「……きれいですね」


木を、空を、見上げながら那月は言ってふいに立ち止まる。
手を繋ぎ一緒に歩いていた私も必然的につられて立ち止まった。
うんと高いところにある那月の顔は上を向かれてしまうと、頑張ったって腰の辺りぐらいしかない背丈では表情を窺うことすら不可能になる。さの言葉は、雲一つない空へ、それとも散り始めている花に向けられたものか。それともそれ以外の何かへだったのか。何も言わずに、上を向いている那月は、相変わらず表情を見ることは叶わなかったけれど、泣きそうに、寂しそうに見えて。どこか遠くを見ているようで。どこか遠くに行ってしまいそうで。
どうかしたのかー?と、前を行く、父の声にはっとしたように那月が前を向く。随分と距離が開いてしまっていた。那月は一瞬、眩しそうに目を細めてから、それからゆっくりと笑う。


「いきましょうか」

その言葉に強く手を握り返せば、少し急ごうかとふわふわ笑う那月。私に向けられた表情も声も、まるでいつも通りだったけれど。あれは、確かに。父を見る那月が滲ませたものは、紛れもない、いとおしさ、だった。
これは、これが、はじめての。









小さな、小さなときの記憶。今でだって、小さい、と言われてしまう私だけれど、あれはまだ私がこどもだったときの記憶。私はきっとあの日に、只の子供ではいられなくなった。大人になったわけじゃない。でも子供ではない。小さな、何も知らない、無知で無邪気な子供ではいられなくなった。
那月は父さんと母さんの学生時代からの友達で、家にもよく遊びに来ていた。他の友達や親類よりも、那月は頻繁に家を訪れていて、唯ちゃん可愛い!と、私を猫かわいがりし、思い切り抱き締められたり、追い掛け回されたり。ふわふわと柔らかく笑う那月と、ときに騒がしく、ときに穏やかに過ごして。そのころは、他の大人たちに向けるように、或いは父や母に向ける様に那月のことが好きだった。
母と穏やかにお茶を飲み、父に私にするのと同様のことをして怒られる。大人なのに子供みたいな那月と過ごす時間は、穏やかで平和で、あたたかくて楽しかった。
だけどどうしても、違和感とも言えない、胸をざわざわとさせるような不思議な感情を抱かずにはいられなかった。

例えば、父に、可愛いと言って怒られているとき。
例えば、母と父が話しているとき。
例えば、私の頭をゆっくりと撫で、顔を見たとき。
ふわふわとした笑顔に誰にも気付かれないような、陰を差して。痛みに耐えているような、苦しみを抑え込んで一人耐えているような、寂しそうな顔で。どうしてそんな顔をするのか、まだそのときはわからなかった。どうかしたのかと聞けば、どうもしないよとまた笑う。私はその顔が見たくなくて、見ていられなくて、那月に抱き付いて顔を隠す。逆にどうかしたのと問い返されても、何も言えずに顔を押し付けるだけ。唯ちゃん?と降りてくる声はやさしくて、あったかくて。小さな子供であった私は、持て余した感情をどうすればいいのかわからずに、撫でられる頭の感触に身を委ねた。





「なつき、だいすき」



体いっぱいに抱き付いて那月を捕まえる。ありがとう、僕も唯ちゃんが大好きですよと優しく笑う那月。

ちがう、そうじゃない。
そんな簡単に与えられるものが欲しいわけじゃないの。

那月は私をまだほんの小さな子供だと思って真剣には見てくれない。聞いてくれない。どうせ大人になったら、忘れてしまうとでも思っているんだろう。暖かい手のぬくもりは子供の私だけが手に入れられるもの。無条件に与えられるもの。私が大人になったのなら、当然のように手を離して、そうしてやさしく、少しだけ寂しそうに笑うのでしょう。私は、もうそんな顔、見たくはないの。しょうがないって諦めた表情をさせたくないの。私は今、ここにいるんだよ。忘れてしまえるような、そんな簡単な言葉でも、気持ちでもない。何も知らないおんなのこはもうどこにもいないのだから。


いつまで、一人ぼっちでいるつもりなの?


私はもう子供ではなくて、手だって離すつもりはない。信じてもらえないなら何度だって言ったあげる。好きだって、ずっと一緒にいるよって。あなたが子供の私をどこかへやってしまったんだから、ちゃんと、責任をとってほしい。
はじめて、あの感情の存在に気付いた瞬間。本当は今までずっと持ってきていて、漸くそれに名前を付けることができた時。何もかもが変わっていった。見える景色も、自分自身も。目に入るもの、体に触れるもの、聞こえるもの、全てが特別になった。変えたのは那月。あそこで変わらないのなら、女に生まれた意味がない。好きにならずにはいられるわけがない。
恋に落ちたら、こどもでなんていられない。那月もはやく気付いてしまって。愛するばかりで、愛され方を忘れてしまった愛しい人。一人の時間はもうおしまい。わたしに、大人しくあいされてしまえばいいの。ぜんぶ、私を変えた那月のせいなんだから。
わたしが絶対、しあわせにしてあげるから。
だからはやく私を愛してしまってね。