06.下校




ずっとまえからもっていた





那月が目の前に来ている。顔を上げなくたってわかってしまった。なにか、話さなくては。用事があるって、一緒には帰れないって言ったのに、こんな所にいる理由、とか。用事なんか、別になかった。ただどうしてもひとりになりたかっただけ。那月とどんな顔をして並べばいいのかわからなかっただけ。翔ちゃん?とずっと聴いていたくて、今、一番聞きたくなかった優しいテノール。なんでもない、ちょっと先生に用事頼まれて遅くなりそうだったから、でも早く終わったんだ。笑ってそう言えばいいだけだ。そうすれば、きっといつも通りに戻れる。また明日から一緒に帰ればいい。つまらない嘘を吐いたことなど忘れしまって、なかったことに。



「……あのさ、二人きりで帰ったりお昼食べたりすんの、やめないか?」



なのに口が勝手に動いて全然違う言葉を吐き出した。望んでいないのに、自分でも望んでいない筈なのに、声に出した瞬間。今まで通りでいたいと思う自分と、今のままでいたくないという自分、どちらが勝っているのか気付いてしまった。ああ、私は。今まで通りじゃいやなんだ。なんとなく気まずいとか、避けてしまったとか、那月が誰かといるのが嫌だとか。そんな感情とイコールで結ばれるのはもう一つしか思い当たらない。なのにこのまま幼なじみって身分に甘えて、一緒にいることに耐えられそうになかった。一緒にいたい、離れたくないとは勿論思うけれど、この感情をちゃんと受け止めて、受け入れるために少し、距離を置きたい。このままだったらきっと解らなくなってしまうから。芽生えたものを気付かないうちに枯らしてしまいそうだから。実るかわからないものだとしても。なかったことには、できない。
那月はなんて答えるんだろう。自分から切り出した癖に顔を見るのが怖くて顔を上げられなかった。
答えを聞きたい。
答えを聞きたくない。
どちらも疑いなく弱い心の本音。寂しがり屋なあいつだから嫌だって言うだろうか、それともあっさり了承してしまう?私じゃなくても別に大丈夫だって。距離を置きたいと言ったのは紛れもなく私なのに、手を離されるのは怖くて仕方がない。自分からは離そうとしているのに、離されたくはないなんて我が儘、勝手過ぎる。自分のこと、ばっかり。私、こんなに嫌なやつだったんだ。



「………音也くんがいるから、ですか、」
「…………え?」

肯定が否定か、どちらだとしてもきっと心を抉る痛みは伴うからと耐えるように目を瞑った時、聞こえたのは全く予想しなかった言葉で。考えもしなかった名前がいきなり現れて反応が遅れてしまった。音也が、なんで今出て来るん、だ?顔を上げようとしたら、肩を強く掴まれて久しぶりに那月の顔を見る。珍しくというか見たことがない、怒ったような焦ったような顔をしていた。初めて見る表情にまた弱い心臓は悲鳴を上げた。


「…翔ちゃんは、音也くんと付き合ってるから、二人でいたいから?」
「は、なんでここで音也が出て来るんだよ!?」
「だって翔ちゃん、音也くんといる時凄く楽しそうでした。…僕といるより」
「な…に、なつき、」
「それとも他の誰か?他に、付き合ってる人がいるの?好きな人が出来た?」
「ちょっと落ち着けって!」
「そんなの、絶対嫌です!!」


那月は私の言い分なんかちっとも聞いてくれなくて、抱き寄せられて視界が塞がる。抱き締められるなんて珍しいことじゃなかった筈なのに。温かさも甘い匂いも記憶にあるものと変わらない筈なのに。胸が苦しい。いつからだろう。力の強さと関係のないところで、那月に抱き締められるのが苦しいと感じるようになったのは。この感情の名前に気が付いたのはついさっきだとしても、きっともう大分前から、私は。
自分から突き放せるわけないんだ。だから止めてほしい。期待してしまう。こんな風に、離したくないって言っているように抱き締められたら。自分のものと同じぐらい速い鼓動に気付いてしまったから。私だけじゃ、ないんじゃないかって。この音が奏でる意味はもしかしたら、重なるのかもしれないと錯覚してしまう。心臓の音に乗って、私の気持ちなんか気付かれてしまうだろうから。


「ねえ、翔ちゃん。」
「僕、我が儘だから、もう幼なじみってだけじゃ我慢出来なくなっちゃった」




翔ちゃんは、そんな僕は、いや?















「……いや、なわけない、」




切なげな澄んだ声はストンと胸の奥に入り込んできて、覚悟とか恐怖とか、素直になることを邪魔するものを全部、溶かしてしまう。言えなかったことと言いたかったこと。今なら、全部、言える気がして。でも何から伝えればいいのかわからず、その先からは言葉にならない。心臓はやっぱり破裂しそうな程速く動いていて、那月のものと重なっていて。同じなんだと、言葉で、体温で、音で伝わって。安心したからか、嬉しすぎたからか涙が出そうになった。私からも那月に抱き着いて、顔を隠す。本当は、ずっとこうしてみたかった。より近くなる体温と鼓動はぴったり一致する。どんなに長く一緒にいたって、そんなことも知らなかった。だから、迷って、悩んで、苦しくて。今も本当は、まだ少しだけ、こわい。夢ではないのか、変わってしまってもいいのかと。だけど、よかったって呟く那月の声があんまりに幸せそうで、嬉しそうだったから。だから、きっとだいじょうぶ。この幸せは本物で、夢でも勘違いでもない。確かに存在している。





「…一緒に、帰ろう?だいぶ、遅くなっちゃったね」
「…………うん、」



差し出された手を取って、確かめるようにきゅっと握る。温かさも大きさも朝と変わらない。私より一回り以上も大きな手。世界で一番特別な手。どうしてこの手を取ることを躊躇出来たんだろう。欲しくて欲しくて堪らなかったのに。
手を繋いで並んで歩いていく。そういえば、歩幅が相当違う筈なのに、いつも並んで歩けていた。ちらりと那月を窺うと目が合い、こちらが溶かされてしまいそうな程、柔らかく、甘く微笑まれて慌てて顔を逸らす。この笑顔が私にだけ向けられたものだと考えると嬉しくて幸せで、だけどどうしても恥ずかしいくすぐったい。頭上からクスクスと笑い声が聞こえて、何か一言言ってやろうかとも思ったけど、顔を上げられそうになくて、かわりに握る手に力を込めてみる。翔ちゃん可愛いと、那月の珍しくもなんともなかった言葉さえ、前とは違って聴こえるのは、私が変わったせいだろうか。こんな、可愛くて仕方がない、みたいな、聴いただけで想われているとわかる声を出されると。胸が苦しい、体が熱い。那月と一緒にいたらずっとこんな症状が続いていくのかな。それを嫌だと思えないのは、相手が那月だからで、今がとても幸せだから。私たちが幼馴染みから何になったのかと言うと、それはよくわからない。那月と、私。この関係を表す言葉はどこを探したって見つかりそうにない。わかりやすくはっきりとした二文字の言葉に纏めてしまってもいいのかもしれないけれど、なんだかそれでは勿体無くて。もっとたくさんの気持ちを表せる形が欲しくて。
友情で、家族愛で、それから紛れもなく。言葉にするのは、しっかりとした形を与えるのは恥ずかしくて、似合わない気がして、避けていたけれど。目を逸らして、無視が出来るほど、この気持ちは小さくない。手を繋いで帰る先が同じ。それだけでこんなにも嬉しい。
認めてしまおう、これは確かに、誰が見たって、恋以外の何でもない。同じ気持ちを那月だって持っていてるのだとしたら。だったら、もう、しあわせになるしかないじゃないか。











長らくお付き合いありがとうございました。