那月のところでバイトを初めて、早1ヶ月となった。大分モデルの仕事にも那月にも慣れて、前からずっと那月のことを知っていたような気までする。あれからやはり前のモデルの事は聞けなかったが、代わりに那月のことを聞いたり、反対に俺の事を話したりした。近況だとか故郷のことだとか他愛のない話だけど、絵を描き終わった後、那月が入れた紅茶を飲みながら会話をするのが常となっていた。那月はそこまで話す方ではないけれど、沈黙が訪れたって苦しくはなく、穏やかに時間が流れていくのが好きだった。こんな風に人とゆったり過ごすことは普段なくて、大勢で騒ぐのだって好きだけれど、この時間は特別だった。俺も毎回ではないけれど、美味しそうなお菓子やケーキなんかを見つけた時は手土産としてもっていく。那月は甘いものがすきだったし、俺も結構食べられる方なので苦にはならない。それに、可愛らしい見た目のお菓子を持っていくと可愛いもの好きの那月はいちいち喜ぶので、買うのは少し恥ずかしい気もしないではないが、それを見るとまた今度も持っていこうと思えた。今日、持参したのもくまを象ったチョコレートケーキ。那月の喜ぶ顔を想像して、少しだけ笑みが溢れた。人に喜ばれるのは嬉しいし、那月が笑っているのを見ると心の奥が温かくなる。。
鼻歌混じりにケーキ片手にチャイムを押しても反応はなかった。何度か押すが、返ってくるのは沈黙ばかりで。どうせまた作業に集中しているか、はたまた無理のしすぎで倒れてしまっているのだろう、貰った合い鍵で扉を開けて不本意ながら自分用のウサギ型スリッパを履いてそのまま廊下を進む。これを履くのに抵抗感を覚えなくなったのはいつからだったか。リビングにも寝室にもおらず、廊下にも転がってはいなかったので絵を描くのに集中しているのだろうと、音を立てないように静かに作業部屋の扉を開ける。足音ぐらいで集中が途切れるとはおもえないが、一応念のため。ゆっくり扉を開けて覗き込むと、珍しいことに那月は絵を描いているでも倒れているのでもなく、ベッドの上で眠っていた。絵は見えないがキャンパスが窓の近くに置いてあり、絵の具も散らかっていて絵を描いていたことを伺わせる。
起こさないように足音を極力立てずベッドに近付いて那月を見下ろす。眼鏡を掛けたままの寝顔は、穏やかというよりも少し苦しそうで。睡眠が足りていないなら寝かせておいた方がいいかもしれない。こいつは熱中すると真っ当というか人間的な生活をしない。一ヶ月足らすでそれは充分理解した。取り敢えず出きるだけ音を立てないようにそうっと更に近くで顔を覗きこむ。
うわぁ。
綺麗な顔だとは常日頃から思ってはいたが、こんな風に目をつむり、黙っているとそれがよくわかる。よく笑っているから普段はあまり感じないが、こうピクリとも動かないと人形みたいだった。衝動的な頬をそうっと指で押すと、思ったよりも柔らかい。起きるなよと祈りながら、何度かつついてみたりすると、呻き声がして慌てて指を離す。那月は一瞬、眉間に皺を寄せ身動いだが、すぐにまた寝息が聞こえだした。何をしてんだ、俺は。折角寝てるんだから起こす必要はないだろう。というか眼鏡を掛けたままで寝ずらくないのか?どうせあまり休まないのだから、せめてしっかり休んで欲しい。悪戯した時と同様かそれ以上に慎重に眼鏡に手を伸ばす。ゆっくりと顔から取り外して、ほっと一息ついたところで、急に腕を強く引っ張られる。えっ?と思うより先に視界が反転。バランスを崩してベットに倒れ込み、押さえ付けられる形になった。


「那月……?」


寝ぼけてんのか…?那月の表情はうつ向いた前髪に隠されて窺えない。抜け出そうと体を捩ってもびくとも動かず、腕に籠められた力がより強くなった。流石に痛みを感じて、もう一度声を掛けようとしたら、聞き慣れた筈の甘いテノールとは、違った低い声に押し止められる。



「俺は那月じゃない…砂月だ、」
「…砂月?」



どういうことだと、問い返そうとすれば、漸く覗いた相貌あまりに鋭くて体が固まる。那月じゃ、ないのか?顔はいつもと全くもって変わらないのに、表情、目付き、雰囲気が違いすぎる。同じ人間のものとは思えない。そっくりの別人や兄弟と言われたらそれをそのまま信じられただろう。でも、さっきまでここで眠っていたのは確実に那月だった。それぐらい、一緒にいたから判る。ならば、どうして。いつもと何が違うって言うんだ。砂月と名乗った那月は不機嫌そうに顔を歪めて低く吐き捨てた。


「とっとと帰れ、チビ。俺は人間は描かない。」
「なっ…!?俺は、那月のモデルをしにきたんだよ、そんな言われて帰れるか!」
「那月はいない。だから帰れ。」
「どうゆうことだよ、それ!お前、那月だろっ」「……うるせぇな。キャンキャン喚くな」




そんなに、遊んで欲しいのか?
そう言ったと思ったら、いきなり耳に噛みつかれる。噛み切られる、という程強く噛まれたらかと思ったら今度は生温い舌でソコをねっとりと舐められて。体がゾワッと粟立って、力が抜けかける。ヤバイ、逃げなきゃ。なんとか抜け出そうと抵抗しても、体に乗り上げられて殆ど動かせない。くそっなんだよ、帰れって言ったくせに!
唯一僅かに自由の利く腕を動かすと、カシャッと冷たい金属に触れた。外した眼鏡が倒れ込んだ拍子にベッドに落ちてしまったらしい。そうだ、眼鏡。いつもとぬ違うところ。眼鏡が外れると正確が変わるなんてそんな漫画みたいな話、有り得ないかもしれないけれど、一か八か。どうにか眼鏡を掴み取って、砂月の隙を窺う。砂月が顔を上げ、体を少し離した瞬間、急いでかけ直した。



「………………。」



どうだ。これで駄目なら、本当にもう那月に戻す手段が思い付かない。そうしたら、何をされるか想像も出来ない(想像したくない)が、痛い目に会うことは確実だろう。
頼むから、戻ってくれよ。祈りながら那月か、下手したら砂月の様子を見守った。



「……あれぇ、翔ちゃん。どうかしたんですかあ?」



不思議そうな柔らかい声とレンズ越しの穏やかな相貌。よかった、那月に戻った。漸くほっと息を吐いて体を起こすと、那月もあっさりと体を離す。ほにゃりと効果音の付きそうないつも通りの笑顔に先程とは違う意味で力が抜けた。



「あの、さ……いま、お前……」
「はい、僕がどうかしましたか?」
「……いや、やっぱなんでもない…」



おかしな翔ちゃん、と柔らかく笑う那月は全く普段通りで、"砂月"のことは那月につられて眠って見た夢だったのではないかと思ったが、"砂月"
に掴まれた腕はまだ痺れるような痛みが残っていて。夢でも幻でも白昼夢でもない、んだよな。もう一人の那月は。翔ちゃん?再び聞こえた不思議そうな声に、なんでもないふりをして、少し形の崩れてしまったケーキを二人で食べた。