覆われる腕、瞼の下、彼の目は何をみているんだろう。懐かしい空気が漂う。澄み切った空気に彼の声が滲む。

「……練習、してぇ」

 小さく呟かれる声に導かれるように彼の元に駆け寄って無防備な額にそっと唇を押し当てれば、重力に任せて耐えきれなかった涙が落ちる。ぽたぽたと腕に落ちるそれに彼は「冷えよ、ばか」と震える声で呟いた。

「お前、テツのこと好きなんじゃんねぇのかよ」
「……そうよ?」

 声は小さく、表情はわからない。

 彼は気づいていた。はじめから気づいていたことを私は知っていた。だからこそ言えなかった。その言葉は何より彼を傷つけるし、その言葉は何より彼を遠ざける。掴みたかったこと、誰より孤独を恐れていたのに、引き離していくのは紛れもなく自分自身で、その事実に彼は笑顔をなくした。伸ばしてもみなかったことにして、繋ぎたいのに、頑なに拳を握りしめる彼は不器用だ。不器用なのに繊細で踏み入れれば壊れてしまうのではないかと思うくらいに。

「大ちゃん」

 ひとりにして、ごめんね。心の中で呟く。

 懐かしい響きに、自分の言葉なのに、どうしてこんなに愛おしいのか分からなくて何度も何度もその名前を呼んだ。

「さつき」

 のそりと伸ばされる手に拭われても止まらない涙に彼は困ったように眉をよせる。たった一度のその名前に気づかされること、また、苦しくなった。

 変わらないんだろう、この人は。いつから変わってしまったんだろう、わたしは。躊躇いもなく幾度となくくりかえされるその呼び名。わたしはどうして彼が変わってしまったなんて思ったんだろう。

「さつき、お前さ」

 彼はいつだって、その名で私を呼んだ。

「俺のこと、好きなん?」

 掴まれた手首。まっすぐにむけられる瞳の下には、薄くだけれど涙が乾いた痕があって、愛しさに胸が痛んで、眉をさげて笑った。

「ばかじゃないの?」
「……ぁん?」
「私は、」
「知ってるよ、テツが好きなんだろ?何百回聞いたと思ってやがる」

 意地悪く言う彼に分かってるならなんで聞くのよと背を向ける。不快なはずなのに不思議と気持ちが軽くなっておかしい。夜風にのせられて、はねて歩きたいくらいには心が晴れやかだった。

「俺はお前のこと、好きだけどな!」

 言葉に、思わず降り向いて目を丸くした。映り込んだ視界、いっぱいに悪戯っ子みたいに笑う貴方を、わたしはきっと。

「おっぱいとか!」

 赤くなる頬を隠すようにまた瀬を向けた。ばかじゃないのと返したけれど、そんなふうにくしゃりと笑う彼が。







(その笑顔がきっと、私は誰よりも好きだと思うのだ)