「ただいま」


返事が返ってこないと知っているのにそう玄関に呼びかけてしまうのは、染み着いてしまった習性はなかなか修正が利かないのだということを私に実感させた。別に今更哀愁に浸るわけでもないのだけれど、確認して改めてほんのりとした寂しさなんてものを噛みしめさせられる。田舎の両親は元気だろうか。郷愁に似た思いをふと胸に抱けば、なぜだか無性に声が聞きたくなった。これが子供の性というものなんだろうか。時計の短針はきっちり10の文字盤を示していて、今から電話をかけるというのは普通、躊躇われる。けれど、都合のいいことに実家の両親はこの時間はまだ起きているのだ。父はともかくとして母は必ず。なんでも深夜に放映している韓国だかなんだかのドラマをかかさず見ているとか。…さすがに、団扇を作ったりなどの行動には移らないため父も甘受しているらしい。数ヶ月前にそう愚痴ってきた父の苦笑を思い出しつつ、受話器に手をかけた。数回のコール音の後、つながる回線。出たのは母。どこか他人行儀な応答は私だと分かればすぐに砕けた口調へと戻った。


「どうしたの?珍しいじゃない、あなたから電話してくるなんて」
「や、ちょっと声聞きたくなってさ。…お父さんは?もう寝た?」
「今夜は友達と飲んでくるんだって、まだ帰ってきてないわよ」
「大丈夫?お父さん、お酒そんな強くなかったよね」
「さあ?いざとなったら玄関に寝かせておくわ」


からからと笑いながら軽口を叩き合う。そう言いながら、きっと母は酔いつぶれて帰ってきた父に毛布をかけることだろう。なんだかんだで仲睦まじい父と母は私の誇りでもあった。それから最近仕事は順調かとか、ご飯はちゃんと食べてるかとか心配性な母の質問に苦笑しながら答えて。いつまでも子供扱いなんだから、と文句のひとつでも言ってやろうと茶化すように不満を漏らせば「私達からしたらいつまでも子供よ」なんてけらりと返されてしまった。


「じゃあ、明日も早いからそろそろ切るね。ごめん、いきなり電話して」
「いいのよ。子供からの電話は親の楽しみなんだからいつでもしなさい。ちゃんと布団被って寝るのよ」
「分かりましたー、…おやすみなさい」
「おやすみ」


ぷつり。断線したような音と共に静寂が帰って受話器を置けば、ひとりきりの部屋に放り出された気分になった。けれど鼓膜に残る暖かな母の声音を思い返し、ひとつ自分の頬を叱咤する。よし、大丈夫。一人暮らしをするには少し広すぎるアパートは時折私を心細くさせた。


(あっちだと、寂しいと思う暇もなかったしなあ…)


彼等のいた世界。私のいた世界。あの不思議な十二年間は、本当に息吐く暇もなかった。こちらとは全然勝手の違う世界に赤子として産み落とされて、年を重ねるごとにはっきりしていく意識の中、まだ言葉を発せない時期から頭の中は目新しい生活に焦ってばかりいたものだ。違う空気、違う習慣、違う服装、違う食事。何もかもがそれまでの私の現実とかけ離れていて、戸惑うばかりだった。そこで出会った人達も、およそ私の過ごしていた時代とは随分違っていて――ああ、懐かしい。五年という歳月は懐かしいという形容詞でくくるには充分な時間らしい。まるで長い長い夢をみていたかのような十二年間。けれどそれが現実だったと私に教えてくれるものがここに――抱いたもうひとつの郷愁の念に絆され胸元の「それ」へと指を触れ―――ふと、記憶に燻る「彼」を思い出した途端。


「…っ…!?った、…、」


キイン、と耳鳴りを幾分高くしたような金属音めいた音と共にこめかみの部分がずきりと痛んだ。じくじくと焼け付くような痛みが断続的に襲う。何これ。偏頭痛とかそういう痛みとは違う、不自然な痛み。まるで脳が溶かされるように、熱い。意識が遠のく。片手でこめかみを押さえ、倒れそうになる身体を壁で支えるもぐらぐらと揺れる視界にずるずると崩れ落ちた。助けを呼ぼうにも、漏れるのは空気を押し込めたように微かな息だけ。―辛い、痛い、怖い、誰か――――、まともな文を構築できず単語だけを反復させつつ視界は暗転し、一際大きな痛みを共に私は意識を手放した。







匂菫は微笑う
(遠く響いた君の声が―)(まぼろしではないことを願った。)