排気ガスの充満する都会の喧噪は、帰ってきたばかりの頃は気管が悲鳴をあげてとても辛かった。本当に、私はここで過ごしていたのかと疑念すら抱いたけれど、記憶を頼りに暮らしていた筈のアパートへ向かえばきっちりと「名字」の表札がかけられていたから納得せざるを得なかった。先程からの言い草ではまるで私がここで育った訳ではないようだが、事実、私はここで育ったが、ここで育っていない。日本語として矛盾しているけれど、そうとしか言い様がないのだ。確かに、私は二十歳までの人生をこの世界、二十一世紀の日本で過ごした記憶がある。辺鄙な田舎で両親に愛され育ち、大学に進学すると同時に上京。大学に通いながら知り合いの伝で喫茶店のアルバイトをして、極々普通の人生を送っていたはずなのだ。しかし。それからが問題だ。私のこの世界での記憶は、二十歳でぷっつりと断線したかのように途絶えている。ないのだ。けれど、何とも可笑しなことに私にはその後十数年間の記憶が存在する。別の世界で、別の人間として、産まれてから十数年を生きたという突拍子もない非現実的な記憶が。もし他人に口外しようものなら即病院送り、よくても憐憫の眼差しを向けられることだろう。私自身、そんな体験談を聞かされればそれが唯一無二の親友だろうと真摯に受け止められる自信は、ない。…つまり、私が頼れる人間はこの時代には居なかった。


「先輩!お疲れ様でした、お先失礼しますね」
「ん、…ああ、お疲れ様。気をつけて帰らなきゃ駄目だよ。暗いし」
「大丈夫ですよ!迎えが居ますから」


弾むような明るい声に、私は思案から現実へと引き戻された。ふわふわと綺麗にウエーブされた栗毛が視界の端に映って、そう言えばバイト終了の時間だったと思い出す。可愛い後輩がちらりと視線をやった先にはバイクに跨ってこちらを見る人影。ああ、彼氏のお迎えね。惚気か惚気。一気に気分が萎えて曖昧な笑顔でひらひらと手を振り見送るのが精一杯だった。


「……もう、五年、かあ」


誰もいなくなったアルバイト用の裏口に解放感を覚え、自然と独り言を漏らした。あちらの世界での十二歳の誕生日。何かがきっかけとなって私はまたこっちに戻ってきた。何か、と言うのは、その部分の記憶だけがすっかり抜け落ちているためだ。ただ、何かをきっかけにして、私は十二年間過ごしたあの世界から、二十年間過ごして止まっていたこの世界への帰還を果たしたのである。戦国乱世と謡われる世から、平和な現世に。私から見れば十二年振りのはずの現世は、私があちらに飛ばされた時間から少しも動いていなかった。つまり、私は一気に三十二歳にまで老け込むことはなかった。これは重大なことだ。もし二十歳から一気に三十二歳まで老け込んだとしたら、私はそれこそある意味で病院送りになっていたかもしれない。自発的に。―――それから、約五年。なんとかカルチャーショックからも立ち直り、二十五歳になった私は不景気の波を直に受け――未だに絶賛就活中だった。







蝋梅の溜息
(けれど記憶の底で燻るのは、あのひとの―――)