胸の痛み

 屋上から見る空は今日も青い。ゴミになってしまった昼食のパッケージに目を落としていると、先日、防人に食物繊維が摂れないと注意されたことを思い出す。
 彼女の姿を見ない。週に一度も見ないことなどなかったのに、ついに先週は一度も見なかった。

(まただ)

最近よく痛む場所に手を置いてみるが、相澤の胸から痛みは引かない。別に健康状態に問題はない。理由の分からない痛みは、ここのところの悩みだった。

「相澤? どした?」

 何か驚くようなことでもあったのか、声をかけてきた山田の目は見開かれている。

「何がだ?」

上手く説明できないことは、上手く理解してもらえない。話すつもりはないと、態度で示したつもりだが、相手はそうではないらしい。

「ひっでー顔してるぞ」

「は?」

それは一体どんな顔だと相澤に胡乱気な目で見られた山田は人差し指を向けてきた。

「寂しくて死にそうな顔」

ニヤリと意地悪く笑う山田には、見抜かれてしまったようだ。実際、指摘された瞬間、どきりとした。

(そうか、俺は……)

 空を見上げた。先ほどと変わらない青い空を見上げていると強い風に吹きつけられる。いつの間にか無意識にきゅうきゅうと痛む胸元を掴んでいた。

(寂しいのか)

納得してしまえば、何でもない。そして、寂しさの理由に思い当たることがある。
 一つため息を吐くと、空を見上げるのを止めて俯いた。目を閉じる。瞼の裏で彼女の姿を思い描いた。

***

 放課後になっても、やはり防人に会うことはなかった。一人残った教室で、ケータイを開いてみる。通知は一つもない。どこにいるかなんて聞いてもいいのだろうかと迷っているうちに、手の中でケータイが震えた。すぐさま、メッセージを確認してケータイをポケットへ戻す。

「チッ!」

大きな舌打ちは彼の心情を、はっきりと表していた。少しの期待で確認したメールは山田から。余計なお世話としか言えないことしか書かれていなかった。

 思わず深いため息が漏れる。別に用事もないのに、こんな時間まで残ってしまった。自分で自分に呆れてしまう。会いたいなら会いたいと防人に言えばいいんだろう。こんな時間はまったく合理的ではない。そう理解していても感情は違う。今、努力を重ねている彼女の邪魔をしたくない。でも、できれば、姿を一目見られればと思う。

(何やってんだ……)

防人が一人で頑張っているなら、自分も同じようにできることに努力をすべきだ。時間は有限。こんな時間は無駄でしかない。
 鞄を肩にかけ、一歩足をだしたとき、またポケットのケータイが震えた。また山田かと思ったが、震えている時間が長い。どうやら着信のようだ。しつこい奴だと思いながらディスプレイを見る。名前を確認すると、考えるよりも早く指が通話ボタンにかかった。

『あ、もしもし。今、お忙しいですか?』

「いや、大丈夫だ」

ケータイを通して聞こえてきた声に、寂しさで苦しむばかりだった胸が柔らかくなる。"ああ、よかった"とホッとしているような防人が簡単に想像できて、相澤の口は小さく笑った。

「電話なんて珍しいな。何かあったのか?」

『いえ、そうじゃないんです。今日、自主練に行こうとしたら山田先輩に会って、相澤先輩の元気がないって聞いたので……』

余計なことをと思った。しかし、それがあったから彼女から電話をかけてきてくれたのだと理解できるから怒れもしない。誰もいない山田の席を睨んでいれば、"相澤先輩?"と防人の心配そうな声が聞こえてくる。

「……ちょっとな」

 正直に"お前に会えなくて寂しい"とは絶対に言えなかった。

『そうですか……。早く、相澤先輩の悩みがなくなるようにって願ってます。今の私には、それしかできそうにありません』

気のせいでなければ、彼女の声には寂しさと悔しさが混じっているように聞こえた。素直になってしまおうか、そう思ったときだった。

『防人さん、そろそろいいかな?』

電話の奥から聞こえた男の声に、頭の中がスッと冷えていく。冷えるというよりも凍りついたようだった。

『あ、もう時間ですか? すみません、すぐに行きます!』

手でケータイが押さえられているのか、防人の声がくぐもっている。何か言わなければ、と思うが頭がまったく働かない。

『すみません、相澤先輩。また連絡します』

プツリと切れてしまった通話に、ケータイのディスプレイがいつもの待ち受けに戻る。ふと、違和感に気づいた。

(あいつ、好きって言わなかったな)

いつもなら、どんなに忙しくても直接話せるのであれば、廊下ですれ違うような僅かな時間でも"好き"と言いに来ていた。電話で話せた時の嬉しさが、比べものにならないほどの寂しさを相澤の胸に連れてくる。
 強く胸元を握る。苦しくて仕方がない。防人は一人で訓練をしているのだと、勝手に思い込んでいた。彼女が誰と一緒に訓練をしようと責めることはできないし、誰と一緒にいようと自由だ。それなのに、胸が苦しいのは一緒にいる相手が男だからか、二人きりでいるかもしれないからか。

(そんなの……)

 勢いよく教室を飛び出す。どこにいるのか、先ほどの電話でおおよそ検討はついていた。

***

 あの電話は、声が反響していた。それから、男の声が聞こえたとき、キュッと高い音が聞こえた。あの音は、体育館などでよく聞くスキール音だ。この広い雄英で、いくつもある体育館を探すのは非合理的だ。彼女ならと考えれば、候補はいくつかに絞られた。

 そうしてたどり着いた一つ目の体育館の入り口で、相澤は身を潜めた。中からはバタバタ、激しい音が聞こえてくる。中を覗けば、昼に思い描いた姿がそこにあった。
 ポニーテールにした長い黒髪が流れるような動きをしている。彼女の手に刀はない。徒手で向かう相手は、先ほどの電話の男のようだ。短い気合と共に拳を繰り出すが、軽く避けられている。そして、相手からの拳も軽く身を捻って、上手く躱していた。
 体育館の外壁に背中を預けながら俯く。防人がこうして汗を流しているときに、自分は何をしていたのだろうか。自分の気持ちを持て余すばかりで、無駄な時間を過ごしていた。そんな自分が恥ずかしくて仕方がない。

(素手での戦闘は苦手だって言ってたのに)

相手の男子にも負けずにかかっていくのを見る限り、時折、ぎこちない動きもみられるが基本的に問題はなさそうだ。足を取られ転ばされた防人が立ち上がる。何度、倒れても立ち上がる彼女を見ていたら、以前、かけられた言葉を思い出した。

『ボロボロにやられることがカッコいいんじゃありません。そこから立ち上がるからカッコいいんですよ』

(ああ、そうだな)

真剣な目に相手を映す防人は、相手からすべてを得ようとしているようだ。彼女が選んだだけはあるのか、相手の男は動きが洗練されている。一年生であれば、学年でもトップクラスの実力なんだろう。
 そっと目を閉じてから、ゆっくりと目を開けると相澤は防人のいる体育館を後にした。

-10-
[*prev] [next#]
top