ラブ/レスぱろ。
続きません?






「おれは、おまえのサクリファイスにはならないよ、」




真っ白い部屋の真っ白いベッドに横たわり、青白い顔で空色の瞳から透明な涙を溢す彼は、酷く美しかった。健康的とは言えない、少し痩けた頬を涙が伝い落ち、白いシーツに小さな染みを作る。ひび割れた硝子細工、アンティークのお人形。どこか無機質な、消えていく、終わり行くもの特有の危うさ。繊細で、何処も彼処も安易に触れれば折れてしまうことが予想できる程、脆く、儚く。僅かに色づいた薄紅色の唇が開くだけで、壊れてしまうのではと不安に襲われる。けれど、彼を止めることはしない。ぼくは彼を止められない。
だって、彼はぼくに話している。
ぼくに、ぼくだけに言葉をくれている。
ああ、自分の呼吸が邪魔だ。無駄に大きく強く響く鼓動も煩わしくて仕方がない。彼の全てを捉えるための妨げでしかない。頭の上の耳がぴくりと動き、神経が耳に集中する。彼のどんな小さな、消え入りそうな声でも、呼吸音の一つも聞き逃しはしない。今日この日を、何度夢見て、巡り会わないことに絶望したのだろう。浮き出た名前。ぼくがひとりではないという証。でもぼくはそのときまだひとりだった。
いつか必ず、サクリファイスと戦闘機は巡り会うのだという。名前に、運命に引き寄せられるように。誰にも代えられない、唯一の人が現れる。いつ出会えるのかはわからない。ぼくだけの人。そうしてぼくも誰かの特別に、唯一になれる。なのに、運命は中々やってこなかった。ひとりではない証を独りで眺めて、まだひとりぼっちだったぼくは、未だ訪れない運命の相手を待って、待ち続けて、もしかしたら一生現れないのではと恐怖と孤独に震えた。


ずっと、彼の声が聴きたかった。
ずっと、彼の姿が見たかった。
ずっとずっと、彼に会いたかった。


こんな感情は、他には知らない。
彼と出会う前の日々など忘れてしまうほど。彼と出会う前の日々など、取るに足らない、意味のないものだったのだと思い知らされた。彼のいない時の、喜びも悲しみも苦しみも無価値に等しかった。楽しくても嬉しくても悲しくても辛くて、どこか他人事で、空っぽだった。何かが欠けていた。今に比べれば、全ての感情が只の紛い物にすぎなかった。彼に会う前のぼくはもういない。全感覚感情は塗り替えられ、支配される。でも、恐ろしくはなかった。感情も感覚も彼が与えてくれる。彼なしでは感情も感覚も存在し得ない。これを喜びと言わず、なんと呼ぶのか。支配も絆も変わりはなかった。ぼくと、彼を繋ぐもの。それだけ。それだけあれば、他に必要なものなんてない。


彼がぼくに言葉をくれた。なんて嬉しい。
彼がぼくを拒絶した。なんて悲しい。



この泣きたくなるくらいの喜びを、突き刺さるような痛みを。
与えてくれるのは、彼だけ。
まだ目には見えない、ピアノ線のように細い絆でぼくたちは繋がっている。言葉で、感情で、感覚で、彼を捕らえしまいたい。この感情が、ぼくと彼を絡めとる太い鎖へ変わればいい。二度と、離れることなどないように。




「・・・それでも、ぼくはあなたの戦闘機ですよ、」



わかるでしょう。
そっと彼の随分と小さな骨の浮き出た手を取り、胸に当てる。手は、冷たかった。肉の付いていない、皮と骨だけの手に憐憫を誘われるよりも、愛おしさが勝る。彼も、ひとりだったのだろうか。こんなに小さくて、細くて、いろいろなものを削ぎ落とされて。ひとりきりで、生きてきたのだろうか。手は振り払われることはなく、彼はじっとそこを見ている。薄いシャツ一枚を隔てたそこに、ぼくと彼の証はあった。細く鋭利な爪がそこに立てられ、もどかしいような僅かな痛みを感じる。確かめているのか、試しているのか。暴きたいのか、隠したいのか。
ぼくは彼の名前をまだ知らない。でもぼくは、僕らの名前を知っている。



「ねえ、お名前を教えてもらえませんか?」



表情無く涙を流す、人形のような美しい顔がくしゃりと歪んだ。泣き出す寸前の顔。ぴしゃりと伏せられた髪の毛と同色の耳は震えていた。乾いた唇が戦慄き、嗚咽と共に奥底から絞り出したように小さな声が漏れる。涙で膜を張った瞳は湖畔を思わせた。空を映した水面が揺れて、大粒の涙が零れる、と認識したのと同時に自然と腕が動き、彼の頬にそっと手を添えた。ひくりと反応して目を見開いた彼の涙を傷付けないようにやさしく拭う。彼の声はとても小さくて、掠れた、普通だったら聞き逃してしまうようなものだったけれど。ぼくと彼に、普通は当てはまらないから。ぼくは、彼を“普通に”なんて扱えない。今も、これから先もずっと。彼が特別なのは変わらない。誓いではなく、確信。ぼくと彼はまた一本、きらきらとしたピアノ線で繋がった。


「…ぼくは、那月です、四ノ宮那月。………ありがとう、しょうちゃん、」


あなたにあえて、よかった。
彼の手を引いて、そのまま抱き締める。彼の体は小さくて、小刻みに震えていた。また泣いていたのかもしれない。人形のようだと思った彼の体は抱き締めると、ちゃんとあたかくて、自然と涙が流れた。だいじょうぶ、しょうちゃんはちゃんと生きている。あったかくて、しっかりと息をして、今、ここにいる。抱き寄せた体からトクトクと伝わる心音が愛おしい。よかった、よかった。もうひとりじゃないね、ひとりじゃないよ。ぼくも、あなたも。