違和感の正体

 何か物足りない。物足りないというより、何かが生活から欠けているような気がする。今朝、登校してきたときには感じなかったそれは、昼を過ぎた頃から小さな違和感になり胸をざわつかせる。

(おかしい)

 なぜ、こんなに落ち着かないのか。教室の机で頬杖をついて理由を考えてみても、これというものに行きつかない。

「おい相澤! いつもよりここにシワ寄せちまってどーしたぁ!?」

自分の眉間をちょんちょんと突きながら、普段通りの大声で話しかけてくる彼を煩わしいと思う。しかし、もしかしたら山田なら何か分かるかもしれないと相澤は顔を上げた。

「なあ、聞きたいんだが」

「んあ? どうした?」

 どう言葉にすればいいか悩みながら、午後から大きくなる違和感を口にする。最初は真面目に聞いていた山田だが、相澤の話す内容にだんだんと意味ありげな含み笑いをしだした。

「真面目に聞いてるのか?」

「聞いてる聞いてるって。それって、あれだろ? なんかいつもと違うから変な感じがするってやつ」

両の人差し指を、ピッと指してきた彼に頷いて肯定すると、山田には何か思い当たることがようで含み笑いがさらに深くなった。

「なら、昨日と何が違うのか考えてみりゃいいだろ?」

「そんなのはさっきからやってる」

 それでも分からないからお前に聞いたというのにと、自分の席の前に立つ山田を不満げに見上げた。ふと、教室に入ってきた風に気づく。柔らかいそよそよとした風に、彼女のことを思い出す。

「そーいや、今日は一年の可愛い子と飯食えなかったなー」

わざとらしく言った山田は頭の後ろで手を組みながら、他へと歩いて行く。その背中を見送りながら、何気なく胸に手を当ててみると、ポケットの中がくしゃっと僅かな音を立てた。彼女がくれた"好き"と書かれたメモを思い出して初めて、今日はまだ彼女に会っていないことに気づく。

(防人に会ってないから……?)

 そんなまさかと思う。確かに、防人に会いに行こうと思ったことはある。しかし、それだけだ。今のように、これほど強い違和感を抱いたことなんかなかった。
 また吹き込んできたそよ風に窓を見る。柔らかい日差しを見ても心が落ち着くことはなく、悩みは深くなる一方だった。

***

 校舎から出れば、強い風に吹きつけられた。思わず目を瞑った瞬間、瞼の裏に自分のものではない綺麗な黒髪がチラつく。頭をよぎったものが信じられなくて首を振る。不意に中庭の方へ視線を向けると、どうしてか彼女がいるような気がした。

「……」

その場に立ち尽くして考えてから、相澤の足は結局、そこに向かうことにした。
 目的の場所では風で木々が揺れている。思った姿はそこにはなかった。置かれているベンチには誰もおらず、ただ静かな空間が広がっているだけ。

(そりゃ、そうだ)

ただの感を頼りにここまで来たことがみっともない。せめてこんなところを誰かに見られないうちに立ち去ろうと、振り返る瞬間、茂みから猫の声が聞こえてきた。声からすると子猫のようだ。つい、どんな猫がそこにいるのか気になって茂みに近づく。子猫を驚かせないように足音には細心の注意を払った。
 そっと覗き込んだ茂みの先に息を呑んだ。そこには思った通り子猫がいた。そして、彼女が眠っていた。

「防人……」

無意識に彼女の名を口にすると、まるで相澤の声が聞こえたように長いまつ毛が揺れる。眠そうに数度、ゆっくりと瞬きを繰り返すと防人は彼の方へ顔を向けた。

「あ。相澤先輩だ」

 とろんとした目で相澤を見つめてから、嬉しそうに笑った防人は首を傾げた。まるで幼子のような仕草だというのに、妙な色気がある。

「……夢?」

「夢じゃない。起きろ」

また眠ってしまいそうな彼女の傍に、我に返った相澤が寄り添うように屈む。こんなところで何をしていたのかと周りを見ると、弁当の包みがそこにはあった。

「お前、昼からここにいたのか?」

「あ、はい。あれ? もしかして授業始まってます?」

大きく伸びをした彼女は目が覚めてきたのか、指で目尻の涙を拭う。

「とっくに終わった。今は放課後だ」

呆れている相澤に防人は苦笑いをしながら頭を掻いた。

「ああ、久々にやっちゃいました」

恥ずかしさでばつが悪そうにしている彼女に相澤の胸が小さく跳ねる。そんな小さな事実から目を逸らしながら、努めて呆れた声を作った。

「久々って、前にもやってるのか」

「あはは、入学したての頃に何度か……」

大きくため息を吐いた彼女が俯く。さらさらと流れた黒髪の間から見える様子から顔を覆っているようだ。

「どうした?」

「だ、だって……」

言い淀む防人を珍しいと相澤は目を張る。指の間から相澤を見る彼女の目元が赤いのが分かった。

「相澤先輩に、恥ずかしいところを見られた、から……」

だんだんとか細くなっていった声は、最後は聞き取りづらかった。防人でもこんなことを恥ずかしいと思ったりするのかと意外に思う。そういった人並みの感情とは別のところで生きているような、そんな印象を抱いていた相澤にとってはちょっとした衝撃だった。
 ふと、彼女の黒髪に何かがついているのに気づいた。どうやら草のようだ。

「防人」

「はい」

顔を上げた防人の髪に向かって手を伸ばす。この行動には他意はなく、親切心で髪についたゴミを取ってやろういう気持ちだけだった。そのはずなのに、目の前の彼女を見ると自分が物凄く大胆なことをしたのではないかという気分にさせられる。

「……ゴミ、取っただけだぞ」

「う、あ……」

声にならないような声を出した防人の顔は先ほどとは比べものにならないほど真っ赤になっている。先日、キスの方がよかったかなんてからかってきたことが嘘のようだ。

「こ、っち、見ないで……」

顔を背けた防人の黒髪から覗いた耳が真っ赤に染まっている。初めて見た彼女の顔をもっと見たい。無意識に動いた相澤の手。その手にゆっくり引かれて二人は正面から向き合った。

「相澤、先輩?」

赤い顔と潤んだ目で見上げてくる防人を、相澤は初めて可愛いと思った。

「にゃおん」

 聞こえてきた幼い猫の声に二人はハッとして視線を外す。まだ赤い顔で防人は胸の前で両手をきつく結んだ。

「その猫……」

「あ、ああ! この前ここで初めて会ったんです」

彼女がおいでと声をかければ、赤い首輪をした黒い子猫は素直に近寄っていく。

「この近所に住んでいるみたいですよ」

赤みの残る顔で微笑んだ彼女に喉をくすぐられた子猫が嬉しそうに擦り寄る姿は、とても和む。不意に顔を向けてきた防人は相澤の顔を見ると、瞠目してすぐに微笑んだ。

「なんだ?」

「いえ、相澤先輩が笑ってるのが嬉しくて」

さあ、っと吹いた風に、葉擦れの音がさざ波のように押し寄せる。髪を押さえる防人の膝で鳴く子猫。

(……?)

 妙な既視感に首を捻る。黒い猫と防人がじゃれている様子に何かを思い出しそうだ。

「相澤先輩」

考え込む間に俯いていた相澤の顔が上がる。明るい笑顔の防人が子猫を抱きながら見上げてきていた。

「好きです」

 初めて会ったときよりも、その言葉が相澤の胸に響く。今日、ここに来る前に頭をよぎったものを認めざるを得ないくらい深く響いた。

(俺は、防人のことが気になるらしい)

いつものように笑っている彼女の頬がまだ赤い。それがまた可愛らしく思えて相澤は口元に笑みを引いた。

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