▽ 記憶の中で笑う・2
何昔のことを思い出しているんだろうと、私は苦笑した。
よくこんな昔のことを思い出せたものだ。
もしかして、不二咲さんに画家のキッカケなるものを話したからだろうか。
実にくだらないことを思い出した。
今さらキッカケなど関係ないのに。
私は画家になってしまった。
重要なのはそれだけ。
「えーっと……大和田くんの部屋の鍵は開いてるんだったけかなー……」
そして、今の私がすべき重要なこととは、大和田くんに飲食物を持っていくことだ。
どうやら私は不二咲さんとだいぶ話し込んでいたらしく、いつの間にか時刻は18時に及んでいた。
大和田くんはまだ起きてこない。
にわかには信じがたいが……具合が悪いのかもしれない。
そう思った私は、さやかちゃんに頼んで作ってもらったお粥と桑田くんに勧められたスポーツ飲料を持って彼の部屋へと向かった。
「大和田くん、入るよー?」
部屋に入る。
部屋は暗い。電気が点いていないらしい。
軽く息を吐いて電気を点ける。
「……うわっ、大和田くん?」
大和田くんは、ベッドに腰掛けてうなだれている。
まさか、この体勢で寝ていたわけじゃないだろう。
「……あ、ああ、流火。来たのか……」
ちゃんと反応した。
起きているみたいだ。
「だ、大丈夫?もう、時間的には夜だけど?」
「あー、そんなに時間経ったのか……」
「う、うん。さやかちゃんにお粥作ってもらったよ。食べる?」
「……ああ、食う。テーブル置いてくれ……そんで、ちょっとこっち来い」
いつもより、一段と低い声。
怒ってるみたいな声に私は恐怖で体が震えて、大和田くんの言うことを素直に聞いた。
お粥とスポーツ飲料をテーブルの上に置いて、私は大和田くんの隣に腰掛けた。
「……ねぇ、大丈夫?具合、悪いの?ちゃんと寝た?」
「……」
大和田くんは黙って俯いている。
リーゼントが少し解けていて、髪がだらしなく地を向く。
……暗い。キノコが生えてきそうなほど、今の大和田くんはジメッとしている。
「……痛むか」
「なにが?」
「これ……」
大和田くんは私の左手に触る。
私が痛がってはいけないと思ってか、まるで壊れものでも扱うような手つきだ。
「……痛まなくは、なくもない、けど……」
「どっちだよ……」
「……いや、大丈夫だよ。そんなに痛くない」
もしかして、と思った。
大和田くんは、これを悩んでいたんだろうか。
私がさやかちゃんに刺された傷を、自分の責任だとでも思っているんだろうか。
これは、安心させてやる必要があるなと思った。
「……平気。大丈夫。痛くないよ」
「本当かよ。俺に気ぃ遣ってんなら承知しねーからな……」
そんな低いドスのきいた静かな声で言わないでほしい。
ついでに睨まないでほしい。
私だからいいものの……不二咲さんだったら確実に号泣ものだ。
「平気。私は平気だから、大和田くんはそんな深刻に考えることないんだよ?」
「……でも、俺は、お前を守れなかった。近くにいたのに、俺は何もできなかっただろ?」
大和田くんは、後悔している。
大和田くんは、何よりも恐れている。
約束を果たせないこと。力が足りないこと。
言ったら殺されそうだから絶対に言わないが、この男はこれでいて繊細な心をしているのだ。
「……私には、君が必要だよ」
だから、安心させなきゃいけない。
いつもの大和田くんでいられるように。
私が、彼を必要として、頼って彼に自信を付けさせなきゃいけない。
私にしかできないことだから。
「私はな、君がいるから精神的余裕みたいなものがあるんだ。君がいてくれたから、さやかちゃんを落ち着かせるのも私は出来た」
「でも、俺は……止められたはずだろ。お前がこんなケガ、負わなくて良かったはずなんだ」
私は大和田くんに寄り添う。
小動物がじゃれるように。甘えるように。
「でも、私には大和田くんが必要」
「必要……な」
「ん。君いなかったら、私は今ごろ大泣きしてる」
「……確かに」
「……」
ムッとなる。
でも大和田くんがようやく顔を上げた。
私を見る目は、僅かな不安と……ほんの少しの安堵感。
「お前は、俺がいないとダメなんだもんな……俺が、守ってやらねーと」
大和田くんは嬉しそうに笑った。
嬉しそうに笑い、私の頭をやや乱暴に撫でる。
「……私は、君を頼りにしてるからな」
本心であり、慰めにも似た言葉だ。
……念の為に断言するが、私は決して、とりあえず言っておけばいいだろうと思って言っているのではない。
そんな無責任な言葉を私は吐いたりなんかしない。
これはちゃんと私自身の想い。
……ただ、大和田くんがバカだから、ちゃんと言葉にしてやらないと伝わらないという話なのだ。
「次は、ちゃんとお前を守るからな……もうこんなケガなんてさせねーから」
「うぅーん……大変嬉しいけど、私個人としては次がないことを祈るよ」
また殺人が繰り広げられようとするなんて冗談じゃない。
まず、ケガを負うような事態になんか遭遇したくない。
「あ、そうだ。大和田くん、ずいぶん私のことで悩んだみたいだから、お詫びにお粥食べさせてあげる」
「いるかッ、ひとりで食えるッ!」
「照れなくていいのにー」
「照れてねぇッ!」
軽く睨み合って、そして同時に吹き出した。
ああーっ、よかったー。元の大和田くんに戻ったー。
「ねぇ、ねぇねぇ、おいしい?一口ちょうだいっ」
「仕方ねーな……一口だからな」
「うんっ」
だけど私は……大和田くんのこの硝子みたいに脆い心に、少し不安を覚える。
きっと、些細なことで壊れてしまう。
簡単に、崩れてしまう。
なんていうか……大和田くんは、スクラッチみたいなやつだ。
下地に本体が、綺麗な色があるのに、わざわざ黒いクレヨンでそれを塗りつぶす。
彼の場合、黒いクレヨンを削ったそこに残るのは……。
「流火、どうした」
「ううん、なんでもないよ」
何が、残るんだろうね。
私は君の上辺を削るつもりはないから……分からないままなんだ。
きっと。
prev /
next