眠る君にしかできない

ぽたぽたと小さな音を立てる水で、文字が滲んでしまわないようにと考えるよりも早く、彼女のメモを元の胸ポケットへとしまう。今となっては捨ててしまってもいいと思っているものを雨から避けるなんて、と自嘲していると突然腕を掴まれた。

「相澤先輩……!」

 酷く焦った様子の防人は髪を高い位置で結び、雄英のジャージを着ていた。驚いて声も出せないでいる相澤を見て、彼女の表情は心配そうなものへと変わっていく。

「何か、あったんですか?」

心配してくれていること、防人の黒い目に自分が映っていることに嬉しさを感じてしまうのが嫌になりながら、相澤は顔を逸らした。

「別に、何もないよ」

精一杯になりながらの答えは防人の納得できるものではなかった。嘘だと言わんばかりに、彼女はさらに相澤の手を引く。

「じゃあ、なんでこんなところで泣いてるんですか!?」

焦りと必死さで大きくなってしまった防人の声に、相澤の目が見開かれる。彼女に言われたことが信じられず、恐る恐る自分の頬に指を置く。確かに、触れた指先が濡れたのが分かった。

「相澤先輩……?」

 不安そうな顔をする防人に首を振る。本当のことなど今さら言えるわけがないと思った。

「猫がいるかと思ってきたら、目にゴミが入っただけだ」

目元を擦ろうとすれば、さぁっと顔色を青くさせた彼女に、また腕を掴まれた。

「ダ、ダメですよ擦っちゃ!! 先輩の個性は目を使うんですから、傷つけたらどうするんですか!!」

防人の手がぴったりと相澤の頬を包む。目を見ようと引いてきた手のせいで、鼓動がどんどん強くなり全身が熱を持った。
 身長差を埋めて、もっとよく彼の目を見ようと彼女が背伸びをしようとする。

「う……」

喉の奥で殺したようなうめき声はしっかりと相澤の耳に届いていた。

「お前、どっか痛めてるのか?」

「そんなことより、今は相澤先輩の目です。痛みはありますか? 違和感は? 念の為、リカバリーガールに診てもらいましょう」

腕を引いて保健室に連れて行こうとする防人の腕を、今度は相澤から掴む。

「そんなことじゃない。どこ痛めてるんだ」

話そうとしない彼女の腕を引くと、また小さなうめき声と一緒に相澤の胸の中に倒れ込んできた。

「ご、ごめんなさい……」

 恐る恐る上げてきた防人の顔は真っ赤に染まっていた。きっと、この状況ではなかったら相澤も同じようになっていたのだろう。しかし、今の彼にはそれ以上に気にかかるものがある。

「足か」

踏ん張りが利かなかった様子で、相澤は防人がどこを痛めているのか見抜いた。彼女に許可も取らずジャージの裾を捲り靴を脱がせると、彼の目はみるみると見開かれて次第に怒っていく。

「人の心配なんかしていいケガじゃないぞ、コレ」

淡々とした声は相澤がどれほど怒っているのかを防人に伝えるには十分だった。細い足首が赤黒く変色し腫れ上がっている。見るのも痛々しいケガに彼は顔を顰めた。

「相澤先輩だから、心配しないでいられないんじゃないですか……」

怒られた子どものような防人に、ため息をつくと相澤は背を向けて屈んだ。

「とりあえず、保健室はお前だ。早く乗れ」

「え? あ、いや、じ、自分で歩けます! そ、それに個性使えば、足を使わなくても……!」

とんでもないとばかりに手を振る防人を相澤は睨むような目で振り返った。

「もういい」

 立ち上がった相澤がズンズンと歩いてくる。そのまま通り過ぎて帰ってしまうのかと思った防人の予想は大きく外れた。

「ひゃあ!?」

突然のことに防人は相澤へしがみついた。軽々と抱き上げている彼の手は、しっかりと彼女の背中と膝裏に回っている。横抱き、所謂お姫様抱っこの状態だった。

「大人しくしてろ」

聞こえてくる声がいつもよりもずっと近くで響くように聞こえる。怒気がこもった声が怖くないのは、優しく抱えてくれるこの手のせいだろうか。見たことのない角度から相澤の顔を見上げる。少しでも早く保健室へ着くようにと、真剣に走る彼に防人の胸の中では、相澤への気持ちが大きく膨れ上がっていった。

「防人、落とすつもりはないけど、ちゃんとしがみついててくれ」

「は、はい!」

やり場に困っていた手は、これまでずっと胸の前で握り締めていた。普段通りなら、こんなことはしなかったのだろうが、好きな人に横抱きにされている状況で、彼女は酷く狼狽えていた。

「……!」

 いきなりのことに息を呑んだ。確かにしがみつけと言った。しかしそれは、今のような状態にするつもりではなく、制服でも掴んでいてくれという意味だった。今、防人の手は相澤の首に回り、ぴったりと体をくっつけている。違うと言わなければいけないのかもしれない。それでも、彼の口は全く動こうとしなかった。

***

 防人のケガは本当に酷いもので、骨が奇麗に折れてしまっていた。苦笑いで誤魔化そうとする彼女にリカバリーガールは大きなため息を吐いてからお説教を始める。

「大体、いつもいつもどうして、一緒に訓練してた子は来ないんだい!?」

「えっと、あはは……訓練中って痛みに鈍いみたいで、後から気づくせいですよ」

嘘だとすぐに分かった。大方、相手には迷惑をかけたくないだの、時間を割いてもらっているのに自分の実力不足で中断させるのが申し訳ないだので言い出せないだけだろうと、相澤の怒気を含んだ目が彼女に向く。すぐにその視線に気づいた防人は彼に申し訳なさそうな顔をした。

「相澤先輩、あの、もう大丈夫です。ありがとうございました……」

 付き合わされて怒っているとでも思っているような防人に、相澤は眉間にしわを寄せる。

「馬鹿言うな。送ってく。大体、その足でどうやって帰るんだ」

 ここのところケガの多かった彼女は、ほぼ毎日のように保健室へやってきていた。軽微なケガは簡単な手当でも済むが、時折ある今日のような大ケガはそうもいかない。リカバリーガールの個性にお世話になるしかないが、疲労の溜まり切っている今の防人を一気に治癒することはできなかった。

「この子の言う通りだよ。今日は送ってもらいな!」

"あと、これをお食べ"と、手に置かれたものに防人の表情は、ぱっと明るくなった。

「わぁ、キャラメルだ! ありがとうございます」

嬉しそうににこにことされてしまうと、怒る気持ちが萎れていく。はあ、と吐いたため息が重なると、相澤とリカバリーガールは顔を見合わせた。

「この子、最近よく来るんだよ。頑張るのはいいけど、無茶をするのは違うからね。ちゃんと見張っててやるんだよ」

返事が出来ずにいる相澤に何かピンときたのかリカバリーガールは、やれやれとまた小さくため息を吐く。

「とりあえず、明日も治癒をしなくちゃならないんだ。今日はこのまま帰ってよく寝ること! 分かったね」

「あはは……。あの、お世話になります」

たじたじになりながら苦笑いをする防人から、相澤はそっと視線を逸らしてドアに手をかけた。

「相澤先輩?」

ベッドの上から不安そうな顔をする彼女に罪悪感に似たものを覚えてしまう。そして観念したように、相澤は口を開いた。

「荷物、取りに行ってくるから、お前はここで大人しくしてろ」

「すみません、お言葉に甘えます。……待ってますね」

すまなさそうな顔をしていたのに、最後は少し嬉しそうにしていた。なんでそんな顔をするのかと思いながら相澤は保健室を出る。防人が何を考えているのか分からない。そもそも、彼女が何を考えているか分かったことなんかない。いつも、そんなことを考えていたのかと驚かされてばかりだ。
 悩む気持ちを吐き出すように、ため息を一つ。それから彼女の教室に向かって歩き出した。

***

「あの、相澤先輩。怒って、ます?」

「少しな」

 大分暗くなった夕空の下、相澤に背負われた防人が、おずおずと尋ねる。

「えっと、その、相澤先輩より先に私がリカバリーガールに診てもらったから、じゃないとは分かっているんですが、その、他に思いつかなくて……」

困り切った声を出す彼女に、なんだか自分が悪いことをしているような気分にさせられる。困っている防人に強く出られないことを自覚しながら、相澤はため息を吐いた。

「あの―――」

「お前がこんな無茶をしてるなんて知らなかった」

何か言いかけた防人が口を閉じたのを感じてから相澤は続けた。

「俺はお前の自信になるなら、俺を理由にしてもいいとは言った。けどそれで、無茶してケガをされるなら冗談じゃない」

黙ってしまった防人に、自嘲した思いがまた相澤の中に現れる。ハッと小さく鼻で笑ってから、つい、それを口に出してしまった。

「まあ、もうお前の理由は俺じゃないんだろうけどな」

「どういう意味ですか?」

心底、意味が分からないというような声を出す防人に苛立ちを感じるが、それを無理やりに押し殺す。

「……彼氏ができたって、あちこちで噂になってるぞ」

「誰に?」

通じない話にさらに苛立ちながら振り返る。横目で見た防人は本当に話が分からないようで首を傾げていた。

「……防人に」

「ええ? うーん、もしかして、椎名くんのことですかね?」

 相澤の両肩に置いていた手を離して腕を組んだ彼女は、考えながら目を閉じる。"おい"と注意すれば、すみませんと謝りながら離れた手が相澤の肩へと戻ってきた。

「多分、ここのところずっと一緒にいるからそのせいじゃないですか?」

「いや、知らん。その椎名くんも、事実かどうかも」

突き放すような言い方をした自覚はある。しかし、今の相澤には防人に彼氏ができたという話は信憑性が高いように思えてならなかった。

 会話がなくなる。いつもの心地いい静かさではないことが悲しいような気がして、視線が落ちそうになったとき、防人の戸惑いを含んだ小さな息が背後から聞こえた。

「えっと、椎名くんはですね、一年の中では一番徒手での戦闘が上手なんです。そんな人が隣の席だったら、お願いしやすいじゃないですか」

"ああ、隣の席なら仲良くなりやすいし、付き合いだすなんて珍しことじゃないかもな"なんて彼女の言葉をまだ信じられない自分の声を聞いていたときだった。

 ふわりと回された防人の手に、どきりとして足が止まる。驚いて彼女を落とさないように全身に力が入った。

「私の好きな人は、相澤消太だけです。貴方だけが、私の好きな人なんですよ」

抱き締めるように自分の体に回る彼女の手が少し震えている。防人は、もう自分に好きだというのは言いなれていて動揺もしないものだと思っていた。でも、本当は毎回こうして緊張しながら口にしていたのかと思うと、息ができないほどの苦しさも悲しさもどこかに溶けるように消えた。

「……ありがとう」

 防人に想われる喜びを感じながら、できるだけ気持ちを込めて返すと、嬉しそうな笑い声がした。きっとこれでは返事にならない。きちんと言葉にしなくてはと思ってもなかなか覚悟が決まらなかった。

「よかった。今日はちゃんと相澤先輩に好きって言えました」

「わざと言わなかったのか?」

どういうことかと訊いてみれば彼女は何でもないように答える。

「好きって言葉はちゃんと会ってるときに言わないとって思いませんか? 本当はずっと相澤先輩に好きって言いに行きたかったんです。約束がなくても会えたらいいのにって何度も思ったりもしました。でも、今は頑張らないといけないし、ちょっと我慢するときなのかなって思って……」

「昼ならいいだろ……」

"え?"と訊きなおしてきた防人に、恥ずかしさを誤魔化す為に少し大きな声を出した。

「昼! 明日から一緒に食えばいい!」

何を言い出してるんだと思う。口にした後の恥ずかしさは、出す前よりも凄かった。ぎゅうっと口を結んだ相澤に彼女が笑う。

「明日が楽しみだなぁ。お弁当、何にしよう」

聞こえてくるウキウキとした独り言に相澤も小さく笑った。

「遠足じゃないんだぞ?」

「当たり前です。遠足とは比べられないほど楽しみです!」

 返ってきた言葉は"そうか"なんてぶっきらぼうなものだった。それでも好きな人の背中で、その体温を感じられることが防人には嬉しくて堪らなかった。目を閉じて相澤の頬にすり寄るように、自分の頬を寄せる。

「お、おい……」

明らかに動揺している相澤の声がおかしくて笑っていると、急に強い睡魔がやってきた。

「防人?」

「ん……」

彼が呼んでいるのに返事ができない。相澤から感じる体温の心地よさにどんどんと眠気が強くなっていく。

 規則正しい寝息が耳元から聞こえる。仕方がないかと相澤は、はあ、と短く息を吐き出した。寝てしまった防人が落ちないように背負いなおすと、身じろぐような声が耳元から聞こえた。なまめかしく聞こえなくもない声に、勝手に顔が熱くなる。今の彼女は無意識だ。意識してはいけないと、せめてもの抵抗として相澤は顔を反対へと向けた。

 しばらく歩けば、防人から聞いていたおおよその場所までやって来た。本当なら家に着くまで寝かせてやりたいが、場所が分からない以上起こさないわけにいかない。

「防人。……防人」

よほど疲れているのか、彼女はまったく反応しない。疲れもあるだろうが、これほど寝入ってしまうなんて、随分と信用されているものだと思う。
 つい、防人が起きているときにはできないことをしたくなる。顔を彼女の方へ向けると、お互いの頬がまた触れ合った。

「……桜」

ぽつりと呟かれた相澤の声は、本当に微かな音だった。誰もその声に反応することはない。そのはずだった。

「……はい」

とろんとした眠そうな声が返ってきたことに、相澤の体は大きく跳ねる。起きているときであれば絶対に見逃すはずのない彼の動揺に、今の彼女は気づかなかった。

「名前……うれし、な」

 また、すやすやと防人が夢の中へ戻ってしまったのを感じながら、相澤はどうしようもなく早く脈打つ鼓動を治めようと努めていた。深く息を吸い込んでは吐き出し、何度も繰り返す。最後に大きく息を吐き出して、相澤はもう一度彼女を起こす。

 やっと目を覚ました防人は、今度はしっかりと起きたようで眠ってしまったことを何度も謝っている。その声を聞きながら相澤は思う。彼女が目標にしている体育祭が終わるまでには自分も心を決めよう。防人を背負いなおしながら静かに気持ちを固めていた。

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