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死に逝く青春のサイレント

歌うだけで、褒められていた。まるで歌だけが、歌声だけが、私の存在価値であるかのように。
私立夢ノ咲学院、声楽科。期待の新星。期待の新入生。十年に一度の逸材。どれだけのありきたりな言葉が、どれだけのありきたりな期待が私に課せられた事だろう。誰もが勝手に期待しては、何の変哲も無いありふれた高音の歌声に「噂ほどではなかった」と勝手に失望していく。
幼い頃は、私自身歌うことに対して何も考えていなかった。ただ、歌うことが好きだった。私が歌えばみんなが笑顔になってくれた。「本当に綺麗な歌声ね」なんて褒めてくれた。それだけで私の存在理由は十分だった。それだけで私が生まれた意味があるような気がして、私自身も好きなことが出来て満足だったはずだ。全てが完成されている。だとすれば、どこからが間違いだったのだろう?どうして、こんなにも歌うことが億劫になってしまったのだろう。歌声を披露して勝手に幻滅されるようになったのは何故だろう。夢ノ咲学院に入学してしまったから?私自身に才能が無いのに思い上がってしまったから?いいや、私にはなんとなく分かっているはずだ。
夢を見てしまったからだ。
夢を見て、私の人生は狂ってしまったのだ。
周りが求めるように、周りが舵取りするように、素直に周囲の流れに身を任せていれば良かったものを、私は夢を見てしまった。私は、私の歌声を過信していた。私は歌える仕事がしたくて、私は歌にまつわる仕事に就きたくて、私は私の好きなことを将来の夢として定めて、願ってしまった。冷静な頭で考えれば、顔から火が噴き出してしまいそうなくらい恥ずかしくて、稚拙な、まさに子供が思い描くような夢だった。私は大人になってもずっと歌っていたいと願った。きっとそれが間違いだった。
世界は自分が思うよりも意外と都合良く出来ているものだが、己の能力を過信してはいけない。そんなものはゴミ箱にでも投げ捨てておけばよかった。私はきっと驕っていたのだ。私は自分の才能を天性のものだなんて勘違いをして、何か特別なものだと思っていた。無責任にも周囲の人間も、私の歌声を褒めてくれていたから、背中を押された気でいたのかもしれない。いいや、周囲を悪役にするのも何か違う。
勝手に期待をした。勝手に失望した。周りも有り触れたこの高音にがっかりしたかもしれないが、何より誰より私に失望したのは、他ならぬ私自身だ。
歌に、音楽にまつわる将来を希望したのは私自身で、この選択は自己責任だ。けれど、才能がないことが分かってしまった凡人にはこの場所はあまりに酸素が薄い。生きるのに適した環境ではない。歌うのが大好きだった私は、自身の力量を思い知って歌うことが億劫になっている。

「赤城さん、本当に綺麗な歌声だよね」
「子供の頃から合唱やってたんでしょ?」
「だから歌い方が分かってるんだ。お手本みたいな歌声だよねえ」

赤城璃音。それが私の名前だ。
お手本のような歌声。それが私の評価だ。
夢ノ咲学院、声楽科二年。それが私の立ち位置だ。
家には私よりも幼い弟や妹たちがいて、決して裕福とは言えない家計の中、両親にまさしく一生に一度のお願いと言わんばかりに頼み込んで入学した夢ノ咲学院も月日が経つほどに自分の才能の無さに嫌気が差す日々。そろそろ潮時だろうか、なんて思いながら見慣れた校内を歩き回る。才能が無いのなら、才能が無いなりに努力はしている。毎日ランニングや腹筋、発声練習も欠かさない。けれど、絶対的な才能の前に凡才の努力はあまりに無駄だと思い知る。
評価はされている、上手で綺麗な平凡な歌声だと。万人に好かれるような、大衆向きの安っぽい歌声だと。私の歌声は本当に綺麗で、誰からも受け入れられるだろうと。しかし、誰かの心に残るような、そうした感動を与えられるような歌声ではない。ああいやだ、いやだ。夢なんて見るものではない。さっさと覚めるべきだ。自分に才能が無いことを分かっているのにこの場所に縋り続けるのはあまりに愚かしいではないか。
才能の有無。努力では埋まらない生まれながらの神様からの贈り物。
これは別に、声楽科内に限った話ではない。この夢ノ咲学院は多くのタレントを輩出しているが、中でも特に力を入れているのは男性アイドルだ。かつての伝説と言われた明星や生きる伝説として未だメディアに露出している氷鷹、確か教師にはスーパーアイドルだった佐賀美陣なんていうのもいたはずだ。アイドルにさほど詳しくない私でも名前くらいは知っているアイドルを生んだ学校、もとい、アイドル科。時折アイドル科のライブをクラスメイトに誘われ見に行ったこともある。実に美しかった。私とは違う。才能の塊。確か、ヴァルキリーというアイドルだったか。アイドルというよりは舞台のようだったけれど。どちらにしても歌もダンスも演出も、格段にレベルが違うのだと思い知らされる。
脳内に反復する舞台と歌声に苛まれながら、私は人気の無い通りを進んでいく。気分は現在の天気のようにどんより曇天だ。
終わりの見えない道を進んで辿り着くのは、例のアイドル科のある校舎。アイドル科はれっきとしたアイドルが所属しているだけあって、厳重な警備が敷かれている。アイドル科以外の生徒がおいそれと入り込まないように。
けれど、そこにもこんな抜け道が存在する。元々あった抜け道、というよりは新しく作られた通り道といった方が正しいだろうか。声楽科とアイドル科を直通で繋いでいる道を、とある人物が作ってしまったのだ。通り道に行き止まりが見えて、私は袋小路となった正面の白い壁に触れる。白い壁は女の私が触れただけで簡単に動いた。俗に言う隠し扉というやつだ。隠し扉を抜ければ、辿り着いたのはアイドル科の図書室だ。

「……誰も、いないわね?」

誰もいないことを確認して、私は図書室の奥を目指して進んでいく。これから向かう「部屋」の主は図書室には滅多に人間がやってこないから安心していいなんて言っていたが、それでも警戒するに越した事は無い。アイドル科ではない人間が見つかったら、大事になる。私だけではなく、その「部屋」の主にも迷惑がかかるだろう。いいや、きっと彼なら「教師の弱みを握っているから大丈夫」なんて言うかもしれないが。大丈夫だとしても、私が大丈夫じゃない。

「さて、と。ここらへんだったかしら……」

図書室の奥の方にある本棚を叩けば、それが合図かもしくはスイッチであるかのように、私がちょうど立っている周辺の地面が動く。最初はこのファンタジー小説のワンシーンにでもありそうなトンデモ事態に戸惑っていたものだったが、「部屋」の主のことを考えるとすぐに納得がいって馴れてしまった。それもどうかとは思うが。いいや、然し。何せ相手は「魔法使い」だ。

「おおーい、夏目。来たわよ」

図書室の地下書庫に隠された部屋の扉を開くと、化学薬品と何かが焦げているようなにおいが嗅覚を突く。部屋の主は何やら怪しげな薬品を試験管に入れて満足げに微笑んでいたが、私の声に気がつくとそこからあっさりと視線を逸らした。そして私のことを歓迎するように大袈裟に両手を大きく広げてみせる。すっかりこの部屋の主のようだ。

「やあ、璃音ねえさん。ようこそ、ボクの秘密の部屋へ」
「なにが秘密の部屋か、夏目が勝手に作ったんでしょう」

私と同じ赤い髪を揺らしている、まだあどけなさを残している綺麗な顔をした少年。夏目。逆先夏目。アイドル科の一年生として入学してきた私の従弟だ。彼の親はその界隈でも有名な占い師で、夏目も才能を引き継いでおり、彼は悩み相談なんて名目で生徒から頼りにされていることもあるらしい。
占いや魔術に長けた家系の血を濃く受け継ぐ彼だ。私はてっきり夏目も叔母さんと同じ占い師としての道に進むのだと思っていたものだから、まさかアイドル科に進学してくるなんてと聞いた当初は驚いたものだったが。しかし考えてみれば夏目は幼少期から様々な習い事をしていたし、アイドルの養成学校のようなところにも通っていた。彼の両親曰く、占い師とアイドルを融合させた存在にしたい、とのことだったが……同じ血が通っていても、才能人の考えることは私にはよく分からない。

「いいんだヨ。許可は貰っているんだかラ」
「脅したの間違いじゃなくて?」
「人聞きが悪いナァ、弱みは握っているのは事実だけどサ。ねえさんはねえさんでボクに相談事をしにきたんでしょウ。そんなに捻くれてると聞いてあげないヨ」
「捻くれているのはきっと血筋の問題ね。相談事っていうか、まあ、聞いて貰いたいことがあるからなんだけど……」
「うン、ねえさんは特別に無償で何の見返りもなく聞いてあげよウ」

どうぞ、と夏目は私にソファに座るよう勧めてくれる。よく分からない魔導書のような資料や同じくよく分からない薬品に溢れたこの無法地帯の部屋の中でも、ソファはまだ治安が保たれている。おかしな悪戯が仕掛けられていないことを確認しながら私はソファに座った。
夏目は皮肉屋に見えて意外と分かりやすい子で、心を許している人間に対しては無邪気な子供のような表情を見せる。彼の手にはいつの間にか試験管ではなくティーカップが持たれている。やけに自信満々に差し出されたカップを私はお礼ひとつ伝えて受け取った。この部屋の風貌は怪しいが、この紅茶の中に怪しげなものが入っていると邪推するほど私は人間不信ではない。夏目がなんだかんだ私に懐いてくれているように、私にとっても夏目は可愛い従弟だ。弟分だ。……最近はどうやら。彼にもたくさんの「にいさん」が出来たようだが。

「ん、美味しい……。夏目、紅茶淹れるの得意だったのね」
「ふふっ、でしょウ、とっておきの魔法をかけてあるからネ」
「……「にいさん」から教えて貰ったの?」
「さあてネ」

にいさん、という単語にやけににこにこしながら夏目は私の隣に腰掛けた。

「そういえば、璃音ねえさん。今日って合唱会があるんじゃないかっタ?」

そういえば、なんて言いながらも夏目のそれはおそらく確信犯だ。いきなり本題、核心を突いてきている。夏目は聡い子だから、何故私がここに来ているのか、何を話そうとしているのかも分かっているのだろう。
美味しい、と感じた温かい紅茶が一気に冷え切って味がしなくなる、というよりも、酸味が強くなった気がする。酸っぱいものを口に含んだ時の顔をして、私は夏目のオレンジかかった黄色い瞳と目線を合わせる。

「サボりよ」
「悪い子ダ」
「学校に自分の城を作ってるやつに言われたかないわよ」
「……まあネ。真面目で努力家の璃音ねえさんが合唱会をサボるなんて重症じゃなイ。なあに、そろそろ潮時なノ?」

潮時。夏目の言葉に私の心臓は大きく跳ねる。なんて嫌な言葉を使うんだと紅茶だけではなく体中の体温が冷めていくのが分かる。しかし夏目の言っていることは正しい。ここらへんが潮時だと、自分自身でも分かっている。もう答えは出ていた。大好きだった歌を辞めたいと思うのも、合唱会を欠席したのも、もう全てを投げ出す直前ということだろう。
今日は、それを話しに来た。
私の中ではおそらく歌を、学校を辞めることを既にどこかで決めていて、その未来は変えようがないのだろうけれど、その決意を確固たるものにしたかったのだろう。ひとりで悶々として考えていたこのもやもやを、誰かに聞いて貰いたいたかったというのもある。

「ねえさんってそペシミストだったっケ?」
「自分の才能の無さを自覚してからね。特技を歌ですって言っていた頃の私を殴ってやりたいくらいよ」
「才能云々はともかく、ねえさんの特技が歌なのは事実だと思うけド」
「……この前、アイドル科のライブを観た。あんなのを観たら、感じたら、恥ずかしくもなるわ。あれを観て自分が音楽を頑張っていこうと思えるほど私は図太くない」
「ねえさんがこの前見に行ったライブって確カ……」
「確か、Valkyrieってユニットだったと思う。クラスメイトがやけにお熱でね、私は付き合わされた形なんだけど……すごかった。最近のアイドルってすごいのね。それとも夢ノ咲学院のレベルが高いのかしら?」
「まさか!この学院のレベルは今や右肩下がりダ。宗にいさんが、宗にいさんたちが特別なだケ」
「なんであんたが得意げなのよ。ああもう本当に。にいさん、なんて懐いちゃって」

確か、五奇人、だったか。アイドル科の中でも特に優秀なアイドルを集めてユニットにしたとかなんとか。何故か夏目もその五奇人に数えられている。確かに変わり者ではあるし掴みどころもない子だが。それとも私が知らないだけで夏目にもあんな凄まじい舞台を作ってしまうアイドルの才能があるのだろうか。なんだか従弟にも負けてしまったようで、悔しい。いいや、虚しいのだろうか。
私の表情がどんどん曇っていくのを見て、夏目は呆れたようにため息をついた。

「ねえさん。璃音ねえさんの歌は素敵だヨ。確かに教科書通りのお手本みたいな歌声だけどネ」
「トドメを刺すな」
「だってそれは事実だもノ」
「魔法使いなら私が喜ぶ魔法のひとつやふたつかけてご覧なさいよ。夢を見させて欲しい。夢を見たかった。12時を過ぎる前に夢から醒めちゃったの」
「璃音ねえさんったら随分荒んでるネェ」

からからとした笑みを落として、夏目は目を細めている。笑い事ではない、と若干むっとなりながら私は夏目の方を見た。てっきり馬鹿にしているような笑みを浮かべているものだと思ったら、随分と優しげな微笑みを浮かべている夏目と目が合った。

「大丈夫」

夏目の声音が若干変わる。同じ血統が流れている私には夏目の魔法は効かないはずだが、その声音には何故か囚われる。精神的に不安定になっていたからだろうか。この自己嫌悪を、やり場のない情けなさを誰かに聞いて欲しかったからだろうか。気を抜いたら子供のように泣きじゃくってしまいそうだった。さすがに従弟の手前、情けない所なんて見せられないが。

「璃音ねえさんの歌声は、甘くて、透明な、じわじわ浸透していく歌声。その歌声に囚われている人間は既にいるんだから」

いつものクセが強い喋り方ではない時の夏目は、なんというかいつもとは違う。この口調の時は、この声音の時は、所謂夏目の本心のようなものの表れで、渇いた心に雫でも落とされるみたいだった。魔法にかかる、とはこんな感覚なのだろうか。真剣に考えてみたところで、すっかり夏目のペースに持っていかれてしまったことに気がついて、我に返る。

「それって夏目のこと?」
「さあ、どうだろうネ」

先ほどまでの悲壮感は今ではすっかり落ち着いてしまった私は取り繕うように捻くれた言葉を発する。夏目も同じように飄々とした言葉で返してきたものだから、私の捻くれはそのまま真っ直ぐ受け流され淘汰されてしまったが。夏目はやけに自信満々で、得意げだ。声には出さないけれど「少しは元気になったでショ?」とでも言わんばかりの顔。悔しいが、ありがたいことに、少しは元気になってしまった。
結論は変わらないが。遅かれ早かれ、私は夢ノ咲学院を、声楽科を去るだろう。これは決意表明のようなものだった。クラスメイトや教師や家族なんかにはとても言えないから、夏目に白羽の矢が立っただけのこと。自信喪失した私をよしよしと慰めて無責任に「あなたには才能がある」と背中を突き飛ばされることもなく、魔法のような言葉を落とし込むだけでこのお話はおしまいだ。
けれど、元気にはなった。夏目がなにもかもが上手くいく魔法をかけてくれた訳ではないだろうに。きっと喉元に溜まっていたこの濁りを言葉という音にして出すだけでよかったのかもしれない。
やけに清々しい晴天の昼下がりのような気持ちで、私はソファから立ち上がる。

「じゃあ、私はもう行くからね。声楽科の生徒がこんな所にいるのがバレたら従姉弟とはいえ、怒られる。……いいや、こんな隠れ家を作って好き勝手してる夏目も怒られるわよ。ほどほどにしなさい」
「うん、でも上手くやるから大丈夫サ。また来てネ、ねえさん。璃音ねえさんならいつでも大歓迎」

たまに見せてくる弟らしく可愛い笑顔を浮かべた夏目は小さく手を振って私を見送ってくれた。
夏目が勝手に作り上げた地下室から、これもまた夏目が勝手に作り上げた秘密の通り道を使って、私は外に出る。アイドル科の生徒や教師に会わなかったことに安堵しながら進めば、いつの間にか景色は見慣れた声楽科の通りに変わっていく。ようやく自分の現実に戻ってきた感覚を取り戻せば、さっきまで曇っていたはずの天気が快晴に変わっていることにようやく気がついた。すっかり晴れてしまって……と手のひらを目元に翳しながら、私は空を見上げる。綺麗な青色をしていた。青空の下で、私は一体いつ退学届を出そうかと考えていた。次の合唱会が終わったらにしようか、その方が、区切りが良いだろうか。

「あ、あの、すみません……っ!」

その場で立ち止まって思案していた私は唐突に声を掛けられて、ハッとする。思わず物思いに耽ってしまったが、ここは講堂や校舎、練習室などを繋いでいる通路だ。立ち止まっていては通行の邪魔になる。よく考えれば分かることなのに、今の私はどうにも抜けてしまっている。現実に戻ってきたはずなのに。

「ご、ごめんなさい。通行の邪魔に……」

慌てて振り返ると、そこには青年が立っている。夢ノ咲学院の制服を来ている青い髪の男子生徒がどこかそわそわとした面持ちで私のことを見ている。癖の強い髪なのか、青い色の髪の毛はあちこちに跳ねているが、鬱陶しいとは思わなかった。個人の感じ方かもしれないけれど。それよりも表情だ。とても優しい顔をしていると思った。そしてそれ以上に、優しい声をしていると思った。長い言葉を聞かなくても分かる、たった数個の言葉でも分かった。深い眠りに落ちたくなるような、子守歌みたいな音だった。こんな人、声楽科にいただろうか?それとも演劇科や普通科の生徒だろうか?
ともかく、私が通行の邪魔という訳ではなかったようだ、というのは彼の次の言葉で分かることになる。

「これ、落としましたよ」

そう言いながら青い髪の青年が差し出したのはハンカチだった。黄色い鳥が端に刺繍されたハンカチ。ああ、私のものだ。スカートのポケットから中途半端にでも出てしまっていたのだろうか。青の青年からハンカチを受け取って私は申し訳なくなる。せっかくこの快晴のように清々しい気持ちになったというのに、どこまでも私という人間がどうしようもないやつに思えてくる。ハンカチを落としただけでどうしてここまで落ち込めるのか我ながら不思議でたまらない、いくらなんでもその時の空気に流されやす過ぎると我ながら苦笑した。

「あのう……?」

ハンカチを受け取っても黙ったままの私を、青年は怪訝そうな表情で見つめていた。そうだ、せっかく拾ってもらったのに黙ったままなんて感じが悪いじゃないか。私は慌てて青年に向かって微笑んだ。

「ハンカチ、拾ってくれてありがとうございます」
「いいえ、これくらい。……それより、赤城さん」
「え?」

私は思わず素っ頓狂な声を上げる。瞳を大きく開いて丸くさせているのが、自分でも分かった。知らない人間から名字を呼ばれたら誰だって戸惑う。呆気にとられている様子の私に青年はきょとんとした様子で小首を傾げているが、本来その反応をしたいのは私だ。

「……赤城璃音さん、ですよね?」

念を押すように青年は私の名前を、今度はフルネームで呼んだ。尋ねているような、疑問符のついた言葉だったが、その声音から察するに確認という訳でもなさそうだ。彼は私が赤城璃音であると確信している様子だ。

「もしかして、体調がすぐれないんですか?なんだか元気がないみたいですし」
「え。いや。うん、少し……?」

そうではない。そうじゃない。青年は何故か私からの返答が来ると安心したように微笑んでいたが、私の今の感情は名前をつけるとしたら困惑だ。そしてこの困惑の原因は間違いなく、目の前のこの青年だ。
何で私の名前を知っている?
どこかで会ったことがあるのか?
まさか。私は彼のことを知らない。知らないはずだ。声楽科に彼のような人がいた記憶も無い。どこかで会った記憶も無いはずだ。彼の優しげな声を聞いて、そうそう忘れるはずがない。

「ああ、そうだったんですね!今日の合唱会、赤城さんの歌声は聞こえないし姿はないしで、何かあったのかなって心配だったんです。体調が優れなかったんですね……ゆっくり休んでください。次の合唱会では赤城さんの歌声を聞けるのを楽しみにしていますから」
「あ、ありがとう……え?いや。待って。君は一体」
「え?……ああ。俺は……」

そして彼はにっこりと笑う。落とされるような笑顔とは、きっとこういうものを言うのだろう。一見、天使のようだと思った。天上には彼のような穏やかな笑みを携えた天の使いがたくさんいるに違いない。しかし、彼は天使ではないことを次の瞬間思い知らされる。いいや、間違ってはいないのかもしれない。実は悪魔よりも神や天使の方が人間を殺している。

「俺は青葉つむぎです。赤城璃音さん、あなたのファンですよ」

次の瞬間。この瞬間。その瞬間、全身中の血液が凍っていくような感覚に襲われた。目の前の青年は、私なんかのファンだという物好きな青年は、青葉つむぎは、まるで世界の慈愛を詰め込んだような穏やかな微笑みを浮かべたまま私にとんでもないことを告げてくれた。
これは死刑宣告に近い。私にとっても、彼にとっても。

「そ、う……」

歌声どころか、言葉すら上手く出ない感覚に襲われて、口の中の水分が一気に空っぽになったみたいだ。私は懸命に笑みを浮かべていたつもりだが、もしかしたら引きつっていたかもしれない。分からない。自分がどんな顔をしているのか分からないが、目の前の彼が嬉しそうな表情のままであることを見る限り、死んではいないようだ。なんとか取り繕えている。手先も喉も、すっかり温度を失ってしまったけれど。

「あの俺、本当に赤城さんの歌声が好きで……、赤城さんのソロパートが聴けたら、その日はすごくラッキーだなって思えるんです!赤城さんの綺麗な歌声が、届くソプラノが、すごく心地良くて、だから、あの、今度の合唱会は赤城さんの歌声が聴けるように、楽しみにしていますからっ。体調、お大事にして下さいね、歌うんですし、喉も大切にしてください。あっ、そうだ……!」

青葉つむぎは、本当に私のファンらしい。目が爛々と輝いて、その大人しそうな見た目からは想像もつかない弾丸のような言葉。丁寧に私は彼の言葉に被弾していく。殺されていく。大丈夫。まだ笑えているはずだ。表情が死んだなら、目の前の彼が気がついておかしな空気が流れるはずだ。
お構いなしに私を射撃し続けた彼は、ふと思い出したように自分の制服のポケットをがさごそと何やら探る。彼が私に向けて差し出したのは、薬局やコンビニでもよく見るのど飴だった。

「よかったらこれ、赤城さんに」
「これって」
「のど飴です。今日のラッキーアイテムだったんですけど、こういうことだったんですねっ。まさかこうして赤城さんと話すことができるなんて。今日はツイてます」

嬉しそうな青葉つむぎは、私にのど飴を押しつけると満足そうに「それじゃあまた」なんて暢気に挨拶をしてこの場を去ってしまった。取り残された私は、青葉つむぎから渡されたハンカチとのど飴を両手で握り締めながら、どんどん体温と表情が死んでいくのを自覚していった。
きっとこの瞬間をもって、私の歌声を紡ぐ為の声帯は血液と一緒に凍ってしまった。声を、歌声を発しようとすると喉の異物感に襲われる。何も無いはずなのに。何も出来ていないはずなのに。私はこの瞬間から歌えなくなった、いいや、歌うことを辞めてしまった。
私の歌声を好きだなんて言ってくれる物好きがいることを知っても、歌う気持ちは綺麗さっぱりなくなってしまった。むしろ、私の歌声が好きな他人が、ファンがいることを知ってしまったからだ。きっと、ファンという存在によって自身を鼓舞する人間だっているのだろう。応援してくれる人がいるから頑張ろうというのは、モチベーションの維持というところでも当然存在する。私はそうではなかった。

「辞めよう。今日。すぐにでも」

どうせ辞めてしまう。どうせ歌わなくなる。なら、もう少しだけ続けようと未練がましく、キリの良い辞め時を探すのは不誠実だ。ちゃんと夢を追いかけている人間に対しても、ファンだと言ってくれたあの青葉つむぎに対しても。他の人間がどうかは知らないが、私はそうだ。歌ってくれるかもしれない、という残酷な希望など私自ら砕くべきだ。最初から、歌うことは辞めようと決めていたのだ。それなら早いほうが良い。早く、早く。
私の足は迷いなく声楽科を進んでいく。名残惜しさなどまるでない。いつもならば合唱会が行われている講堂の方角からは、伴奏のピアノと美しい歌声が聞こえてくるはずだが、今の私には何も聞こえなかった。
ここは静寂。死に逝くカナリアの断末魔すら響かない。

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