卒業式には出なかった。
窓の外からは距離的に無理があるから消えるはずはないのに、校歌斉唱が聴こえてくる気がして机に突っ伏して聴覚を塞ぐ。入学式に歌詞カードを見つつ、なんとか唄った歌は、漸く三番まで覚えたと言うところで、唄う機会を失ってしまう。まだ今の俺では一番がやっとのところで。淀みなく最後まで唄えるだろうあいつの姿を想像して、その差を想っては鈍い痛みに悩まされ、視界すらも遮断した。
そういえば、那月の席に座ったのははじめてかもしれない。もうおそらく那月が二度と戻ってはこない、那月の教室。那月も、そのクラスメイトも誰もいない。当然だ、今まさに彼らが主役の式典の真っ最中なんだから。この教室に俺の居場所はないけれど、見知らぬと他人事を装うには馴染み過ぎた。
はじめからわかりきっていたことだ。
那月が二年早く高校に入学して、俺が二年遅く入学した時点で、順当にいけば向かえる一つの必然。春に普通ではない出会いをして。夏に恋心を自覚して。秋の終わりに、付き合い始めて。そうしたら冬は?付き合って、一緒にいて、冬に待っているものは?那月は三年生で受験生。俺は一年生で新入生。一緒に居られる時間は一年より限られた時間だけ。天然なくせに天才で成績優秀な那月は大学なんて選びたい放題で9月にはもうどこにいくのかは決まっていた。日帰りで行けなくはないけれど、ここからは決して近くはないところ。決まっていたから、時間があったから、一緒に居られた時間がたくさんあったのだけど、その分だけ、


ーーー恐い。


一緒に居たから、離れている時間を知らない。ほんの一年前までは、那月のことを知らずに普通に過ごせていたはずなのに。今ではもうその時の息の仕方さえ思い出せそうになかった。離れるのは、恐い。置いて行かれるのが、恐い。離れている間に、変わってしまったら?想いも心も脆くて、移り変わるものだから。相手のことは信じていても、離れられない自信が、好きでいてもらえる自信が、あまり、ない。だってきっと那月の見える世界は拡がっていく。この場所がちっぽけな箱庭だったと思えるぐらいに。それはきっと喜ばしいことで、素敵なことのはずなのに嬉しいだなんて欠片も思えなかった。
目前に迫った別れが怖くて、不安で堪らなくて、那月を避けていた。もう何日も話すことはおろか、メールも電話もしていない。声を掛けられそうになったり、メールも電話もくるけれど、全てを拒絶して、逃げて。自分でも馬鹿みたいだと思う。離れるのが恐いと言いながら、自分から距離を置く。呆れた矛盾と逃避。いつまでもそんなこと続けられたら、そんな馬鹿みたいな愚かしいことする必要がないんだから。甘えるな逃げるな立ち向かえ前を向け。でも、こんな顔を見たら那月はなんて思う?重荷に思うんじゃないんだろうか。それこそ置いて行こうと思ってしまうくらい。だからせめて、笑っておめでとう、が言えるまでは那月と会わないって決めて。安心して、那月が卒業出来るようにって。
それでも、結局卒業式の日、那月がこの学校にいる最後の日、までに覚悟が決まらなかった結果、一人でここで蹲っている。漸く顔を上げて、まどの外を姿を隠しつつ覗けば、ぞろぞろと人が体育館から出ていく。終わってしまった。残念ながら2.0ある両目ははっきりとその光景がよく見える。泣いているらしい人、それを慰める人、写真を撮る人、抱き合っている人、仲間内で笑ってる人、花束を持った人、人、人、ひと。那月もあの中にいるんだろうか。ひとりで?それとも誰かと?
那月を探そうと身を乗り出そうとすれば、調度見計らったように鳴り出す着信音。このタイミングで鳴り出せば、ディスプレイを見なくても誰かなんて予想が着いてしまって、直ぐには取り出せない。なんとなく、ではなくて絶対。予感と云うよりは予知と言っていい。いつだって、あいつはここぞと云うところは外さない。着信音は一分を過ぎても鳴り止むことはなくて、逃げ、なんて甘いこと許してくれるやつじゃないか、と恐る恐る通話ボタンをゆっくりと押す。聴こえてきたのは機械を通したって変わらない、期待通りで期待外れの穏やかな声だった。


「翔ちゃん、今どこですか?」
「…………ガッコウ」
「…校舎裏まで、来てくれますか?」

お待ちしています、とだけ言ってぷつんと通話は切られ、通話終了の虚しい音がやけに頭に響く。挨拶も了承も抜きで用件のみ。あいつらしくなくて、でもそれが当然なんだろう。悪いのは、逃げたのは、俺だ。

やっぱり、恐い。でも、行くしかない。
那月の教室を後にして、この教室に入ることもきっともうないんだということが寂しかった。














「…………よぉ、」
「……翔ちゃん」

桜は嘘でも満開だなんて言えない程度、咲いてると表現するのが間違っていると疑うくらい、僅かにささやかに咲いていた。表の笑い声だとか泣き声には似合わないだろうけど、今の俺たちにはこれでも不相応と感じずにはいられない。声を掛けたがいいが、まともに那月の顔を見れなくて帽子を深く被り、顔を地面へと向ける。震えないようにと気を付けてはみたけれど、出した声は情けなくて、それ以上何も言えない。本当は下を向いたら、そのまま重力に従って液体がほろりと零れてしまいそうだった。泣きたく、ない。いや泣いてもいいけれど、那月の前では泣きたくない。

だって、もしかしたら、見られる最後になるかもしれない顔が、ぐちゃぐちゃの泣き顔だなんて、最悪だろう?

那月は最初にぽつりと言ったきり黙ったままだった。こちらを見ているのか本当のところわからないけれど、視線は痛い程感じる、否那月の目の前に立っていることが痛いからそう感じるのか。那月は、怒っているだろうか。呆れて、いるだろうか。勝手に避けて。薄情だと、憤るのかそれとも、もうどうでもいいと、関係がなくなるのだからと何も感じていない?恐い恐いこわい。嫌なことしか、最悪のことしか考えられない。いつから、女々しくなったのか、そんなのわかりきっている。秋には当然のように、夏にはもう大分、春でもきっともしかしたら。
卒業おめでとう、元気でやれよって笑って言えばいいだけなんだ、そうしたら。綺麗な、若いと言うよりは青い時の、一つの思い出として、残れるはずだから。でもそんなの、嫌なんだ。一緒に居たい、離れるのが恐い。俺は何も言えない。那月も何も言わない。もしかして、さようならって、別れようって、言われてしまうのか。勝手に避けて、逃げて、楽しかったことを、優しい時間を台無しにするようなことを最後にしてしまったから。顔を上げようにも今にも涙が目蓋の裏から溢れだしてしまいそうで。けれど、どうせ最後になってしまうなら。酷い顔を晒しても、那月の顔を見ておきたい。だけど覚悟がなかなか決まらなくて、ゆっくりと顔を上げようとしたら、急に風が吹き帽子を慌てて押さえる。それから空気を震わしたのは、いつもより少し掠れた、それでもこの先、これだけはずっと変わらないと信じられるような穏やかな声だった。




「……連絡、待ってます」
「うそ」
「迎えに行くから…………待ってて、」



顔を上げれば、付き合い初めてからも、出会ったときからも変わらない春のあたたかさを連想させるような笑顔で。一気に我慢していた涙と、感情が溢れて直ぐに抑えきれなくなる。ひっきりなしに出てきそうになる嗚咽をなんとか縛り付けて、那月の顔を見た。

卒業、おめでとうございます、


なんとか絞り出した言葉は震えてて、涙混じりで、情けなくて、笑ってしまった。那月もありがとうと笑いながら泣いていて、その顔を見
ていたらおかしくて、また笑って。二人して向かい合って馬鹿みたいに涙を流しながら笑っていた。














ご卒業おめでとうございます。
今年、卒業生の方々に捧げます。
20120303