君と歩く場所

 今日も良く晴れている。元気すぎる太陽の熱さは凄まじく、日陰にいてもにじんわりと汗がにじむ。
 制服でなく、質素な身なりをした相澤は駅前にある時計を見上げた。待ち合わせの時間にはまだ早い。

(待たせるよりはいいか)

ふう、と息を吐き出す。休日の駅前は人の通りが多い。見るものもないので、人の流れを見ながら、ぼんやりと今日の約束の相手のことを考えた。

「あれ? 早いですね」

 後ろからかけられた声に、驚きで体がびくりと強張った。振り返れば、自分と同じように私服に身を包んだ防人が首を傾げている。
 いつも下ろされている黒髪はおさげになっていて普段よりも雰囲気が少し幼いが、水色のスカートに白いシャツがとてもよく似合っていた。

「相澤先輩?」

不思議そうに目を瞬きながら、目の前で手を振ってきた防人に、相澤はハッとして顔を背ける。可愛いと思わされて彼女から目が離れなくなったなんて知られたくない。

(いや、こういうときは褒めた方がいいのか?)

恋愛経験の少ない相澤にはどんな言葉を伝えればいいのか分からなかった。ただの先輩と後輩という関係ではなくなったというのに、どうしてこうも相手を喜ばせる気の利いた一言が出てこないのだろうか。こんなの、きっと山田や白雲あたりにバレたりしたら、アレコレと言われてしまうだろう。
 ふと、真っ直ぐに向けられる彼女の視線に気づく。何も言わずに、じぃっと見つめてくる黒い瞳に居心地の悪さを感じた。

「なんだよ」

「すみません。相澤先輩の私服、初めて見たので、つい」

華美なものは好みではないが、服なんてなんでもいい。そう思う相澤の私服は、そういった面に気が配られたものではない。もっと有体に言えば、お洒落に関心はなく地味だ。

「見ても面白くなんかないだろ」

顔を背けながら溢した相澤に防人はくすりと小さく笑った。

「いいえ? 大好きな人の知らない一面を見られて朝から得した気分です」

 彼女の口から自然に出てきた"大好き"の言葉が相澤の顔に熱を持たせる。赤面した相澤を防人は満足げな顔で見上げた。

「さ、そろそろ行きましょう」

歩き出そうとする防人の手を掴む。意外そうに振り返った彼女に、今言わなくてはと必死になって相澤は口を動かした。

「お、俺も……その」

 きょとんとした防人は懸命に言葉を紡ごうとしている相澤に優しく目を細めてから向き直る。急かさない彼女の目は、まるで"ゆっくりでいいですよ"と言っているようだった。その目に励まされながら、一度口を引き結んでから息を吸い込む。

「今日の防人は、いつもより……その、いいと、思う」

「ありがとうございます。一応、気にはしてきたので嬉しいです」

言いたかった"可愛い"は結局、相澤の口から言葉にすることはできなかった。恥ずかしさと照れに負けて言い出せなかったことが情けない。
 それなのに、相澤の前にいる防人は凄く嬉しそうに笑っている。彼女の為、いや、自分の為に、早く素直な言葉を口に出せるようにしたいと強く思った。

「それじゃあ、今度こそ行きましょう!」

 手を取った防人に引かれて歩き出す。優しく、少しだけ強引な自分の彼女に相澤は小さく口元を緩ませた。

***

 今、口にしている飲み物の味がよく分からない。いや、味などどうでもいい。それよりも目の前の光景を焼きつけようと、相澤は瞬きもしないで見入っていた。

「相澤先輩、顔凄いことになってますよ」

苦笑いをする防人に、一匹のキジトラがすり寄る。甘えるようにゴロゴロと喉の鳴らしているのは、彼女の膝にいる三毛猫だろうか。
 防人に連れてこられたのは彼女おススメの猫カフェだった。長いこと通っているらしく、ここのオーナーともよく話すらしい。清潔感の溢れる店内に設置されたブラックボードには本日の担当とあり、猫の写真と名前、おおまかな性格が書かれていた。

「はいはい。これで遊びたいんですか?」

 白猫が前足で防人が手にしていたねこじゃらしを引き寄せようとしている。彼女に話しかけられている白猫が羨ましいとばかりに、キジトラがにゃあにゃあと声を上げた。

「ほら、こっちで一緒に遊びましょう」

まるで母親が小さな子どもに話しかけるように優しく包むような声は、猫たちだけでなく相澤や、数人いた男性客の心まで惹きつける。
 猫たちに向けられていた視線が、自分に向けられてドキリとした。それまでのものよりも一層優しくなった眼差しに、相澤は顔が緩みそうになるのを必死に抑える。しかし、これ以上見ていると我慢できなくなってしまいそうなので、頬を赤らめながら顔を背けた。

「桜ちゃんが男友達を連れてくるとは思わなかったな」

 声をかけてきた男性はこの店のエプロンをしていた。オーナーであろう中年の男性は、穏やかな性格が雰囲気から現れていて、紳士という言葉がぴったりだ。

「え? そんな風に見えますか?」

「うん。なんか特定の仲のいい人は作らない子かと思っていたんだけど、ボクの勘違いだったのかな」

なんだか微妙に話が噛み合ってないような気がしながら、相澤は手元のドリンクを啜った。

「私も少し大人になったのかもしれません」

「そうかもしれないね。仲のいい友達がいることは大事なことだよ」

ニコニコと悪気なくしている男性に、防人がかくりと首を傾げる。

「え? 友達、ですか?」

「ん? そうだろう?」

お互いに不思議そうに首を傾げている二人に、相澤は見ていられなくなってきていた。口からストローを離すと、迷いながらもトンチンカンな会話に入る。

「あの、俺は防人の友人ではありません」

「そうなのかい? じゃあ、学校の先輩かな?」

「そうなんです。一つ上の学年なんですよ」

防人の返事でまた会話がおかしな方へ進んでいく。じろりと彼女へ視線を送るが、本人は何のことか気づいていないのか、きょとんとしていた。
 はあ、とため息を一つ吐いて、男性へ顔を上げる。まだ、そういう関係になってから日は浅い。そう名乗るのは気恥ずかしいし、なんだか驕っているように思われるんじゃないかと感じてしまう。しかし、はっきりと言わなければ、このまま訳の分からない勘違いが続いて、いつかおかしなことが起きてしまうような気もする。それはできるだけ避けなければと、防人と同じように不思議そうにしている男性を見て思った。

「俺は、その、防人とは、ただの先輩と後輩というわけではなくて」

はっきり言えと自分で鼓舞する。椎名のように防人に好意を寄せる男はいくらでもいるのだから、自分と彼女の関係をはっきり言えないようでは、いつかこの関係が途切れてしまう。それは嫌だと、ぎゅっと唇を結んでから、もう一度開いた。

「……付き合ってます」

 今日会ったばかりの他人にした初めての会話がこれってどうなんだ。そう頭の片隅で思う。じわじわと感じていた恥ずかしさが凄まじくなっていく。驚きで放心していた男性はしばらく、赤面している相澤を見てから慌てて防人へと振り返った。

「そ、そうなの!?」

「え? そうですよ? そう言ってたつもりなんですが……」

なんで伝わらなかったんだろうと首を捻る防人に、まだ赤い顔の相澤がムスッとしている。

「あれじゃ、全然伝わってないだろ」

「おかしいな。なんででしょう?」

 まず、最初の"男友達"という部分を否定しないからだと、ため息を吐くと、防人もやっと理解したのか、"なるほど"と頷いた。

「そうか。桜ちゃんも、ついに恋人ができたのか……。この前まで中学生だったから、なんだかびっくりしてしまったよ」

そうかそうかと繰り返していくうちに納得したのか、男性は相澤へ慈愛のようなものを含ませた目を向ける。

「桜ちゃんのこと、どうかよろしくお願いします。ときどき、こちらが驚くような無茶をしてしまうこともある子だから」

「それはもう分かってます」

 以前、体育祭へ向けて無茶な訓練を重ねていたことは記憶に新しい。相澤と男性に視線を向けられた彼女は、"え?"と目をパチパチと瞬かせた。

「覚えがないとは言わせないぞ」

「迷惑をかけた自覚はありますから、そんなこと言いませんけど、でもそんなに無茶ばかりはしてませんって」

「いやいや、しているよ? 最近だと高校受験のとき―――」

「―――わあああああ! やめてください、やめてください!!」

 慌てて両手を振って男性の話を遮った防人の顔が赤くなっている。高校受験と言えば、まだ一年は経っていない。一体、何をしたんだと彼女を見てみれば激しく首をぶんぶんと振って話す気はなさそうだ。

「でも、彼は知りたそうだしなぁ」

ちらりと視線を寄こしてきた男性に相澤が数回頷く。それを見てから男性は防人にごめんねとばかりに苦笑した。

「受験の一週間くらい前だったかな。お守りを落としたって泣いている子の為に川に飛び込んでね、風邪を引いてしまったんだ。それなのに、勉強とトレーニングは休めないって無理して、当日は病院で点滴打ってから受験して、次の日には倒れて入院しちゃったんだ」

「お前……」

じっとりとした呆れを含んだ相澤の目から逃れるように、防人は持ち上げた猫の後ろに顔を隠す。

「反省してます……」

彼女の小さな声に続いて、持ち上げられていた猫が、にゃーと鳴く。妙に可愛く見えたそれに相澤はまた小さくため息を吐いた。

「あんまり無茶ばっかりするなよ」

「気を付けます」

 ちらりと猫の後ろから覗いてくる目。防人には無茶をしているという自覚はないだろう。ひたすらに目の前のことに最善を尽くそうとする気持ちが強くて、何事においても自分のことは後回し。分かっているのだから、相澤の中での答えは簡単に出た。

(これからは俺が見ててやればいいか)

きっと防人は、これからも無意識に無茶をするだろう。そのとき、誰よりも早く気づいて教えてやれば問題ない。

 頬杖をついていた相澤の頬にふわりとした何かが触れる。ゴロゴロと喉を鳴らす猫は何度も甘えて彼にすり寄っていた。

「ん、随分懐っこいな」

ざらりとした舌が相澤の頬を撫でる。どこか嬉しそうにしている彼を防人は何も言わずに、じっと見ていた。

「その子、あまり人の傍に寄らない子なんですよ。珍しいな。彼のことが好きなのかい?」

 男性に答えるように、にゃあ、と一鳴きした猫は、相澤の肩口に頬を擦りつけいている。指を差し出せば、頬から耳の後ろの方まで何度も何度も擦りつけていた。

***

 彼女おススメの猫カフェは非の打ち所がない素晴らしいところだった。オーナーに大切にされている自慢の猫たちは週に数回ずつしか店頭に出てこないので、また次回には違う子に会えるだろう。

「あの、まだ時間ありますか?」

 おずおずと聞いてきた防人は、期待と不安の混じった顔をしている。なんでそんな顔をするのだろうと思いながら相澤は頷いた。

「今日は防人と会う以外に予定は入れてない」

時刻はまだ夕方に差し掛かったばかり。まだまだ日は長い。"それじゃあ"と言ってきた彼女が俯く。歩いていた足が自然と止まり、意を決して顔を上げた。

「少しお散歩しませんか?」

見上げてきた防人の頬が赤い。握っている手が微かに震えている様子で、彼女がとても緊張しているのが伝わってきた。

「いいよ。俺も、まだ一緒にいたいから……」

 目を見ながら言うのは無理だった。背けきることが出来なかった相澤の横顔も防人と同じように赤い。横目で彼女がどんな表情をしているのか確認すると、嬉しそうに顔をほころばせていた。

「ありがとうございます」

こんなに可愛らしく笑う彼女を見られるなら、もう少し勇気を出してもいい。先ほどまで、猫カフェでドリンクを飲んでいたというのに、すでに喉が渇いてしまったような気がした。

「行くぞ」

なんとか声にした相澤の手が防人に向かって差し出される。照れくさそうに目を逸らす、彼の横顔から彼女は目が離せなかった。
 じんわりと胸を温かくする気持ちが嬉しい。にっこりと笑って防人は相澤の手を取る。もしかしたら、手を取ってもらえないかもしれないと不安になり始めていた彼は心底安心したのを顔には出さず、優しく、強く彼女の手を握って歩き始めた。

「……さっきの"迷惑をかけた自覚"があるってやつ」

「あ、はい。あのときは迷惑をかけて、すみませんでした」

 申し訳なさそうな防人に、相澤は振り返るように目を向ける。どこか自信のなさそうにすることの多い彼の目が怒っているのが見えた彼女は困って不安げな顔をした。

「"迷惑"なんて思わなかった。俺がしたのは"心配"だ」

 ぎゅうっと、胸が掴まれた気がして防人は胸元を握りながら顔を下げた。この人の優しさが愛しい。素っ気ないふりをして、其の実、誰よりも情が深い。そんな相澤だから心の底から好きだと思う。

「ありがとうございます。相澤先輩が心配してくれたこと、凄く嬉しいです」

 淡く染まった頬と柔らかく細められた防人の目に、相澤の胸が大きく跳ねる。心臓に悪いと思うのに、自分にだけ向けられる彼女のこの笑みが嬉しい。もしかしたら、ニヤけているかもしれない顔を見られたくなくて、ふいと逸らす。

「……あんまり心配させるなよ」

「はい……!」

 にっこりと彼女の笑った気配を感じても、彼は振り返れなかった。繋いだ手から伝わる防人の少し低い体温。その温度が酷く優しくて甘い気持ちにさせる。自分よりも小さな手が壊れないように力加減にだけは注意を払って、相澤は防人と一緒に歩いた。

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