なっちゃんとゆいちゃん







風があたたかい。
土手にはたんぽぽやシロツメクサ、小さな菫、名前のわからない華奢な花や草などが茂っていて、緑の絨毯に白、黄、薄い桃色や青が色を添える。なだらかな傾斜の地面に直接座り込み、息を深く吸い込むと、緑と、それから水の匂いがした。川近くの歩道では大きな犬を連れた女性が犬に引きずられがちに歩いているのが見えた。
少しだけ離れたところで、たくさんのシロツメクサに囲まれて、唯は服が汚れるのも気にせずに座り込んでいる。陽の光で唯の蜜の色をした髪がきらきらと光っていて、眩しさに目を細めた。日差しは暖かくて、暑いという程ではないけれど、そろそろ帽子が必要かもしれない。唯の肌が焼けでもしたら大変だ。
真剣な顔で、小さな手を必死に動かしている唯を見ると、口の端が緩まり笑みが零れる。
花冠を作りたいのだそうだ。
この間、母親に作り方を教えてもらったのだと、唯は手元に咲いていた花を何本か摘み取って編みはじめた。はじめてのそれは、すぐにバラバラになり、頭に乗せる前に跡形も無く壊れてしまった。もう一度と、再び組み直しても結果は同じで、また緑の上にバラバラに散り、戻っていく。
つくってあげようか?と声を掛けても、いい!と悔しそうに断られてしまった。唯はまた一人で花を編もうとするけれど、やはり冠の形にはならない。黙って見ていられなくて、手を伸ばせば、わたしひとりでつくりたいの!と拒否されて、遂には向こうへと行かれてしまった。追いかけようかとも思ったが、目が届かない程離れてはいなかったし、しつこくすれば、唯は本気で怒りだしてしまうかもしれない。寂しくて落ち着かないが、大人しく同じ場所に座って唯の気が済むのを待っていた。退屈な平穏だって、とても愛しいものだとわかっている。天気は穏やかで、真っ青の空には大きな雲がいくつかと、飛行機雲が長く白く線を引いていた。

花冠が欲しいなら、僕が作ってあげるのに。
普段から、お前は唯を甘やかし過ぎると、唯の父親であるところの翔に怒られてしまうけど、そんなの仕方がないことだ。だって、唯に対してしてあげられることなら全てしてあげたいし、例えできるかわからないことでも唯の為ならなんでもしてあげられるように思える。唯は那月の恩人で、小さなちいさな神様だから。実らなくても捨てられなかった恋を終わらせてくれたのは唯。それだけじゃない、唯は音楽も与えてくれた。
唯といると音楽が溢れる。それは唯と出会う前の、人を圧倒し、近づくことを躊躇わせるような孤高のものでなく、柔らかくあたたかでひっそりと人に寄り添うようなもの。かつての苛烈さや激しさは形を潜めて、随分と穏やかになった。昔の方が素晴らしかったと言われてしまうこともあるが、那月は今の自分の音楽を気に入っていた。どちらも自分のものであることは変わらず、大切なものであるけれど。叫ぶように唄い、天才だ、素晴らしいと遠巻きにいられるよりも、静かに、そっと寄り添い、ひとりじゃないのだと言ってあげられるような歌を唄いたかった。
そんな風に、なりたかった。
そんな人を、求めていた。

勝手に天才だから、自分たちとは違うからと、人々は那月を置き去りにしていく。輪の中心に立てたとしても、その中には決して入れない。音楽を捨てたのなら、変わったのかもしれないが、捨てたとしてそこに何が残るというのか。音楽を捨てた自分は今度こそ、誰にも必要となんてされなくなるんじゃないのか。それが怖くて、ひとりになりたくなくて、歌を唄い、曲を作り、楽器を奏で続ける。音楽を本当に愛していたのかはわからない。だって、それしかなかったのだから。
はじめて、そんな那月に手を差し伸べて、救ってくれたのは翔だった。翔にしたら、大したことはないこと何でもないことでも、那月にとっては大したことだった。ずっとずっと、憧れて焦がれて、でも諦めようとしていたことを、翔は那月に与えてくれた。翔と友達になり、日々を過ごして、友情が恋情へよく似たものへと変わった。刷り込みみたいなものだと、思うこともあるけれど。那月の中で、大切で、大事にしたいということには変わらないのだからそれでも構わない。
翔が大切で、大事で、誰よりしあわせになって欲しかった。それが自分の手によるものではなくても。自分の恋が叶わなくても、翔がしあわせならそれでいいと想ったのは本当だ。翔の傍で、翔の幸福を見守ることが自分の幸福でもあると。なのに寂しさも孤独も無くなりはしなかった。那月は二人の傍で、またひとりになった。また、那月の元には音楽だけが残った。そうして、好きなのかもわからない音楽にただひたすらにのめり込む。他に、ないから。ひとりは嫌だと、心は悲鳴を上げる。寂しくて苦しくて、どうして自分がこんなことをしているのかわからなくても、続けるしかなかった。苦しくて堪らなくて、たったひとつ残った音楽でさえ、嫌いになってしまいそうだった。
でも今は、胸を張って音楽を愛していると言える。歌を唄うのも、曲を作ることも、楽器を奏でることも好きだと言える。それは、唯に会えたから。もう、今はひとりじゃないから。
だけど今でも、少しだけ怖くなることがある。また、ひとりになるかもしれない、遠くない未来に怯えて。唯もいつかは誰かを愛してその人と生きていくのだろう。唯のしあわせは、自分のしあわせ。それはかつての自分と変わったと言えるのだろうか。またただ同じことを繰り返しているだけじゃないのか。唯のしあわせは、那月のしあわせで、でもそうしたらどうしたらいいんだろう。ひとりは寂しい。しあわせでも、さびしい。唯と過ごす時間は、あとどのくらい残されているのか。わかりはしない期限に途方にくれる。


「はいっ!」
「……え、?」


ぱさっと頭の上に何かが乗せられる。目の前にはいつの間に近付いたのか、どうだ!と言わんばかりに腰に手を宛ててこちらの反応を窺っている唯の姿。のせられたものを、恐る恐る降ろすと、小さな花冠だった。小さくて、ところどころ形が崩れて、歪な形をしてはいるけれど、ちゃんと花冠になっている。わたしひとりでもつくれたんだからと笑ってる唯を見て、口元が自然と緩む。すごいねと頭を撫でて、その花冠を小さな頭に乗せようとすると、腕を伸ばして拒まれた。

「どうしたの?せっかくできたんだから、唯ちゃんがかぶらなきゃ」
「いいの!」
「どうして?」
「それはなつきにあげようって、つくったんだもん」


いつも、あそんでくれるおかえし。だからひとりでつくったんだよ。なのになつき、てつだおうとするし……。
頬を徐々に膨らましていく唯に、座り込んだまま抱き付く。うわぁ!と驚いて、わたわたと身を捩って逃げようとするのを、離さないようにきゅっと抱き締める。もちろん、小さな体は傷つけたりしないように。そのままの状態で黙ったままでいると、なつき?と逃げることを諦めた唯が声を掛け、恐る恐ると言ったように頭を撫でてきた。いつもとは逆の立場に少し、可笑しくなる。いつもこうやって頭を撫でるのは、那月の方だったのに。小さな手がゆっくりと髪を撫ぜる感触がきもちいい。

「もしかして……いらなかった?」

不安そうな声が聞こえて、ううんと首を横に振って、漸く顔を上げる。唯の真っ青な瞳とばっちり見つめ合う。唯の大きな瞳にはしっかりと那月の姿が映っていた。自分よりずうっと小さな唯を下から見るのは、不思議な光景だった。そのあおい目に、彼の面影を重ねることが
少なくなったのはいつからだろう。寂しさは薄れて、代わりにあたたかさや、懐かしいような気持ちを抱くようになった。これも、唯がくれた大切なもの。唯にしか、与えられないものだった。


「……ううん、ちょうだい。唯ちゃん、ありがとう」
「…どういたしまして!」



不安そうな顔から一転、花が綻ぶというのがぴったりな笑顔へと変わる。もう一度ちゃんと抱き締めると、唯は嬉しそうに体を摺り寄せてきた。子供の特有のあまい匂いと、それから長い間座り込んでいたからか、緑と花の匂いをふんわり感じる。目を閉じたって、感触で、匂いで、唯だとわかる。だから、もう怖くはなかった。

ありがとう、唯ちゃん。
僕はもういっぱい、もらったよ。お返しなんて、しなくちゃいけないのは僕の方。唯ちゃんは、花冠が欲しかったんじゃなかったんだね。僕に、くれようとしてたんだね。ありがとう。ありがとう、唯ちゃん。何回言っても何百回言っても足りない。いつもいつも、僕は唯ちゃんにもらってばかりいる。もらってばかりで、僕ばっかり幸せで。それで怖い、なんてばかみたい。こんなに、しあわせにしてもらっているのにね。唯ちゃん唯ちゃん、ありがとう。産まれてきてくれて、ありがとう。あなたに出会えたこと、すべてに感謝を。



「……のせてくれる?」
「うんっ」


膝を着いて腰を下ろし、花冠を唯に渡す。それを受け取って、目の前に立った唯がそっと再び那月の頭に花冠を被せた。花が一本だけ、ほろりと取れてしまったが、花冠は崩れない。抜け落ちた小さな白い花が同じくらい小さな白い掌に乗せられる。もう一度挿し直そうとした唯を制して、唯の髪の毛にそれを挿した。金色の髪の毛に、ひっそりと白い花が咲いた。唯は一瞬きょとんとしてから花に気付いて、風が吹くと慌てて飛ばされないように花を押さえる。強い風が周りの花を揺らして、花びらが何枚も舞い上がった。風が止むと、唯がゆっくりと髪の毛から手を離す。白い花は変わらずに、唯の髪に挿されていた。
おかえし?
唯は笑ってそう言った。