湿った空気、汗ばむ肌、地面を打ち鳴らす雨が耳触りな程に煩い。何も聞きたくないなら部屋にこもればいいだろと心配そうな表情をしていた三郎をも無視して僕は縁側に腰をおろしていた。そうして空を見上げて思った。浅黒い空が気持ち悪いと思った。風に仰られてかすかに触れる雫さえ気持ち悪いと思った。

 吐きそうだ。

 ふと、声がする。触れられる肩に、悪寒がしてそれでもそれを受け入れた風を装ってやわらかく微笑む。そんな僕の表情をみた相手は一瞬驚いたように目を見開いて、でもすぐに眉間に皺を寄せた。

「怖い顔」

 誤魔化すようにふっと小さく笑った僕にハチは呆れた表情でため息をついてそして隣に腰をおろした。人間らしい彼の表情の変化に何故かほっとした気持ちになる。心が微かに温もる感覚に、意味もなく、わけもなく。

「竹谷さん、竹谷さん」

 呟けば、はいはい、なんでしょうか不破さんなんて返されて、弄ぶように髪に触れる。

「竹谷、はっちゃん、八左ヱ門、」
「ん、」
「……ハチ」

 瞼を綴じて思い描いた君は何故いつもそうなんだろうか。

「三郎が心配してた」
「……うん」
「分かってんなら、あんまり心配かけてやるなよ」
「うん、ごめんね」
「それ、あいつに言ってやれ……って、いや、そんなこと言いたいんじゃないんだ、違くて」

 今年も、五年の長屋の庭には紫の紫陽花が咲いた。とくに今年は、昨年にも増して鮮やかな色のように思えた。花が姿を変えたのだろうか、それともそれを映す僕の何かが変わったのだろうか。気持ち悪かった、雨以上に。注ぐ雨を、滴る雫を小馬鹿にするように妖艶に光るその色が、一昨年よりも、昨年よりも気味が悪くて、根から火をつけて、燃やしてしまいたい程だった。いつになれば、一体いつになれば僕は。

「俺が、心配だったんだ」

 雷蔵が、壊れてしまいそうで。ああ、馬鹿にしている。寂しげに眼を反らすハチの骨ばった手首を指が食い込む程に強く握って床に押し付けた。背中が板張りの床に打ちつけられる音はあの雨のようには優しくない。そう、そんな優しさは、いらない、いらないんだ。

「……痛ぇよ雷蔵」

 驚いた表情は、ない。問い詰めるような表情もなければやめてくれとも。瞼を綴じて思い描かなくとも、君は何故いつもそうなんだろう、優しさなんてもうすでに、意味などなさないのに。

「……ハチが、」

 ハチが優しいから悪いんだ。零れ落ちた涙が雨に混じって消えてしまえばいいのにと思わずにはいられない。こんな情けない姿をはじめから君に見せたいわけじゃない。それでもさしのばされる手が拒絶を甘受することはなく。いつでも僕は、ひとりになる。

「……弱さなんて、捨てちまえばいいんだ」

 なんで優しい声で言うんだろう。

「……そんな自尊心は、いらないって言いたいの?」
「違う、ただ俺は、お前がもっと、」
「うるさい、ハチの言うことなんかもう聞きたくないッ」

 見開かれた瞳からは、自重出来ない涙がぼろぼろと零れ落ちてこんなことを言いたいんじゃないのに、組み敷く紺色をどんどん濡らしていって、これじゃあまるで。

(駄々をこねる子供のようだと自分でも分かっているんだ)

「じゃあ好きにすればいいだろ」

 顔を両手で覆ってこの世の絶望の色を知った。染まった鮮血が頭から離れない。もうハチがどんな表情をしているかすら分からないのは自分のせいじゃない、怒っている、見捨てられる、こんな自分なんか、違う、違う、これじゃあ、こんなんじゃ、気味が悪いのは僕のほう。

「なぁ?雷蔵」
「……っ、?」
「間違っても自分がおかしいなんておもわないでくれ」

 名を呼んで触れれば安心したように息をついた。唇を噛んで眉を潜めれば柔らかに、温かに、哀しげに笑う彼を見て、気づく、気づく。

(ひとりにしていたのは、一体どっちだったのだろうかと。優しく強い君をひとりにしていたのは、僕のほうだったんじゃないかと)