わたしは気付いていました。
なのに、何も知らないフリをして、綺麗に醜く偽って、彼の隣で笑っていたのです。
わたしはずるくて卑怯で、弱さを言い訳にして甘えていた。だから、自分から、手を離すことも、前に進むことも出来ませんでした。いいえ、しようとすら、思いつきはしなかったのだと思います。
傷つくことを知っていたのに。傷つけることも知っていたのに。表面上を必死になって取り繕って、内側はどろどろと本当は淀んで醜く渦巻いていた。彼の優しさに触れる度、強さに守られる度、それには値しない存在の癖に、と奥底から声が聞こえて。震えながら小さく丸まり、縮こまっていると、やんわりと耳を塞いでくれたのは、壊れそうになるほど傷ついた、わたしが傷付けた人でした。


"あなたは何も悪くありませんよ"


きょうも、卑怯な私は祈ります。
自分のことを、彼のことを、そうして優しすぎるあの人のことを。

ーーーどうか皆が、しあわせになれますように。







15歳の時に憧れの早乙女学園に入学して、奇跡でも起きたのか、一番上のSクラスへと入ることが出来、膨大に出される課題や、テストなどに奮闘しながら、楽しく、充実した時間を過ごしていました。
そうして、わたしははじめて、恋をしたのです。
相手は同じSクラスでパートナーとして一年を共に頑張ることとなった、アイドルコースの来栖翔くん。
彼は小柄で可愛らしい外見をしているけど、努力家でしっかりしていて大人で誰より強くて優しい、それはそれは素敵な王子様みたいな人で。わたしはそんな翔くんの家来として、友人として、何よりパートナーとして、傍で時を過ごすことになりました。
素敵な王子様の傍で過ごすうちに、当たり前のように彼に惹かれていって。村人Aにもなれないようなわたしが彼を好きになるのは、不相応なことであったけれど、簡単に止められるようなものでもない。そもそも早乙女学園には恋愛禁止の校則があり、破れば退学という厳しい処分が科されていたので絶対に表に出してはいけないものでした。
彼はきらきらと輝いた、アイドルに、みんなに愛されるために生まれてきたような人だから。万が一でも、彼の夢を壊すようなことを、パートナーであるわたしがしていいはずがない。
はじめから叶うなんて思えなかった、ずうっと奥の方に秘めて隠していた恋です。叶うかわからなくても、はじめての恋は、きらきらとしたわたしの小さな大切な宝物でした。恋心を必死になって仕舞い込んで彼と過ごす賑やかで忙しい日々は、楽しくて甘くて、時々苦しくて、痛くて堪らないこともあったけれど。私が笑えば、彼がお日さまって言葉がぴったりの笑顔で返してくれる。それは総じて、気持ちと同じくらい大切な、しあわせなものでした。ずっと続けばいいと素直に願えはしなかったけれど、もう少しだけこの優しくて暖かい泥濘の中に浸っていたい、そんな風に考えて。わたしは僅かに苦い、幼い恋に溺れていました。
飽和的なしあわせな日常の中で、気が付いたのはただの偶然だったのかもしれません。

偶々、彼が其処にいて偶々、あの人を見たから。偶々、彼のことを考えていたから。
いくつかの偶然がタイミング良くか悪くか重なって、一つの答えがふわりと浮かんだら。今までのことがパズルのピースみたいにぴったりと嵌まり収まります。今まで気が付かなかったのが不自然であるかのように、自然にたったひとつに行き着きました。
王子様、来栖翔の同室でライバルで親友の、四ノ宮那月さん。可愛らしいもの好きとマイペースな行動で有名な四ノ宮さんは、小さくて可愛らしい翔くんを特に気に入っていて。姿を見つければ名前を呼んで、抱き締めたり、抱き上げたり、写真を撮ったりとその溺愛っぷりは半ば名物と言っても良いほどでした。それらの行動を翔君は嫌がることはするけれど、根本的なところで拒絶はせず、受け入れている。口ではなんて言ったって二人は結局とても仲がいい。そんな二人のやりとりを、わたしを含めた周りの人々は微笑ましく見ていました。
その四ノ宮さんは外にいる翔君を見つめていて。ふわりとこちらが暖かくなるような微笑みも含めて、それは普段と変わらないことに思えるのですが。柔らかで甘やかな緑の瞳が翔君を捉えている。口元はゆるりと嬉しそうにほころんでいる。
だけど僅かに、混じっていたのは。愛しさ、微笑ましさの中に垣間見えた表情は。きっと、切なさ、と呼んでいいもの。わたしは、それをよく知っている。似ていて、でも全く形の違うものを知っている。だって、それは。


「四ノ宮さんは、翔くんのこと、」


続くはずの言葉はやさしい指の感触に阻まれてそれ以上は許されませんでした。しーっと口が開かないようにと唇に触れた指先は固くて、長さも形も違う筈なのに、バイオリンを演奏する彼の指とよく似通っている。そんなことを思えば、ただただ微笑んでいるばかりの四ノ宮さんが目の前にいました。慈しみしか感じられない、とろりとしたやさしい瞳。長い睫毛と相まって、まるで穏やかな草食動物のような。
わたしはきっと酷い顔をしていたのでしょう、四ノ宮さんはちょっと困ったような顔で笑ってふわりとわたしの頭を撫でました。普段、翔くんにするのとは違った羽のように軽いもの。その違いを想って、涙が溢れそうになります。だけど、わたしが、泣いてはいけない。だって、わたしはちゃんと知っている。それは、可哀想でも、哀しいことでもない。痛くても苦しくても、とても、とてもしあわせなものであるから。


「…………ひみつ、ですよ?」


ねえ、春ちゃん。
初めて名前を呼ばれて。その声はやさし過ぎて。この人は、とてもやさしい人。甘くて柔らかくてふわふわとした幸福の形をしたやさしい人。こんな人にはしあわせがよく似合うのでしょう。こんなにやさしい人がしあわせにならないなんて、そんなの酷い、とおもう。おかしいともおもう。
でも、わたしはどうしたって。
この人のしあわせを願うことが出来ないのだ。

再び優しすぎるテノールが私の名前を呼ぶ。わたしは顔を見せないように頷いて、頭を撫でる感触に目を閉じて身を任せました。










わたしの恋が実ったのは、それから数ヵ月後のことです。