雨に濡れていた少女

『相澤先輩、あの日からずっと貴方が好きです』

 そう告げられたあの日、相澤は防人のことを思い出した。彼女に出会ったのは昨年の雨の日のことだった。

***

 雨の降る通学路。普段となんの変わりのない帰り道のはずだった。ビニール傘を指していた相澤の目に、ふと、一人の少女が止まる。傘もなくずぶ濡れになっている少女は細い腕に抱えた何かを真っ白なタオルで何度も拭っていた。
 足を止めて見てみれば、彼女が抱えているのが黒い子猫だと分かった。困り果てているような雰囲気に気づいてしまうと放っておくことが悪いことのような気がしてしまう。
 シャッターの下りた店先に立つ少女へ近づくと、気付いた彼女がゆっくりと顔を上げた。濡れたボブヘアの間から現れた顔はとてもよく整っている。息を呑んでしまった相澤は一拍遅れてから声をかけることになった。

「何かあったのか?」

初対面の、それもぎこちのない声のかけ方をしてきた相澤を不審に思わなかったのか、彼女は困り切った目を自分の腕の中の子猫に落とす。

「うちの前に捨てられていたんですが、家の人はこの子を飼うことに反対なので……」

 少女の着ているセーラー服は全国的に有名なお嬢様学校のものだ。お嬢様の家ではどうやらこの猫を飼えず、それに反発して家を飛び出したというところだろうか?

「ここにいて何か変わるのか?」

飼えないことの不満で飛び出したのだとしたら、この少女にこれ以上付き合う気はなかった。しかし、俯いた彼女の口から出てきた言葉に相澤は自分の耳を疑う。

「黒猫は不吉なので、家の前に置いたのはどこかの嫌がらせだろう。見せしめに埋めてしまおうと話していたのが聞こえたので……。どうしても、それは嫌だったから……」

俯いた彼女の髪から雨水がしたたり落ちる。それが子猫に落ちてしまうと、彼女は慌てて子猫を包むタオルで拭った。

「……ここからどうするつもりだ?」

 猫を埋めてしまうという家に置いておけずに飛び出してきた少女の気持ちはよく理解できた。猫好きな相澤としてもこの黒猫を助けてやりたい。しかし、冷静な彼には自分がまだそれだけの力を持ち得ていないことも理解できていた。

「母方の叔父を頼ろうと思うんです。連絡もしてあって、後はこの子を届けるだけなんですが、肝心の叔父の自宅が分からなくて迷っていたら雨まで降ってきてしまって」

空を見上げた彼女と同じように空を見上げる。夕方から降り始めた雨は、随分前から本降りになっていた。

「とりあえず、アンタも拭いた方がいい」

鞄から取り出したタオルを少女の頭にかぶせ、子猫を受け取る。幼すぎる子猫は警戒心が薄く、相澤の腕の中でも大人しくしていた。

「ありがとうございます」

素直に相澤のタオルを借りた彼女は濡れた髪や顔を拭いていく。さすがというべきなのか、首筋を拭くその仕草さえ淑やかだった。見ているのも不躾かと、相澤は目を子猫へと移す。少女が必死に濡れないようにしたお陰か、子猫の毛は濡れた様子もなく、衰弱も見られない。

「叔父さんの家は思い出せそうなのか?」

「いえ、住所は分かるんですが、ケータイが雨で水没してしまって」

「なるほどな」

それでここで途方に暮れていたのかと納得する。引き取り手がすでにあるというのであれば、役に立てそうだとポケットからケータイを取り出した。

「叔父さんの住所。調べようか?」

「いいんですか?」

目を丸くさせる彼女は先ほどの大人びた表情とは違って幼く見えた。そんなせいか、つい注意がてら意地の悪いことを口にする。

「そっちこそ、見ず知らずの俺に叔父さんの個人情報を教えることになるんだぞ?」

もちろん、個人情報を悪用するつもりなんか毛頭ない。もしかしたら、彼女は、そういった悪用する人間がいるということを知らないかもしれないという、ちょっとした偏見のようなものだった。
 きょとんとした少女は、おかしそうにくつくつ笑い出す。怪訝に思う相澤に彼女は初めて微笑みを見せた。

「お優しいんですね。心配してくださってありがとうございます」

「……分かってないな」

きっと、少女の周りには悪い人間などいないのだろう。だから、個人情報を悪用する人間が身近にいることが想像できないのかもしれないと、相澤は呆れた目をした。

「分かってますよ。悪意のある人なんて、この世の中どこにでも、それこそ家の中にだっているんですから」

目を伏せた彼女の表情はよく分からないけれど、相澤が制服から受けた"お嬢様"のイメージは彼女には当てはまらないことは分かった。

「……悪い。どっかのお嬢様だって決めつけてた」

気まずい思いから謝った相澤に、また少女は目を丸くさせてから小さく笑った。

「謝らないでください。貴方が優しい人なのは分かってますから」

「なんでそんなこと……」

会ってからそんなに時間だって経ってないのに、この少女は何を根拠にそんなことをいうのだろうか。

「ずっとここにいましたが、貴方だけです。こうして声をかけてくれてタオルを貸してくれた優しい人は」

嬉しそうに微笑む表情につい見入ってしまう。真っ直ぐな感謝は酷く面映ゆいものだった。
 ふと空を見上げれば、雨は先ほどより小雨になっている。目的地を地図アプリ上に表示させて、子猫を少女へと戻した。ビニール傘を猫が驚かないようにそっと開く。

「狭いけど、我慢してくれ」

「いいえ、ありがとうございます」

会釈してから彼女は相澤の差す傘の中へ入ってきた。ふわりと香った匂いに気づいてしまうと、少女のいる右側を意識しないではいられない。

「あの、もう少しご自分に差された方がいいですよ。肩が濡れてしまいます」

「こいつが濡れなきゃいいだろ」

横目でちらりと見た子猫を指せば、彼女は何かを考えた後、緊張を解くように大きく息を吐き出した。

「失礼します!」

意を決した声と共に、彼女の肩がぴったりと相澤の肩に寄りそう。これでは驚いて体を跳ねさせてしまったことを誤魔化せない。

「な、なにしてんだ!」

「嫌かもしれませんが、私は助けていただいた貴方に風邪を引いてほしくないんです。だから我慢してください」

凛とした声は相澤に言い返す気も起こさせず、押し黙らせる。そこからしばらく会話というものはなくなった。右肩から伝わる熱が気になってしまうのは、この状況のせいだ。ちらりと隣を見れば、彼女もこちらを見ていたようで視線がバチリと重なる。気まずさから揃って目を逸らした二人の頬が赤いことは誰も知らなかった。

***

 その後、無事に彼女を目的地に送り届けたことは覚えているが、それからのことはもう覚えていない。しばらくは、思い出していたような気もするが、もう会うこともないだろうと思うと意味のないことのように感じて、そのまま忘れていった。

 屋上の風に吹かれている防人の黒髪と青空のコントラストが目に焼き付く。空を見上げていた彼女の視線が相澤へ向けられる。なんでもない動きだというのに、どうしてか目を眇めたくなるほど、防人の存在が眩しく感じた。

「山田先輩たち、遅いですね」

 一人で先に来た屋上に、山田に昼を誘われたという防人が先にいた。遅れてくるのは彼なりに気を遣ったつもりなのだろうか。

(それはないか)

ふう、っとため息を吐いて、フェンスの近くにいる彼女の隣に寄る。見上げてきた防人の髪は初めて会ったときよりもずっと長かった。

「……すぐ、思い出せなくて悪かった」

「思い出してほしいわけじゃなかったですから、謝らないでください」

困ったように笑う防人に相澤は首を傾げた。

「どうして」

「あのときの頼りない私じゃなくて、今の私を相澤先輩に見てほしかったんです」

当時を思い出したのか、苦笑いをした彼女の視線がまたフェンスの向こうに行く。

「勢いだけで飛び出した中学生には、子猫一匹を助けることも満足にできませんでした。それなりに上手くやれると思っていたくせに」

小さく息を吐いた防人の視線が下がる。弱弱しく見える姿に、不思議とあの日、ずぶ濡れになっていた彼女の頼りなさは感じなかった。

「私にとって、相澤先輩はヒーローでした。あの日、相澤先輩の優しさに恋をしてしまって、それで私は雄英に来ました」

恥ずかしそうに笑う彼女の横顔は、長い黒髪の間からしか見えない。ただ、頬が赤くなっているのは相澤の位置からでもよく見えた。

「不純な動機だと思いますか?」

「……それだけならな」

 防人のことを深く知っているだなんて自惚れるつもりはない。ただ、これまで毎日話した中で、少しは彼女を知っている。そう思う相澤には、防人が雄英を選んだ理由がそれだけだとは思えない。恐らく、彼女は将来を真剣に考えた結果、ここに来たのだろうと直感していた。

「お見通し、ですね。……前に私の家、今は廃れて何もないと言いましたけど、本当は血筋がどうのこうのって時代劇もいいところのしきたりだけは残っているんです。
両親が事故で亡くなったとき、本家の人間は私だけになってしまいました。本当にくだらない話ですが、その血を残すために分家の誰かを婿になんて話が、雄英に受かるまであったんです」

暗い表情の防人に何か言葉をかけてやりたい。しかし、どう頭を働かせても気の利いた言葉は相澤の中から出てこなかった。

「相澤先輩に出会う前から、あの家のすべてを放棄して自分の道を探そうと思っていました。後見人には母方の叔父がなってくれることになっていましたし、不安ではなかったんですが、なかなか自分のやりたいことが見つからなかったんです」

言葉を切った防人が相澤へと向き直る。真っ直ぐな黒い目に見つめられて、相澤も体を彼女の方へ向けた。

「でも、あの日、相澤先輩に助けてもらって、初めて"ヒーロー"という選択肢に気が付いたんです。ヒーローなら父から教わった剣術が生かせるかもしれない。そう思った時は凄く嬉しくて、それからヒーローを目指すことにしたんです」

「それで雄英、ね」

くすりと彼女が相澤に笑いかける。胸をどきりとさせた相澤は、防人のこの笑顔は心臓に悪いと思った。

「違います。相澤先輩が雄英のヒーロー科だって分かってたから選んだんです」

「……制服か」

どうしてそんなことが分かったのだろうかだなんて、考えなくともすぐに答えが出た。あの日、相澤が防人を制服でどこの学校に所属しているか分かったように、彼女も相澤の制服で気づいたのだ。

「それにしてもよくヒーロー科だって分かったな」

「傘の中で肩が触れていたのを忘れられなかっただけですよ」

頬を染めて俯いた防人に相澤の頬も熱くなる。誤魔化すように頭を掻いてみても、熱は冷めてくれない。
 向き合ったまま、沈黙が二人の間に流れていく。気まずさは感じないが、どうにも照れくさいような空気を、小さく笑った彼女が崩す。

「相澤先輩、あのときの猫、気になりますか?」

「え? ああ、まあ。そうだな」

ちょっと待ってくださいねと彼女はケータイを弄りだす。また防人に気を遣わせたと、相澤は少し自分が情けなくなっていた。

「ほら、元気ですよ」

画面いっぱいに映し出された黒い猫。毛艶もよく、確かに元気そうだが、その姿に相澤は眉間にしわを寄せる。

「これ、太りすぎじゃないか?」

「来る人来る人がおやつあげちゃうみたいで、今はダイエット中なんです」

苦く笑う防人の話によると、彼女の叔父は小さな個人医院で医師を務めていて、そこにくるお年寄りの患者なんかが、孫を甘やかす感覚でおやつをあげるらしい。

「獣医さんにも、かなり絞られたみたいで反省してました」

「でもまあ、可愛がられてるみたいだな」

見せてもらうどの写真も黒猫は誰かに撫でられていたり、抱っこされていたりと多くの人に可愛がられているのが窺えた。写真を見て微笑む相澤に、防人は染めた頬で目を細める。

 ガヤガヤと騒がしい声が、階段を上ってきている。どうやら二人の時間もこれで終わりらしい。少し寂しさを感じながら、入口の方へ向くと屋上の扉が遠慮のない開きかたをした。

「ソーリーソーリー!! 待たせたなお二人さん!!」

「本当に遅かったな」

遅れた理由をハイテンションで話す、山田と白雲の方へと歩き出した相澤の制服の裾が引かれる。引いたのはもちろん防人だ。

「あの、相澤先輩」

視線を泳がせた彼女は明らかに何か迷っている。

「どうした?」

不思議そうにしている相澤を、彼女は覚悟を決めたような目で見上げた。すっと近づいた防人の顔は、驚いて動けないままの相澤の耳元へ近づく。
 一瞬で離れて行った彼女は相澤を置いて、騒がしい二人の元へ向かっていく。その背中をポカンと見送ってしまった。

「オイオイ! ナイショ話かよ!! 何話したのか俺にもTell me!!」

「それじゃ、内緒話にならないじゃないですか」

おかしそうに笑う防人を見ながら、相澤はおもむろに自分の耳に手を当てる。すぐに離れて行った体温とは違い、鼓膜を揺らした小さな"好きです"と、耳にかかった吐息の感覚がまだそこに残っていた。
 ポケットでケータイが震える。届いたのは防人からのメッセージ。

『すみません。どうしても今、伝えたくなっちゃいました』

先ほどの耳打ちの謝罪。きっと、好きと言われ始めた頃であれば不快に思ったのかもしれない。
 ふっと笑ってから短く返事を打つ。送信すると、相澤も騒がしい輪の中へと入っていった。

 こっそりと確認した相澤からの返事に防人の顔は嬉しそうに緩む。"気にしてない"と書かれたそれを誰にも気づかれないように保存した。

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