パルフォン | ナノ

左様なら、日常はもう要らない

一緒に仕事をしていて、一緒に夕飯を摂って、一緒の家に戻ってきて一緒に寝る。明確に付き合っていると言葉にしたことはないが、普通に考えれば付き合っている同然のその関係が、三刀屋真司は心地よかった。三刀屋は藍堂さよりのことが好きだったから。大切だったから。態度と行動で示してきたつもりだったから、わざわざ言葉にする必要はないと思っていた。それが驕りだというのであれば、それはきっと、その通りなのだろう。藍堂の心が悲鳴を上げていることに三刀屋は気がつかなかった。永遠にこの曖昧な関係が続くと思っていた。

「なあさよ、今日の夕飯どうする?」
「あ、すんません。今日家で食べようと思ってて。妹が部活でなんか賞を獲ったらしくて、そのお祝いっす」
「あー……ああ、そうか。それは、大事だな。……送ってくか?」
「平気っすよ。自宅自体は近所ですし」
「……そうか」

藍堂の口調はいつも通りのはずなのに、何故かいつもより淡々としていてあっさりとしていると思った。三刀屋は何故か痛むはずのない左腕の関節がぎしぎしと痛むような感覚と急激な喉の渇きに襲われた。
そうした時の嫌な予感というのは、大抵当たる。

「ああ、そうだ、三刀屋さん」

事務所を出て行こうとした藍堂はふと振り向き、三刀屋を真っ直ぐ見つめる。その目は三刀屋を見ているはずなのに、何も映っていないようにも思えた。

「ここって退職届のテンプレとかあります?そういうのってやっぱりバイトでも一ヶ月前に出すんすか?」
「……は?何言ってんだ、お前」
「いや、だから辞めるんですってば。わたし一応今年で大学も終わりなんで、そろそろ就職について考えないと……っても、大体目処はついてるんすけど。ああ、なんで、お世話になりました、三刀屋さん。三刀屋さんにはたーくさんお世話になったんで、ちゃんと菓子折とか用意しておきますね。三刀屋さん甘いもん好きでしたよね?」

藍堂は笑っているが、やはりどこか淡泊だと思った。三刀屋としては、藍堂のそんな些細な変化の理由を考えることが出来ないくらい、内心取り乱していた。
三刀屋は体のあちこちで引き起こされている痛みを無視しながら、何かを言おうとする。何か言わなければと思った。唇が震える。声まで震えそうだった。口元は無理に笑おうとして、歪んでいるかもしれない。

「……何言ってんだよ。さよ」
「何って。だから言葉通りっすけど」
「……分かった、改めて話そう。ちゃんとだ。今日は妹の祝い事なんだろ?明日は暇か?意味が、分からねえよ。いきなり。だからちゃんと話を」
「ちゃんと話すって、何をです?」

言うことは全て言ったし、意味が分からないこともないはずだ、と藍堂は困ったような表情で訴えるように瞳を細めていた。
三刀屋だって、実際には意味が分からない訳ではなかった。言葉自体の意味は勿論分かっている。理解は出来るが、納得が出来ない、というのが感覚としては近い。
きっと、三刀屋が言わんとしていることも藍堂は本当は分かっている。分からないと放棄するには、三刀屋と一緒にいる時間が長すぎた。それでも、なんとか知らないふりをして、阿呆のふりをして、なんとかやり過ごしてしまおうと思ったのに。三刀屋の反応は思いの外大袈裟だった。
……本気で。
本気でこの人は自分を好きだったのだと否応なしに分かってしまい、藍堂は無性に悲しくなった。いいや、これは憐れみだろうか。
三刀屋が言わんとしていることは、とどのつまり、こういう事だ。
「好き合っていただろう」と。
三刀屋真司は藍堂さよりが好きだったし、藍堂さよりは三刀屋真司が好きだった。
だから三刀屋は藍堂の時間を他の誰よりも多く独占してきたし、藍堂も同じように三刀屋のすぐ側にいた。可愛がられて、大切にされていることが嬉しかった。
明確にひとつ問題があるとしたのならば、二人の関係には当てはまる言葉がなかった事だ。間違いなく二人はお互いを好き合っていたが、「好き」のたった二文字を伝えることはなかった。頑なに。なんとなく付き合っている、ずるずると引きずられて、流れたような、歪な関係。元々不安定だったのだと藍堂は思う。三刀屋はそれでも良かったのかもしれないが、藍堂はそうではなかった。これは価値観の相違だ。それはいけないことではないし、きっと普通の恋人もそうしたもので別れるのだと思う、なんて藍堂は軽い気持ちで考えていた。

「さよ」

縋るような顔で三刀屋が藍堂を見つめる。そんな顔で見られても困る、困ってしまう。どうしようもできないと藍堂は思う。
藍堂の三刀屋への想いはすっかり伽藍堂になってしまった。

「あー、なんつーか……疲れたんすよね」

ほんの少しの情くらいならあったかもしれない。人間としては悪い人ではないのは分かっているし、上司として尊敬もしていた。けれど、これを恋として考えたときに、あまりにも不毛だと気づいてしまった。気づかなければ、自分は大学の卒業後もここで働いていたかもしれないし、三刀屋とも曖昧な関係も続いていたかもしれない。まあ、そうはならなかったのだが。
三刀屋は藍堂の言葉に何も言わず、ただ驚いていた。何を驚いているんだと、藍堂は無性に腹が立つ。あんたが。あんたがそんなんだから。分からず屋。呪詛に似た空っぽの感情は藍堂の内側を黒く染める。けれど、それも今日で終わりだ。名前のなかった疲れる関係も今日でおしまい。

「三刀屋さん、確か言ってましたよね。怪異は、名前を欲しがるって。名前もない質の悪い霊たちは自分の存在を確立させる為に怪異としての名前を欲しがるって。それ、怪異だけじゃなくて人間も同じっすよ。例えばお七夜……人間の赤子は生まれてから7日間はまだ神様の子どもで、7日目に名前を付けられれば人間の子どもになる。まあ、これは昔の子どもは今より死にやすかったから早死にしても母親が気に病まないようにって配慮もあるんでしょうけど。お七夜に比べれば自分たちの関係は長続きしたと思いません?わたしだって、名前が欲しかったんすよね。三刀屋さんとの関係に。自分たちは恋人ですか?恋人じゃないですか?明確に好意の言葉はないけれど、それでも付き合っているような距離でしたね。最初はそれでもいいかなんて思ってたんすけど……やっぱり限界です。疲れちゃいました。将来のことがちらつくんですよね。三刀屋さんに聞いてみれば良かったのかもしれないですけど……まあ、それを後回しにしてたわたしも悪いっすね。すんません。でも、それも、この関係も今日で終わりっすから」

まるで、最初からその台詞が用意されていたかのように藍堂の口からはたくさんの言葉が溢れた。藍堂自身こんなに鬱憤が溜まっていたのかと驚いた。きっと三刀屋なら、ちゃんと全て聞き取れただろう。今の三刀屋がどこまで理解してくれているかは分からないが、どうでもいい、なんて考えてしまった。

「さよ……」
「はい」
「お前が大切だ」
「はい」
「お前のことが好きだ」
「はい」
「……言わなくても伝わっていると思っていたのは俺の驕りだった」
「はい」
「悪かった」
「その言葉を、もっと早く聞けたら良かったっすね」
「さよ、」
「わたしも、好きでしたよ。三刀屋さん」

さよ、と名前を呼ばれるのに被さるようにさようならと藍堂は笑う。さようならと言ったところで明日以降もバイトとして事務所には顔を出すことになるのだろうが、少なくともこの関係の終わりに告げる言葉としては適切だ。
ああこれで。
終わった。
藍堂は妙に清々しい気持ちで踵を返す。そのまま事務所を出て、真っ直ぐ自宅へと帰る……それさえ出来れば。後はまた日常に還るだけと。思った。藍堂に悪いところがあったとしたのなら、それはきっと、三刀屋と同じだ。三刀屋の心が悲鳴を上げていることに、藍堂は気がつかなかった。言いたいことを言うだけ言って、それで三刀屋という男が納得してくれるという油断があったのは、おそらく優しい三刀屋しか知らなかったからだ。人間として三刀屋のことを尊敬していたからだ。

「さよ」
「!?」

どん、と扉を叩き付けるような大きな音が響いた。
藍堂の手は扉のドアノブを掴んでいるが、押すこともできなければ引くこともできなかった。見れば、扉の下の方で三刀屋の足が力強く押さえつけている。扉を強く叩いたような音は、三刀屋が扉を足蹴にした音だと藍堂は理解した。

「なんすか、三刀屋さん。わたし帰るんすけど」
「……」
「ちょっと、三刀屋さん。聞いてます?」
「……」
「ちょっと、三刀屋さんってば。……三刀屋さ、」

もう一度。藍堂は振り返った。
……振り向かなければよかったと思ってしまった。そうした逸話は沢山あるはずだった。ノアの息子ハムだったり、イザナギとイザナミだったり、オルフェウスだったり、見てはいけない或いは振り返ってはいけないと先人たちは告げていた。それでも藍堂は振り返ってしまった。
三刀屋と顔が見合った藍堂は今にも呼吸が止まりそうだった。なんてことはない。三刀屋は、それはもう優しげに微笑んでいた。不気味なほど優しく笑っていた。それでも藍堂が恐怖心に駆られてしまったのは、三刀屋の瞳はこれっぽちも笑っていなかったからだ。感情がない。強いて言うのならば、静かな怒りにも見える。藍堂は少なくとも見たことのない三刀屋の姿だった。

「さよ」
「……はっ、」
「さより」
「……っ、」

何か言おうとすれば、喉の奥から水分が枯れる。上手く喋れない。三刀屋が目の前にいるだけなのに、酷く酸素が薄い。

「なあ、さよ。俺はお前が本当に大事だよ、なんだったら今ここでパルフォン様を呼んでみたって良い。そうしたら証明になるだろう。俺があいつに連れて行かれれば、お前もすぐに連れて行かれる。ああ、そこでようやくひとつになれる」
「……あんた、ふざけてるんすか?」
「本気だ」
「……みんとさんに助けられた分際でなんでそういうことが簡単に言えるんすか。ふざけてるとしか思えないんすけど。かなり不快っすよ」
「お前が分からず屋だから」
「どっちが!」

最初に分からず屋だったのはそっちの方だ、と藍堂は思わず手が出る。左の拳を固く固く握って、そのまま勢いをつけた拳は三刀屋に向けられる。けれど、何かを殴るような音はしなかった。三刀屋の顔面にも、藍堂の拳にも、痛みはない。代わりに、藍堂の左手首が潰れるのではないかというくらいにきつく握り絞められていた。三刀屋の右手だ。殴る、というその寸前で三刀屋が止めたらしい。
悔しそうに不快感を表しながら歯を食いしばる藍堂の目の前に、優しく笑った三刀屋の顔が近づいてくる。酸素が、もっと薄くなる。呼吸をすれば三刀屋に息が当たるのではないかという程、彼の顔が目の前まで来て、
藍堂は思わず息を止めてしまった。

「選べよ、藍堂さより」

色のない三刀屋の瞳が細められる。藍堂の視界には、三刀屋の姿を映すことしか許されなかった。

「パルフォン様の中でひとつになるか、それとも俺との関係をやり直すか」
「……脅迫じゃないっすか」

なんとでも、と言うように三刀屋は自嘲気味に笑うと藍堂の唇に自分の唇を押しつけた。事務所の扉を壁にして、藍堂は苦いファーストキスの味を覚えながらずり落ちていった。

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