きっとこの人なら分かっていたはずだ。ここに蛸壷があったこと。それなのに彼はさけることをせず下へと落下した。大きな音はしなかった。上から覗けば足もとからぽろりと落ちた土が中にいた人物の肩にあたった。立ったまま中をみる、みつめる。上を見上げたその人と目が合う、その人は表情をつくらなかったから、私も特に何をいうこともしなかった。そして暫く沈黙が続いて声を発したのは相手のほうだった。

「先輩を穴に突き落として見下したまま助けないなんていい度胸だな」

 目は笑っていないが、口元が微かに弧を描く。真意が読みとれない、元々関わり合いはなかったが、六年生で委員会の委員長ともなれば学園では名が知れている、勝手な想像の中の彼と目の前の人物の様子を照らし合わせた。この人はこんな人だっただろうか。

「……はぁ」

 気のない返事を返すと腕を組み今度は少しわざとらしく表情を作って首を傾げた。失礼かもしれないが思ったものは仕方ない、これを馬鹿面と言うのだと思う。

「おい綾部!何か言ったらどうなんだ」
「お言葉ですが先輩、私には貴方が自らそこに堕ちたようにみえたのですが」

 そうに違いなかった。六年で堕ちたことがあるのは保健委員会の彼くらいなもの。それなのに目の前の彼ほどの動物的嗅覚の持ち主が簡単に蛸壷にかかるとは考えにくい。それに加えて最低限の汚れで済まされた服装は明らかにこの場所に仕掛けがあると分かった思考の元、着地を計ったとしか考えられなかった。私の言葉にまぁ細かい事は気にするなと声をはった彼。沈黙を守った私に先輩は痺れをきらせたように言う。

「おい、ぼーっとつったってないで先輩に手を貸そうとは思わないのか!」
「出られないんですか」
「いいや!簡単に出られるな」

 言っても、半日以上かけてほった蛸壷である。下級生や運動能力の良し悪しによっては出られない生徒もいるだろう。しかしこの人は違った。学園内で唯一無二の身体能力を誇る、体育委員会の委員長。本人の言うとおり私の手など借りなくとも簡単に這い上がってくることができるはずだった。

「簡単に出られるぞ」
「何回も言わないでいいです」
「なんだ、怒ってるのか」
「……、」

 その言葉に表情も言葉も返すことはなかった。返したつもりはなかった。しかし先輩は吹きだすように笑った。この穴に落ちて、はじめていつもの、うるさいくらいの笑顔で笑った。

「そう拗ねた顔をするな」
「……してませんが」
「そうか、まぁいい!なぁ綾部」

 太陽の笑顔が私に向けられる。伸ばされた手を掴もうと、反射的に地べたへとしゃがみこんだ、そこに思考は存在していなかった。まるで引き寄せられるみたいにその手を自らが求めているみたいに。勝負をしよう、と、続けて。

「私が出られないような蛸壷を掘ったらお前の勝ちだ!」

 生意気な笑顔だった。もしそんなことを言って出られなくなってもいいんだろうかという心情が無意識に表情に出てしまっていたらしい。そんな私をみた先輩は言う。

「まぁその時はその時だ」

 堕ちたままでもいいや。そう言った先輩の真意は、読めない。

「でも、その時はお前の手を掴むことにする」

 ああ、やはり馬鹿みたいな笑顔だ、と絵空事。目の前に伸ばされた手を、“今はまだ”掴むことはしなかった。