口を開くことには勇気がいるものだ。いや、ただ口を開くだけならばなんの問題もないのだけれど、喉の奥から音を紡ぎだすという行為は、簡単なものではなかった。この世に存在する、すべての人間がそうであるわけはないが。

(しかし、孫兵にとっては、そうであったのだ)

 だから彼は必要以上に言葉を発することはしなかった。

 劣情に身を浸す人間などには興味がないなんて、まったく、まだ十の子供の考えることではないと、今の彼がそれを聞いたら、きっとたくさんの友人と、笑いさざめいてくれるだろう。

 何が正解で、何が間違いなのか。そもそも正しい答えなどあるのだろうか。そんなことばかりを考えていたなんて、そしていつか、考えることすら止めてしまったなんて。

(笑い話だ、そう、今の彼にとっては笑い話でしかない。何故ならほら、ほら)

「孫兵!」

 風の色が変わる。ぴかぴかと明るく光る声が、頭の芯まで呼応する。体中を駆け抜けて、じわりと、やがて孫兵のすべてを飲み込むように。

(その笑顔に救われたのだ)

 誰の前でも咲き誇り、綺麗に色付くそれに。いくら言い寄ろうと、口を開こうとしなかった少年の隣で、彼は咲き続けたから。いつしか、つられるようにして、孫兵も、左門の隣で咲くようになっていた。

「こんなところで昼寝かっ?」
「ああ、」

(木漏れ日が気持ち良いんだ)

 声に出して呟かずとも左門は笑った。からからと笑って、孫兵の隣にぽすんと腰を下ろす。そうして「気持ち良いなぁ」と、一言零すものだから、孫兵は思わず眼を細める。彼の隣は居心地が良いと、先程まで孫兵の緑に身を隠していたジュンコもひょっこりと嬉しそうに顔を覗かせていた。

 孫兵はひとつ大きく息をついた。たまらなく好きだった。彼は神崎左門という人間が、たまらなく好きだった。ゆうならば、その笑顔が好きだった。とても月並みの表現だけれど、その笑顔に心を奪われたのだ。

 木陰でふたり、風の中、多分それが、今1番の彼の至福。瞼の裏浮かぶ思いは、彼自身、不思議なくらいの感情だ。

(もしも左門が哀しみに泣き頻ることがあるならば、私もたちまち地の底にいるような気分になるだろう)

 そのようなことがないように、と、きらきらと光る木漏れ日の中で孫兵は、ひとつ囁いた。言い淀む必要など、何かを恐れる必要など、もうないのだ。

「好きかもしれない」
「……?私は孫兵が大好きだぞ?」

 ほら、そうやって。孫兵の気を知るよしもなく、からり、また、笑うのだ。