「あっ!これどうぞ、翔ちゃん用にちゃんと用意したんですよぉ」


薄いピンク色のふわふわしたウサギを象ったスリッパを渡された。赤いリボンまで付いている。那月自身はひよこ型のスリッパを履きながら、翔ちゃんにはくまさんも可愛いかなって思ったんですけど、ピンクの方が翔ちゃんにぴったりかなって、にこにこ期待に満ちた顔でこちらを見てくる。正直、履きたくない。スルーしてしまいたい。でも家主がわざわざスリッパを差し出しているのにそれを拒否するのは失礼だろうし、何よりあの期待に満ちた顔を見ると簡単にノーとは言えそうにない。覚悟を決めてスリッパを受け取り、黙って履く。わー可愛い、やっぱりとーってもよく似合いますねえなんて言って、抱き付いてきそうな那月を全力で回避した。ギリギリセーフ。履き心地が見た通りにふわふわで気持ち良く、少し、情けなくなった。
前回、全裸で体育座りで睨み付けるというモデルとしていいかわからない事をしてしまったが、那月は気にしていないというか、気に入ったようだった。取り敢えず下書きのようなものは描けたようで、描き終わった後に元通りに笑いながら次も同じ感じでお願いします、と言われた。芸術って、よくわからない。まあ絵のモデルのスタンダードもわからないからなんとも言えないのだけれど。そして、これはこれで結構疲れる。同じ体勢を取り続けることがこんなに辛いとは思っていなかった。別に動くなとは言われてはいないけれど、やはりあまり動くと描きづらいだろうし、那月の集中の邪魔をするのは嫌だった。あれ程集中している人間を間近で見るのは初めてで、何でも真剣にやる奴は尊敬出来るし格好いいと思う。


「今日は早めに切り上げて、お茶をしましょう。とーっても美味しい紅茶とお菓子があるんですよぉ」


絵を描いている時とは別人のように何が楽しいのか、背後に花が舞わせながら那月が言う。同じ筈なのに声も瞳もひたすら甘い砂糖菓子って表現がぴったりな色をしている。本当に同一人物なのか?溜め息をついて、ぽすんとベッドに腰掛ける。シャツのボタンをするする外していく。裸になるのにまだ抵抗がないと言えば嘘になるが、昨日感じたような羞恥や動揺は襲ってこなかった。そのまま上を脱いで、下に手を掛けようとすると、ふと視線を感じて顔を上げる。今日は俺が手こずらなかったせいか、那月は特に後ろを向いてはいなかった。那月は準備は既にしてあったのか、椅子に座って、先程の甘ったるい笑みでも、絵を描いている時の観察するような真剣な表情をしているでもなく、只じっと俺を見ていた。男の体なんて、珍しくもなんでもないだろうに。だがあんな風に真顔で見つめられるとおかしな気分になってしまう。急に恥ずかしさが舞い戻ってきて、急いで脱ぎ、また体を隠して守るように丸まった。
そうして、昨日と同じ別人の、真剣な表情に変わった那月を見返す。昨日のように睨み付けるには少しだけ、鼓動が邪魔で真っ直ぐには見れなかった。












「お疲れ様でした、あ、紅茶にミルクいれますか?」
「ああ、お前こそお疲れ。ミルクは…いいや。」


那月がまたやけに可愛らしい男の物とは思えないティーカップに紅茶を注いで、クッキーや小さめなケーキなどをテーブルに並べた。紅茶の、おそらくダージリンの良い香りか漂ってくる。



「いいえ〜僕は全然、疲れてなんかいないです。翔ちゃんのお陰でとっても楽しい時間でした!」
「え?じゃあまだ続けててもよかったんだぜ?俺もそこまで疲れてないし…」
「それも素敵ですけど、翔ちゃんとゆっくりお話したいなぁって」



そんなことを満面の笑みを浮かべて言ってくる。ここまでストレートに伝えられると何でもないことだと思おうとしても、やっぱり照れくさくて、誤魔化すように一気にカップの中身を煽った。こいつといるとこんなのばっかりだ。恥ずかしいやつ。だけど不快だと思うことはなかった。那月のふわふわした雰囲気だとか優しい笑顔のお陰だろうか。そもそもこいつの方が絵に限らずモデルでもした方がいいんじゃないかと思わせるぐらい綺麗なのがいけない。無駄にデカイ図体をしているから気付きづらいが、白い肌に髪の毛と同色の長い睫に大きな目と、どちらかというと女顔の部類の美形だ。近くでじっくり見るとさらに綺麗で思わずまじまじと見つめてしまう。那月は話がしたいと言ったわりには特に話したいことがあるわけではないのか、ゆっくりと自分の紅茶を飲んでいた。何でもない動作が一々、絵になるやつだった。すると不意に那月が視線を上げてばっちり目があってしまった。悪いことをしていた訳ではないのにばつが悪くて、少し気になっていたことを聞く
ことにした。


「前さ、モデルしてた人たちってどんなんだったんだ?」
「え?」
「音也にさ、聞いたんだよ、俺の前は女の子を描いてたつて、」


だから、これからの参考になるかなって…続けようとした言葉はそのまま飲み込まれて出てくることはなかった。

那月が、泣いていた。

音もなく瞳から涙がポロポロこぼれ落ちる。那月自身は涙を流していることに気付いていなかったのか、濡れた頬に手を当てて掬った水滴を見て驚いた顔をしていた。俺はあまりのことに固まって動けない。那月はそんな俺に気がついて急いで涙を拭って、笑おうとしたが涙がなかなか止まらなくて。失敗した笑顔をなんとか張り付けて不恰好に笑った。
俺は見ていられず、思わず那月の頭を出来るだけ優しく、ちっちゃい子にやるようにそっと撫でた。那月はさっきよりさらに驚いた顔をして、涙がまた一滴、ポロリと垂れた。だけど、気持ち良さそうに目を細めるだけで嫌がりはしなかった。


「……悪い。立ち入ったこと、聞いた」
「…いいえ。翔ちゃんは何も悪くありません。僕がただ弱いだけで…」


那月は冷めてしまった紅茶を一口、口に含んで漸く止まった涙を拭って微笑んだ。大分マシにはなったがやはり下手くそなままだ。俺も撫でていた手を下ろして、那月を見守る。咄嗟に泣き止ませるためとはいえ、大の男の、それも歳上の頭を撫でるのはおかしかっただろうか。
でも那月があんまりにも辛そうで、途方にくれた迷子のようだったから。
そのあと那月は、僕が弱かったからいけないんです、とポツリと呟いておかわりを持ってきますと席を立った。新しい紅茶を持ってきた那月は、泣いていたことが嘘のようにいつも通りで、俺たちはなんてことない世間話をして、その日は終わった。本当に、何もなかったように。前のモデルのことも、那月が泣いた理由も聞けないまま。その2つは胸にシコリとして残ってしまったが、那月が話したくないなら聞きたくはないし、那月の泣き顔を思い出すと、発作とは違う痛みが胸を襲って苦しくて仕方なかった。
アイツが話したくなるまで、忘れよう。
そう思ったのは那月の為と云うより、俺が逃げ出したかっただけなのかもしれない。