可愛いのは……

 体育祭に向けて忙しくなると彼女は言っていた。きっと、訓練に力を入れているんだろうと相澤は、ケータイのディスプレイに目を落とした。ディスプレイに映し出されているのは、まだ一度もやり取りをしたことのない防人桜の名前。

『忙しくなると相澤先輩に会いに行けなくなるかもしれないので、嫌じゃなければ先輩の番号、教えてもらえませんか?』

そう頼んできた彼女に相澤が答えるよりも早く、一緒にいた山田が勝手に答えて勝手に相澤の番号を彼女に教えた。そして要領よく彼まで防人の番号を手に入れていた。
 あのときのことを思い出すとイラっとしてしまう。眉間にしわを寄せて難しい顔をしていれば、手の中のケータイが震えた。メッセージを送ってきたのは考えていた彼女からだった。

『ナンパされました』

その一文にぐわっと何かが込み上げてきてケータイを思わず強く握り締めた。今どこにいるのか訊こうとすれば、続けて写真と動画が送られてきた。
 写真は手をこちらに向かって伸ばしている猫で、何とも可愛らしい。続けて送られてきた動画では、写真の猫が防人の足に手をつき、ねだるように手招きをしていた。一緒に録られている彼女の声は困りながらも楽しそうに聞こえる。恐らく、どこかの猫が離れなくて困っていたようだ。いつかの放課後に見かけた黒い子猫と同じ飼い主なのか、動画の猫もあの黒猫と同じ赤い首輪をしている。
 試しに"モテるな"と送ってみれば、返事はすぐにやってきた。

『本当に困りました。昇降口までついてきてしまって』

どうも彼女は猫に好かれるようだ。猫好きとしては羨ましい話だと思いながら、あの動画を思い出すと、どこか微笑ましいような気持ちになる。

『その猫、どうしたんだ?』

相澤がメッセージを送るとすぐにまた返事がやってくる。こうして離れていても彼女とやり取りができることに、少々心が浮き立っていた。

『個性使って逃げました』

"個性"のところでハッとする。そういえば、防人の個性とはなんだっただろうか。普段は他人の個性を積極的に気にしたりはしないのに、彼女は他人とは違うらしい。つい、知りたいと思ってしまう。
 送信しようとした指が止まる。本当に送ってもいいのか自問している間に、またメッセージを受信した。

『お昼休みに、写真の猫がいるか見に行こうと思うんですけど、一緒に行きませんか?』

"昼休み、空いてるか?"と書いていたメッセージを消す。嬉しいと思っていることが彼女に伝わらないように簡単な返事だけを送信したところで教室のドアがガラリと開いた。

***

 昼休みに待ち合わせた場所へ行くと、ベンチに腰掛けた彼女が空を見上げていた。横から見ても防人の顔は整っている。風に髪を揺らしている様子は、どこか儚げで花を思わせる美しさがあった。

「相澤先輩?」

こてん、と首を傾げた彼女の目がこちらに向いている。ドキンと一つ大きく脈打った心臓の音を聞こえなかったことにして頭を掻いた。

「悪い。待たせたか?」

「いえ、授業が早く終わったんですよ」

ベンチから立ち上がった彼女はスカートの端を軽く掃って、相澤へ穏やかな表情を向ける。

「屋上も気持ちいいですが、ここも天気のいい日は気持ちがいいんですよ」

さわさわと聞こえてくる木々が風に揺れる音。彼女がそこに在りさえすれば、どこでも居心地のいい場所になるのではないかと、一瞬思ってしまった自分が信じられず相澤は目を逸らすように地面を見た。

「さて、猫はまだいますかね?」

 さりげなく話題を変えた防人が気を遣ったのが分かる。"ああ"と短く返事をしながら二人で茂みの中を覗く。奥の方でちりん、と小さく鈴が鳴ったのが聞こえて隣の彼女へ振り返った。

「いるみたい、ですね」

苦く笑った防人の笑顔が近くて、また鼓動が早くなっていく。顔が赤くならないのを祈りながら、なんとか首を縦に動かした。

「……様子がおかしいな」

木の根元でじたばたしているのか、鈴の音が鳴りやまない。何かあったのではと、心配から二人は猫の方へ近寄った。
 じたばたしていたのは防人が写真を送ってきた猫で、必死になって木を引っ掻いている。何をしているのかと思えば、相澤と防人の視線は自然と、猫が見ている木の上の方へ向けられた。

「あ。あそこ」

彼女の細い指が示すところでは先日の黒い子猫が木にしがみついている。どうやら自力で降りられなくなってしまったようだ。
 まるで助けを求めるように、先ほどから写真の猫が足元でにゃあにゃあ鳴いている。

「何とかするから心配するな」

にゃあにゃあ鳴き続けている猫にそう声をかけて、相澤は木を見上げた。どうすれば子猫を驚かさずに下ろすことができるだろうか。

「相澤先輩、子猫なら私が下ろせます」

 にこりとした彼女が黒い子猫を見上げる。すると、木に爪を立ててしがみついていた子猫の体がふわりと浮き上がった。どうやらこれが彼女の個性らしい。少しずつ下りてきた子猫は、ゆっくりと両手を伸ばす防人の腕の中へ収まる。

「ぱっと見は、ケガもないみたいですが……」

子猫を見せてくる彼女の顔には心配からの緊張があった。防人の腕に抱かれたままの子猫に触れて一通り確認した相澤も頷く。

「ああ、大丈夫そうだ」

安堵から二人で顔を見合わせる。防人の笑みにつられて相澤の口元も小さく緩んだ。

「あいた!」

 突然、痛がり出した彼女の足に、写真の猫が立ち上がって爪を立てている。怪我をさせる意図ではなく、どうやら"早く子猫を見せて!"と要求しているようだ。

「すみません、今下ろしますから……! いたた……」

猫にへこへこと謝りながら、防人はそっと地面に子猫を下ろす。子猫は一度彼女を見上げると何か話しかけるように"にゃあ"と鳴いた。

「何を言っているか分かれば楽しいんでしょうね」

残念だと含んでいる声音に相澤は首を振る。

「いや、分からない方がいいだろ。今のだってお礼じゃなくて"余計なことすんな"とか"助けるのが遅い"とかだったら可愛くないぞ」

そんなことを考えたこともなかったのか防人は、目をぱちくりとさせたあと口元を押さえて笑い出した。

「そ、それは可愛くないですね。あ、でも、強がりが逆に可愛いかもしれません」

肩を揺らす彼女は目じりの涙を拭いながら相澤を見る。

「でも一番可愛いのはそんなことを考える相澤先輩ですね」

予想外の返事に、ムスッとした視線を送ってみても防人に効果はなかった。一しきり笑った彼女は、濡れたまつ毛と淡く染まった頬で微笑む。

「そんな顔しないでください。ほら、ここで一緒にお昼にしましょう」

ね?と促されても、可愛いと言われたことに納得がいかない。むしろ可愛いのは―――

「ほら、ここも日差しが柔らかくなって気持ちいいですよ」

既に草の上に腰を下ろした防人の目が細められている。柔らかな雰囲気によく似合う優しい表情。やっぱり可愛いのはお前じゃないかと相澤は唇をぎゅっと結んだ。

「相澤先輩? どうしました?」

小首を傾げた防人の黒髪が木漏れ日の中でキラキラとしている。負けたような気持ちで、隣にそっと腰を下ろせば彼女がまた嬉しそうに笑った。その笑みを見ると、つい嬉しくなってしまう。

「こらこら、ダメですよ。人間のご飯は体によくないんです」

 膝にすり寄って防人のご飯をねだる子猫は、手を伸ばしながら甘えた声を出している。子猫相手に一生懸命"ダメです"を繰り返し困っている彼女を微笑ましく思いながら、相澤も昼食を取り始める。

「相澤先輩、またそれだけですか?」

「栄養補給できればそれでいい」

栄養補助食品のショートブレッドを齧る相澤に防人は眉を寄せる。

「栄養は摂れるでしょうけど、食物繊維はとれませんよ?」

「それは他の食事で―――」

ずいっと差し出された箸に面食らう。差し出してきたのはもちろん彼女だ。

「はい。どうぞ」

 金平ごぼうの乗った箸が口元まで来ている。なかなか口を開けない相澤を遠慮していると思ったのか防人はにっこりと笑った。

「まだたくさんありますから、遠慮しなくて大丈夫ですよ」

「そうじゃ、なくて……」

「あ、もしかして嫌いでしたか?」

離れて行こうとする箸を惜しいと思ってしまったら、無意識に口が動いていた。ぱくりと思い切って口に含んだ金平ごぼうは見た目だけでなく味も上品だ。飲み込むのが勿体なくて、いつもよりも多く咀嚼した。

「美味いな」

「本当ですか? お口に合って良かったです」

嬉しそうににこにこした防人が同じように金平ごぼうを口に運ぶ。なんでもない様子の彼女を見て、意識したのは自分だけかと相澤は恥ずかしいような寂しい気持ちにさせられた。
 ハッとしたように防人の顔がみるみる赤くなっていく。ギギギ、と音がしそうなほどゆっくりと相澤の方へ向いた彼女の顔はあわあわと狼狽えている。

「わ、わた、私……」

「………」

同じように赤くなった相澤の顔を見て、防人は慌てて首と両手を振り出した。

「ちが、違うんです! 狙ってたわけじゃなくて、本当に他意はなくて!!! か、かん、間接」

「わ、分かってるから口に出すな」

"間接キス"なんて口に出されたら視線が彼女の唇から離れなくなりそうで怖い。それに、間接キスなら以前、平気な顔でしていたじゃないかと、俯きがちに防人を見る。

「あ、あのときは平気でしたくせにって思うかもしれませんが、本当は凄くドキドキしてたんです! でも、相澤先輩が"本気じゃない"なんて言うからムキになって、ですね……」

最初の恥ずかしさ故の勢いは、最後まで続かなかった。消え入るような声と共に俯いた防人の耳が赤い。そういえば、あのときは驚いて何も言えなかった。

「疑って悪かったよ」

今さら小声で謝ってみれば、彼女の顔がゆっくりと上がる。信じられないとばかりに見開かれていた目が柔らかに細められた。

 何も言葉を交わさなくても穏やかな時間が流れていく。自分にすり寄ってくる写真の猫を撫でながら、隣に視線を向けた。昼食を終えた防人が弁当の包みを脇に置くと子猫が立ち上がり、両手を彼女に向かって伸ばし始める。

「おや、抱っこさせてくれるんですか?」

差し出された手をすり抜けて、子猫は彼女の肩へ軽やかな動きで飛び乗った。抱っこじゃないのかと苦笑いをする防人の頬へすり寄るその様子を見て、相澤はハッとする。
 この瞬間、はっきりと思い出した。防人桜と出会ったのはあの告白のときが初めてではない。彼女と出会ったのは一年前だ。

「防人……」

「はい?」

子猫の喉を指先で撫でながら振り向いた防人に、相澤は居住まいを正す。

「お前、去年、雨の日に黒猫を拾った、よな?」

驚いた顔から彼女の表情が、嬉しさと恥ずかしさの混じったような複雑なものに変わっていった。

「はい」

風が吹いて木漏れ日が揺れる。葉擦れの音の中でも、防人の声は相変わらず凛としていた。

「相澤先輩、あの日からずっと貴方が好きです」

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