい、相澤。お前いつからそんなモテモテBOYになっちまったんだ?」

引いている山田の視線が痛い。混乱した頭では、彼女に言われていることが一体何のことか思い当たらなくて、さらに焦っていく。

「初デートだったんだろ? そこで浮気ってお前。しかも、こんな可愛い彼女の前で」

「う、浮気ってそんなわけないだろ! 防人も変なこと言うな!」

「変なことって、本当のことですよ」

むうっと口を尖らせた防人は、普段よりも幼く見えるが、それも可愛いと思ってしまう。しかし、今はそんなことを思っている場合ではないと、相澤は顔を振る。

「嫌なことがあったら話してくれ。さっきもそんな話したばっかりだろ」

長いまつ毛に縁どられた目をパチパチと瞬かせた防人は、顎に手を添えて視線を上に向ける。

「確かに、そうですね。じゃあ」

 言葉を切った彼女が小さく息を吸い込む。そして、じっと相澤を見た。

「……一緒に行った猫カフェの猫ですよ。何度もされてたじゃないですか」

「お前な……」

一体これまで何を焦っていたのか。強張っていた全身から力が抜けた相澤は大きくため息を吐いた。

「そんなこと言ったら、お前だって何匹もハベらせてただろ」

「私の周りにいたのは、みんな女の子ですもん」

これは謝った方がいいのかと悩んでいれば、ふっと笑う声に顔を上げる。くつくつと笑う防人を見て、相澤は自分がからかわれていたことに気づいた。

「防人……!」

「すみません。でも、ヤキモチ妬いたのは本当です」

眉を下げて笑う彼女を見ていれば、不思議と仕方ないなという気にさせられてしまう。

「あ〜、でも、ホントよかったよ」

 ニィっと歯を見せて笑う山田に相澤は目を逸らす。彼女とはただの先輩後輩でなんの関係もないと、防人を諦めそうになった自分を気にかけて背を押してくれたのは間違いなく彼だ。

「相澤のやつ、防人がいなくてネガティブトークが止まんなかったんだぜ?」

「おい! 余計なこと言うな!」

キッと睨みつけても山田はどこ吹く風でヘラヘラと笑う。嫌な予感がして彼女の方へ振り向けば、彼女は予想とは違いぽかんとしていた。

「防人?」

「え? ああ、聞いてましたよ。聞いてたんですが、意味がちょっと分からなくて」

「だから、お前がいないから相澤は嫌われたかもしれねえって落ち込みまくってたんだって。ほら、体育祭の防人の決勝相手とイチャイチャ歩いてたの見たときとか特にネガティブ酷くて凄かったんだぜ」

今度は山田の胸倉を掴んだ相澤は、どうして態々詳しく説明したと睨みつける。

「こっちの身にもなれよ相澤。朧は気づいちゃいねーが、俺と香山先輩は結構やきもきさせられたんだって。どう見てもお前防人に―――」

これ以上しゃべらせてたまるかと、相澤は個性を使って山田の声を消す。落ち着けと焦って宥めようと手を動かす山田と、彼を睨み続けている相澤の耳に、ふふふと小さく笑った声が聞こえた。
 口元に手を添えて、ただ笑っているだけだというのにそれだけで防人は絵になった。相澤も山田も言葉を失くす。風に髪を揺らす彼女を姿は、二人が息を呑むほどに美しく見えた。

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