碁盤の天井に視界が眩んだ。障子の和紙を通して仄かに部屋に光を注ぐ太陽に、ああ今は朝なのだと時間帯を悟る。意識がはっきりとしてくればからりと喉の渇きを感じた。喉の皮膚が乾燥して息をすると痛くて、ひとつ喉を嚥下する。まだ少し靄がかった脳内を叱咤し、柔らかな布団から上半身のみを起こして周囲をぐるりと見回してみた。


「………ここ、は」


少なくとも、自宅ではない。畳が敷き詰められた、ただ広いだけの―ざっと見二十畳程あるのではないだろうか―和室。床の間には水墨画の掛け軸がかけられ、椿の花の一輪挿しが存在感を主張している。品のいい部屋だ。素人目にも、いい部屋なのだと分かる。――いや、そうではない。私の中に燻る、あの、十二年間の記憶が、この部屋はいい部屋なのだと告げている。鼻腔を優しく擽る懐かしい畳と木の匂い。静かに瞼を落として、また、開く。網膜は変わらず床の間の椿を映していた。夢じゃ、ない。


「…戻って、来た、の…?」


戻ってきた、というのが正しい表現かは分からないが、それが一番しっくりする表現だと思った。ぽつり、と一人でいるには些か空間を持て余しすぎる室内に呟きは消えた。それに答えてくれる人は居らず、ふと自分の姿を見下ろせば首にかけられた彼に貰ったその品は相変わらず光彩を放っており、淡い水色と白をくすませたような肌触りから上質だと分かる寝間着の襦袢を身に纏っていた。誰が着替えさせたのだろう。ぼんやりと思考を燻らせつつも、いつまでもこうしている訳にもいくまいと布団から身を出した。


「さて、」


立ち上がり、乱れた髪を手櫛で梳き、ぴしゃりと両の手で頬を打ち眠気を飛ばす。私が目覚めたら着せるつもりだったのか、枕元に綺麗に畳まれ鎮座する着物。久々のこの世界に、奥に眠っていた好奇心がじわじわと溢れ始める。――もしかしたら、この世界に戻ってきたことで精神年齢があの頃に戻ってきているのかもしれない。苦笑を滲ませるものの、この探究心に逆らう術はない。伸ばした指はまたもや上質なその生地を確かに感じていた。




「――ほう、名前が。それは真か」
「はい。証拠は俺様と旦那の双眸がしかと」
「そうか、名前が…よし、佐助、わしを名前の元まで案内せい」
「りょうか、…い出来るわけないでしょ大将!大将はこれから軍議と上杉方との休戦協定の会合があるでしょーが!」
「むう…、ならば佐助。影武者を務めい」
「無茶言わないでくださいよ、そんな長時間大将に化けるのは流石の俺様でも無理ですって!」
「佐助え!お館様の言うことが聞けぬと言うのか!」
「ああもう旦那は黙ってて!」


――これは。入ってもいいのだろうか。襖の前で歩みを止め、一人思案。明らかに話題は自分のこと。それだけでも十分に入り辛いのだが、如何せん場に流れる雰囲気は身内独特のもの。最初のうちこそは身分に相応しい張り詰めた空気が糸を張られていたものの、徐々に和んでいく場の雰囲気はなんとも武田らしい。思わずふ、と口元が緩んで溜息が漏れた。ああ、やはりこの人達は変わっていない。心の内からゆるゆると綻んでゆく。


「――って言うより、本人がお出でのようだし今会えばいいんじゃないの、ね、名前姫サマ?」
「…っえ、…わ!」
「あっはー、俺様が気付いてないとでも思ってたの?」


先程まで襖一枚隔てたところから聞こえていた筈の声が耳元で響いて、思わず悲鳴をあげた。当の本人は自分のすぐ後ろに待機してよろけた私を支え、へらへらと締まりのない笑みを浮かべてみせていて――この人は、少し変わったかもしれない。前はこんなに上手に笑ってみせなかった。もっと、素直に――少しだけその変化が悲しくて、彼の顔をぼんやりと眺めていたのだけれど。すぐに別の声に思考を引っ張り戻された。


「おお、名前!居ったならば入ればよかったであろう!」


低く安定した、威厳はあるこそすれ安堵を誘うような声。ちろりと視線を移せば包みこむような、暖かな笑みを浮かべた―武田信玄、その人。この世界に居た時の私にとてもよくしてくれた人―、細々と語れば尽きないが、とにかく私の記憶の中では豪快かつ太っ腹、それでいて策士であり暖かな、安心できる存在だったように思う。面影の信玄様とは寸分違うことなく、強いていうならば余計に威厳と恰幅が増したように思うだけだろうか。豪快な笑い声と共に大きな手で自分の隣の床を叩いてみせた。


「いえ、私の話をしていたようでしたから、入り辛く…。…私に部屋を与えてくださったのは、信玄様でしょうか?」
「うむ、わしだ!…と言いたいところなのだがのう、それではそこで呆けておる者の面目が立たぬであろう。ほれ幸村!何を固まっておる!」
「…、っ、も、申し訳ございませぬ…!……名前、…殿、お久しゅう御座います。……覚えて、おいででしょうか」


いそいそと信玄様の隣―は、流石に身分やらを考慮し遠慮して。下座まで寄れば、懐かしいその姿にじんと郷愁の温もりを胸に抱きつつ問いかけた。部屋を貰って、しかもこんな上等な着物を与えてもらったのならお礼を―と思っての問いかけだったのだが。頷いた信玄様にお礼を言おうと口を開くも、すぐにそれを否定されてしばらくぽかんと呆けてしまった。相変わらず冗談の好きなひとだ、と思わず破顔して、信玄様の声のかけた方へと視線を滑らせた。―――そこに居たのは。


「………弁?」


昔と変わらぬはにかむような笑顔で笑ってみせた、彼の人だった。







鬼灯の逡巡
(思い出されるのは)(懐かしきあの日々の情景)