拒絶の向こう

 今年も大きな賑わいを見せた雄英体育祭の表彰式が終わった。冷めやらぬ熱狂の声が、まだあちこちから聞こえてくる。声の中には彼女に向けられたものも多く混じっていた。
 この体育祭で目立った活躍を見せた防人にはあちこちの事務所から声がかかるだろう。それにあの容姿の良さでファンができていてもおかしくはないし、実際、会場でそんなことを話している男をちらほら見かけた。

 普段、山田や白雲と来ることの多い屋上の扉に手をかける。ゆっくりと扉を開ければ、校内に向かって屋上から勢いよく外の空気が流れ込んできた。風から顔を背けてから、そろそろと前を見れば普段通り何も変わらない屋上の景色が広がっている。その中に防人はぽつんと一人、佇んでいた。
 こちらを振り返った彼女は、ハッとしてすぐに顔を背ける。少しの間の後にかけられた防人の声はとても明るかった。

「見ててくれましたか?」

「見てたよ。最後まで」

"そうですか"と言ったきり、会話は切れてしまった。
 風に揺れている防人の黒髪は昼と同じように高く結われたまま。何も言わない彼女の背中をしばらく見つめてから、一歩前に出る。

「来ないでください」

 凛とした声はさほど大きなものではなかったけれど、強い拒絶が含まれていた。初めて向けられた防人からの拒絶。気おくれしてしまいそうになったが、相澤はもう一歩そこから踏み出した。

「防人」

「来ないで!」

振り返った彼女は俯いていて表情は分からない。先ほどよりも強い拒絶に足が止まる。夕暮れに染まる空を背にした防人がいつもよりも小さく見えてしまう。
今の彼女を放っておきたくない。拒絶に向かって歩き出したとき、ぐっと突然、足が動かなくなった。

「防人、お前……」

「……ごめんなさい。今の私じゃ、相澤先輩に会えないんです」

 ここで最初に聞いたものとは違い、防人の声は震えていた。背を向けてしまった彼女が左手を上げるとそれに従うように閉じていた屋上の扉が開く。

「明日、また一緒にお昼、食べてくださいね」

体が重力に逆らって、ふわりと優しく持ち上げられる。防人が個性の念力を使ってでも一人になりたがっていることが分かった。

 屋上に吹く強い風。バタンと、扉が閉じた音を聞いて彼女は堪えていた涙をこぼし始めた。こんな惨めさでいっぱいになってしまっている自分を相澤に見せたくない。パタパタとこぼれる涙には悔しさだけでなく、彼に見られずにすんだ安堵感も混ざっていた。

「一人で泣いたりするな」

聞こえるはずのない声に驚く間もなく振り返る。彼は個性を使って追い出してしまったはず。それなのに、どうしてまだここにいるのか。
 振り返った防人の視線の先にいる相澤は目を赤くさせ、髪が逆立っていた。

「言っておくけど、先に個性を使ったのはお前だからな」

目を閉じた相澤の髪が下りる様子を見ながら、防人は悲しそうに顔を歪ませる。

「ズルいなぁ……。どうして、一人にしてくれないんですか」

止めることができない大粒の涙を隠すように俯いた彼女は、また相澤へ背を向けてしまう。最後の抵抗として使った個性も彼によって消されてしまった。もう、防人に抵抗する術は残っていなかった。

 泣いている小さな背中へ近寄る。どうしたら正解なのか、まったく予想もできない。ただ、防人に寄り添ってやりたい気持ちが迷う彼の背を押した。

 背中から回された腕に防人は優しく抱き寄せられた。驚いて息をすることもできずに、そのまま背中を彼の胸に預ける。

「……体育祭準優勝。よくやったよ」

慰めてくる声が普段のものよりもずっと優しい。その優しさが今は彼女の目に染みて仕方がなかった。

「でも、負けちゃいました。……相澤先輩を理由にするなら、絶対に負けちゃ、いけなかった、のに……」

これまで勝ち負けにこだわってこなかった防人にとって、こんなに悔しくて情けない思いをするのは初めてだった。期待に応えられなかったことが何よりも悔しい。

「最後のアレは事故だ。お前が勝負を捨てたから、相手もケガをせずにすんだんだ」

 彼女の決勝は、例の椎名が相手だった。他人に戦闘を教えるだけの実力があるというだけあって、彼はこれまでの防人の相手の誰よりも強かった。徒手での戦闘は苦手だと言っていた彼女も椎名相手に引けを取らず、試合は互角に進んでいた。
しかし、一つ前の試合で脆くなっていたステージの一角が崩れてしまった。大きく崩れた穴の中へ落ちそうになった相手を助けたはずみで、防人は場外へと飛び出してしまい、判定は負けとなった。

 あの瞬間、彼女は何も考えずに相手を助けたのだろう。教師たちよりも早く、的確に助けたことは表彰式でも認められていた。それでも、判定は覆らない。普段の勝ち負けにこだわらない防人なら笑って受け入れられたことだったろう。

「ちゃんとやってたら、分からなかった」

「……勝てたって言わないところが相澤先輩らしいですね」

 元気なく微かに笑った防人の細い指が抱きしめている相澤の腕に触れる。僅かに降れている指先は相変わらず少し体温が低かった。

「そう言った方がよかったか?」

「いいえ。誠実な相澤先輩らしくて好きです」

いつもなら、あの柔らかい微笑みで言ってくれたのだと思う。しかし、彼女の声は今にも消えてしまいそうなほど小さい。
 また会話がなくなる。抱きしめた彼女の体温を感じながら相澤は言葉を探していた。彼が言葉を探している間に、沈黙は俯いた防人の小さく寂しそうな声で、ゆっくりと溶けるように壊される。

「相澤先輩、こういうのは、よくありません……」

"え?"と返した相澤に、彼女の声は微かに震えて掠れていた。

「こんなの、勘違いします、私。……慰め方は、他にもありますから、だからどうか」

一度言葉を切った防人は、さらに声を震わせる。

「離して、ください……」

涙に掠れた声は酷く弱弱しかった。腕に触れている防人の指についている傷や傷跡が相澤の目に留まる。一つ一つが、彼女の努力の証であり、彼女からの想いだと思うと、胸を締め付けるような、とても温かな気持ちが相澤の胸に広がっていった。

「……無理だ。ここで離したらお前、一人で泣くだろ」

 息を吸い込む。急にこれから口にすることが怖くなる。この怖さを腕の中にいる、華奢な体の防人はいつも感じていたのかと思えば、怖さや不安など口を噤む理由にならなかった。

「防人が好きだから……一人で泣かせたくない」

強く抱きしめて顔を彼女のうなじに埋める。鼻腔に広がる防人の匂いが、より彼女の存在を大きく相澤に感じさせた。

「離してください」

 凛とした声はいつものものなのに、やはり少し震えている。もう、自分の気持ちは防人に届かないものになってしまったのかと不安に駆られていると、触れているだけだった彼女の指が相澤の腕を握った。

「せっかく好きな人が"好き"って言ってくれたのに、顔が見られないなんてあんまりじゃないですか」

ゆるゆると腕から力を抜いて緩めると、防人は相澤の腕の中で振り返る。泣いて赤くなってしまった目元が分からないほど、頬を赤くさせている彼女は何も言わずに相澤の目を見上げていた。
 自信のなさそうな表情と、その目が求めていることに応えるために、息を吸い込む。一度、息を止めてから、防人の黒く澄んだ瞳を正面からまっすぐに見つめた。

「防人が好きだ」

ふわりと柔らかく、これまで見たどれよりも優しい彼女の微笑みは相澤の胸を強く脈打たせた。

「相澤先輩が大好きです」

花の咲くような微笑みで目に涙を溜めた防人を抱きしめる。自分の背に恐る恐る回った腕を感じると相澤の顔もこれまでよりずっと熱を持った。
 ふわふわとして温かい感情が大きく苦しい。しかし、その苦しささえ嬉しく思える。この苦しくて温かい気持ちは彼女と同じものなのだろうかと、腕の中で嬉しそうに涙を流している防人に頬を寄せた。

 二人の気持ちが重なった日の夕暮れは、いつもよりも赤く、心地のいい風が吹いていた。

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