最近、奴を見かけない。




俺がその事実に気づいたのは意外と早い段階だった。いつもなら仕事中だろうが休憩中だろうが食事中だろうが問答無用でつっこんでくるそいつがぱったりと顔を見せなくなれば、嫌でも日常の変化に気付く。最初は風邪でも引いたか、なんて気楽に考えていたものの、それが一週間に及べば別の疑念が沸き上がってくる。ついに諦めたか。そう言う結論に至ったのは一週間と二日程が過ぎた頃だった。トムさんが「最近来ないな、あのちっこいの」とさり気なく呟いたのに対し、俺は「そッすね、」とだけ肯いた。それは、自分でも拍子抜けするほどに残念そうな声音を帯びていて、それまで緩慢ながらに進めていた筈の足が止まった。意味がわからねえ。どうして、こんなに不安なのか。突然日常に割り込んできたたった一人に、いつの間にかここまで心をかき乱されていたことに、俺は無償に腹がたった。ぶん殴りたい。あの間抜けた減らず口を紡ぎ出すあいつを、思いっきり。そんな衝動に駆られる。立ち止まった俺を不思議に思ったのか振り返って「どうした?」と尋ねてきたトムさんの言葉は、残った僅かな理性を繋ぎ止めていた脆いテープを千切るには丁度いい引き金だった。―――一発、ぶん殴りにいかなきゃ気がすまねえ。


「あ、オイ静雄!?」
「すんませんすぐ戻ります!」


口早に告げて走り出す。あいつの家は前に―ほぼ一方的に―教えられたからなんとなく記憶してる。今日は休日だし学校は休みの筈で、自称インドア派―加えて自称俺を追いかけるためならアウトドア派―らしいあいつなら家にいることだろう。居なけりゃ探す。探していなけりゃぶん殴る。―矛盾した思考に嵌っていくのは、けして俺があいつを気にかけているだとかそんなことじゃなく、脳が空気中に霧散していく酸素を求めているからだということにしておこうと思った。


「…はあい、新聞なら間に合ってま………て、あれ、先輩じゃないですかなにしにきたんですか夜這いですかでも今昼ですよ、…昼からなんて…、きゃあ大胆!」
「…………」
「無言で頭掴むなんてそんなに先輩私のことが恋しかったんですかかかかあぁあ、あ、あ!痛い、い、ただだだ、あ!ゆび、しあ、指圧、が!し、しんじゃ、しんじゃいま!」
「………………ぶん殴りてえ」
「先輩そんなDVだなんて!私先輩のためならマゾにでもなんでもなれますけど流石に先輩に殴られたら私死んじゃいますし死んだら先輩を愛せないのでいやです!」
「……何してたんだ、お前」


古びたアパートの一室の扉を叩けば、すぐに久しぶりに目にする顔が出てきた。目の前に居るのが俺だと確認した途端、鼓膜に響いた言葉はいつもの調子のもので安堵を覚えた自分にまた少し苛立って、取りあえず目の前の丁度いい高さにある頭を鷲掴んだ。それでもきゃらきゃらと止まることない言葉の弾丸を無視して、本題を問い詰めた―――、ら。


「…え?普通に風邪引いたので普通にいい子に家に引きこもってました!」
「…マジで風邪だったのか……」
「最近の風邪はしつこいんですよ?だから先輩に移してしまわないように先輩に会うのも我慢してました!けどまさか先輩から会いにきてくださるなんて幸せすぎて死にそうです、動悸眩暈息切れが酷いです、人口呼吸が必要かもしれません!」
「…よし、近くに粗大ゴミの収集車がきてたからそれでいいよなあ?でっけえ口してるから楽に人口呼吸も可能だろ」
「…そんな!サングラスをかけていて金髪でバーテンダー服で苗字が平和島で名前が静雄の人じゃないと効き目がないんです!」
「思いっきり固定してんじゃねえか!」


これだけ元気なら問題もないだろう。―頭の可笑しさは元からだから諦めることにして。


「…で、先輩。先輩はどうしてここに?」
「………」


不意に問いかけられた内容に、まず俺はこいつをぶん殴るために来たことを思い出して、こいつにやけに腹がたっていたことを思い出して、それはこいつが俺の前に顔を出さなかったことが理由だと思い出して―――そこまで思考を逆再生したところで、俺は気付いた。―これじゃあ、まるで。


「まるで、先輩、私のお見舞いにきてくださったみたいですよね!」


またもや人の返答を待たずにそう結論付けたそいつの頭を一発ぶん殴ったのは、けして図星だったからという訳では、ない。―――はず、だ。