久しぶりに彼女の夢を見たからだろうか。元々得意としない執務がいつも以上に捗らず、俺はとうとう積み上がる強敵を目前に唸るばかりになった。これが戦場となれば何とでも出来ると言うのに。かと言って物言わぬ紙切れに対し槍を振るった所で事態は解決どころか、悪化の一途を辿ることだろう。分かりきった事実に図らずとも重いため息が漏れる。執務も鍛錬の内。幾度となく佐助の口から聞いたであろう戒めを自分へ叱咤し、俺は放り出した筆を取り直した。


「旦那!」
「佐助…!ど、どうした、執務ならば今…」
「どうもこうもありゃしないぜ!戻ってきたんだよ!」
「…戻ってきた?何が、「名前姫様が!」


突然開いた襖にびくりと背筋が伸びて、書類の上にたっぷりと墨を含ませた筆が転げた。しかし、珍しく焦りを隠さずに俺の抗議を遮り口早に告げられた佐助の言葉によって、それを気にかける余裕は完全に無くなった。―――名前が、戻ってきた?―――あまりにも唐突であまりにも不明瞭なその内容は、いとも容易く俺の心を揺さ振る。じわじわと書類に滲んでいく墨のように、俺の思考を支配していくのは片時も忘れたことはない彼女。―気がつけば、俺は着流しのまま部屋を飛び出していた。後ろで佐助が俺の名前を呼んだ気もしたが、そんなことに構っている暇はない。急げ。脳内で急かす声が俺を駆り立てた。また、またあの時のように消えてしまう前に。早く。戦場に居るときとはまた違う、途方もない焦燥が背筋を駆ける。彼女がどこに現れたかを聞かずに飛び出してきたが、運ぶ足に迷いはなかった。あの日、彼女が目の前で消えた場所。どこかの出来すぎた御伽噺のように安易な予感しか手繰り寄せることのできない自分は、やはりお舘様の言う通り精進が足らないのだろう。―けれど、この状況でまともな思考など紡いでいる時間も惜しくて。広い屋敷内を走って走って――幾度目かの角を曲がった先。五年前、彼女が消えた場所。―――綺麗な水が張られた池に、その影は在った。


「名前!」
「っ……あ、…え、………だ、れ」


どこかの出来すぎた御伽噺のように、ずぶ濡れの状態で。五年の歳月を経て再会した彼女を前に、言いたかったことも言えずしたかったことも出来ず、俺は頭が真っ白になっていくのを感じた。薄らいでいく意識の中で耳にしたのは聞き慣れた溜息と小さなくしゃみ。







花菖蒲に希う
(は、ははは、破廉恥…ッ!)(あーあ、だから待てって言ったのに…)(…っく、し!)