それは余りにも自然だった。幼い頃から、両親が多忙だった私と隣のお屋敷に暮らしていた幸村と佐助はまるで家族のように寄り添いあって生きてきた。だから、高校を卒業し、進学せずに就職を選んだ二年前、幸村と佐助を養っていた信玄さんに幸村との結婚を提案されたときも、それが私の進むべきレールであったかのように思えて二つ返事で承諾した。勿論、幸村のことは好きだった。但し、それが一般的に言う恋慕かと問われれば、肯定するのは難しいように思えた。長く、傍に居すぎたのだ。幸村はあまり女性が得意ではないようで、幼い頃から共にいた私以外にはどうしても自己主張ができずに、いつも私の傍で過ごしていた。私は頼りにされ、縋られ必要とされる感覚に酔っていたのだろう。悪い気はしなかった。どこまでも純粋な幸村に比べ、私のなんと醜いことか。結婚式で、ほんのりと目元を赤らめ「幸せに御座る」と優しく私に誓いの口付けをくれた幸村に、心の底から罪悪感を抱いた。それでも私は、そんな幸村に見合うように、幸村を裏切らぬようにと良妻でいるように心がけた。その内、私は自分の感情を制御することがとても上手くなった。幸村を愛していると錯覚するのは、簡単だった。けれど、どこかで分かってはいた。私が幸村に抱く感情は、けして恋慕などではない。家族愛に過ぎないのだと。それも、夫婦愛などではなく、弟に抱くような、その類なのだと。だから、私は幸村に初めて抱かれた日も罪悪感を拭いきれず、しかしどこか人事のように愛を紡ぎ事を終えた。翌朝、温かな胸の中で目覚めたとき、体は満たされるような幸福を覚えたというのに、心の中は果てしなく空虚に満ちていた。がらんどうの穴の中にひとり、私は取り残されたままで、幸村が目を覚ます前に服を着込み布団を抜け出した。あのままでいると、私の中の何か大切なものが壊れてしまいそうで、とても、怖かった。

それは余りにも自然だった。小さい頃から旦那と俺の傍でずっと過ごしていた女の子。柔らかい笑顔が眩しくて、旦那の世話係兼補佐兼親友として大将に拾われた孤児の俺にはまるで宝石のようにきらきらとしていて、触れることすら許されないような気がした。そういう意味では、宝石というより毒草と言ったほうが正しいかもしれない。美しい姿をしていても、触れられない。触れたら最期、呑み込まれてしまいそうだった。そんな彼女が旦那と結ばれたのは、極自然の成り行きだと思った。旦那は明らかに彼女に好意を抱いていたようだし、彼女も満更ではなさそうだった。一介の使用人であるような俺に、意見など許されるはずもなかった。ただ、式の前日、誰もいないリビングで準備を終えた彼女が、誰に言うでもなくごめんなさい、と繰り返し泣く姿をみたのは、確かだった。結婚式のときも、とても優しく柔らかな口付けだったというのに、幸せそうな仮面の下で、まるで毒牙にかかったかのように痛々しい表情で彼女がそれを受け入れていたことを、俺だけは知っている。とくり。そのときだった。確かな優越感を、覚えたのは。旦那すら知らない、彼女の秘密を俺だけが知っている。その事実は俺を愉悦に浸らせてくれた。簡単な話だ。ずっと傍に居たのは、何も旦那だけじゃない。俺だって、彼女と共に過ごしてきたのだ。俺が彼女を好きになっていたとしても、何ら不思議ではない。寧ろ、それは自然の成り行きだった。隣に住んでいた彼女が俺や旦那と親しくなったように、彼女が大将に勧められ旦那と結婚したように、―――俺と彼女が、いつの間にか肌を重ねあうようになったように。





「さすけ、」

私は、怖い。だから縋る。すると、ああ幸村もこんな気分だったんだろうか、とぼんやり思うようになる。怖くて、怖くて、どうしようもなくて、だから身近なものに縋った。誰にも縋ることのできなかった私が縋ったのは、幸村ではなくて、佐助だった。幸村は、近すぎたのだ。近すぎたから、この感情が恋なのか愛なのか、ただの同情なのかが分からなくなった。その点で佐助は、近くもなく遠くもなく、適度な距離感を保っていた。高校に入ると同時に、今だ私にべったりだった幸村とは違い、佐助は基本的に幸村の面倒を見ながらも自分の孤立した世界を広げていった。友人を作り、彼女を作り、どんどん私の知らない場所へと行ってしまった。だからこそ、私は佐助を焦がれた。よくある話だ。手に入らないものほど、ほしくなる。遠いものほど、綺麗にみえる。自分の食べるメロンパンよりも、他人のたべるあんぱんの方が美味しそうに見えるのと一緒だ。

「さすけ、こわい」
「大丈夫、旦那ならまだ帰ってこないって」
「でも、」
「黙って」

優しく塞がれる唇は、優しいままだった。いたくない。いたくない。私は私に言い聞かせる。これ以上、傷口が広がらないように。これは、幸村への裏切りだ。今まで、彼を裏切らないように、裏切らないようにと尽くしてきた私の、最初で、おそらく最後の。もっと早く気付けていたらよかったのに、なんてことは不思議と思わなかった。多分、私が普通に佐助と結ばれていたとしたら、きっと今私を抱く腕は幸村のものになっていたことだろう。順番が、立ち位置が、少し狂っただけなのだ。怖かった。怖かった。毀れそうで。壊しそうで。確かな関係は、そこでおしまい。あとは緩やかに崩壊を待つだけのようで。だから私は、佐助との不安定な関係を望んだ。これで構わない。続けばいい。そう思う。いつか、幸村が知ってしまうその日まで。ひとつを失うなら、すべてを一気に失ってしまいたい。その日がすべての終わり。きっとそれは、私だけじゃなく、佐助も分かっている。その上で、佐助は今日も私を抱くのだ。そして私はそれに縋る。不安定な自分を支えるように。縋る先すら、細く千切れそうな糸だったとしても。いっそそれが蜘蛛の糸で、私を絡めとってくれたらいいのに、―そんな妄想に溺れながら。
もうすぐ、朝がくる。薄れゆく意識の中、佐助に揺さぶられながら、私はどこか冷静に、朝の献立を考えていた。次、目が覚めたら隣には誰もいない。私がそうしたように、佐助は服を着込み、私の目が覚める前にどこかへ行ってしまうのだろう。それでいい。交わらなくていい。詰まる所、私と幸村と佐助は酸素と銅と水素なのだ。普段は傍に居ても、新しいものが現れればそちらに移り、そしてまだ元に戻る。それを永遠に繰り返す。酸化し、還元し、また酸化する。そしていつか、誰もいなくなる。冷たい布団で目が覚める。伝い落ちた水滴がシーツに染みた。それが汗だったのか、涙だったのか、それすら分からずに私は意識を手放した。




後朝あそばす


浮気草子様提出。