パルフォン連載 | ナノ

闇夜に烏、雪に鷺

(6/8)


あの日の夜。分かれ道で離れた後、さよりが三刀屋と話す機会は無かった。
次の日さよりが大学終わりに事務所に赴いた時には三刀屋は既に早引きしており、島根の実家に戻ったという事を彼の同僚から聞いた。そして、本当に軽くだったが、三刀屋の家庭事情についても聞いてしまった。いつかの居酒屋で三刀屋が両親と妹の話をする際に口を噤んでしまった理由が今なら分かる気がする。勘当同然で家を出て上京し、オカルト関係の仕事に就いたという三刀屋のやさぐれた遍歴は年下の学生バイトに進んで話す事では無い。
三刀屋がいない期間、さよりは思考の隙間を埋めるように「みんと」ーーいいや、三刀屋真衣のSNSアカウントを気がついたら覗き見ていた。呟きの端々に兄を気にかけている様子がある。十年近く会っていない兄との再会を願って彼女も都内の大学に入学したという彼女の親愛はなんと深い事か。三刀屋が常に右手の中指に身につけていた指輪も、どうやら彼女からの贈り物らしい。右手の中指に指輪をはめるのは、「邪気から身を守る」もしくは「魔除け」の意味があるらしい。だから三刀屋は無事だったのかもしれない。少なくともこんな仕事に就いている三刀屋にはぴったりの意味とアクセサリーだ。
助けられなかった。救えなかった。三刀屋はそこには一切触れずさよりの無事を安心してくれていたが、さよりの心は未だ曇り空のようにどんよりとして薄暗い。せめて三刀屋といくらか会話をすれば落としどころを見つけられたかもしれないが、その肝心の三刀屋がいつ帰ってくるのかが分からない。今はどうしようもない。
今日も三刀屋はいないのだろうか。三刀屋がいないのをいい事に、資料や不要書類の置き場所にされている編集長のデスクを思い出しながら、さよりはため息をついた。
大学が終わり、事務所へ向かう足取りは重い。

「おつかっさまーっす!」

せめて表向きだけは明るくいようと声を張り、さよりはCULTOの扉を叩く。

「おう、お疲れ」
「……え」

返って来た声は、さよりが待ちわびていたものだった。聞きたいと思っていたはずの声が聞こえてきた事に、一瞬幻聴かと疑い無意識に両耳を塞ぐ。音が籠もる。正常。幻聴では無い事が分かった次に疑われるのは、幻覚だ。決して広いとは言えない事務所の中央の通路で仁王立ちをしているのは、この事務所の主がいない間に荒れ放題になったデスクを片付けさせている人間。恋しいと思っていたはずのその人物は相変わらず人相が悪くて、再会の感動よりも狼狽える気持ちの方が強くなる。

「……何突っ立ってんだ。お前もさっさと働け、給料泥棒になりたかないだろ?」
「いっ、いや、だって、三刀屋さん……!」

おずおずとした様子で編集部の輪に入っていくさよりは、彼の、三刀屋の前まで歩く。見上げた三刀屋は平然とした様子で、変わらず左袖が虚空を切る事以外はいつもの三刀屋だ。
会いたかった人だ。言葉を交わしたかった人だ。けれどもいざ目の前にすると、何を言って良いのかが分からない。三刀屋と話せばあの日の夜についていい落としどころを見つけられると思っていたのだが。声帯を奪われたように、さよりは何も言えなかった。
三刀屋の方はいつも通り編集長然とした態度だ。左腕が無くなっている事を他者に追求すら許さず、事務所の主としてこの日常に戻ってきた。
日常だ。いつも通りを、三刀屋は求めているのかもしれない。ならば、さよりもその意向に従うべきと感じた。

「何か手伝う事あります? 皆さんと同じように資料の片付けからっすかねえ」

デスクに好き放題置かれた資料をある程度まとめて抱える。
にんまりとした笑みのさよりをしばらく見つめた三刀屋は何かを考えるような素振りを見せ、緩く首を左右に振った。

「いいや、お前はこっちだ。さより」
「……」

三刀屋にそう呼ばれた瞬間、さよりは手に持っていた書類をぱさっと床に落とした。信じられないものを見るような瞳を三刀屋に向けて、恐怖か悪寒か空になった手を小さく震わせる。無残に床に落とされ散らばった書類に対して編集部の面々は「さよちゃん!」と言いながら慌てて落ちた書類を拾っていく。
編集部のひとりがさよりを呼ぶ様子を見た三刀屋は、さよりの失態に苦言を溢すでも無く、ああ、とやけに物分かりが良さそうな顔を浮かべる。

「……そうか。さよって呼んだ方がお前は落ち着くか?」
「そうじゃねえですけど!? 三刀屋さんずっとわたしの事藍堂って……!」
「まあいい。お前はこっちだ、さよ。話がある」
「ちょっと三刀屋さん!」

言いたい事だけ言って事務所のドアノブに手をかける三刀屋にさよりは戸惑いながらもついていく。少しは三刀屋の事を理解できたと思っていたのだが、前言撤回だ。やはり全然分からないと頭を抱える。
CULTOの編集部を出て、三刀屋の横に並ぶ。三刀屋の一歩はさよりからしたら大きく、若干小走りで追いかける。その様子に気がついたらしい三刀屋は歩く速度を少しだけ緩めてくれた。同じ歩幅に追いつくさよりを見つめる三刀屋の視線は優しげなものだった。
三刀屋がさよりを連れてきたのはあの日の夜と同じ事務所近くの公園だ。ベンチに座らされ、ちょっと待ってろと言われる。
春の木漏れ日がそよ風に運ばれてきて、このままぼーっとしていたら眠ってしまいそうだった。湿っぽい自分の気持ちとは反対に、失われたものへの補填は何もないまま、世界はこれが正しいとでもいうように穏やかだった。

「さよ」
「あ、三刀屋さん、戻ってきた」

未だその愛称で呼ばれるのは慣れない。しかし三刀屋はもう自分の事を藍堂と呼ぶ事はないのだと、そう、直感的に思った。
あの日の夜から三刀屋の心境に何かしらの変化があったのは確実で、自分への呼び名が変わった事もそのひとつの表れなのだろう。

「ほら」

三刀屋が差し出してきたのは缶コーヒーだ。当然、右手で差し出されている。

「……んと、三刀屋さんのは?」
「そんな顔すんな。ちゃんとあるから」

困ったように笑う三刀屋が、上着のポケットから自分の分の缶コーヒーを取り出す。

「ただ片手で開けるのにまだ慣れなくてな。悪いんだが、さよ開けてもらってもいいか?」
「それくらいお安い御用っすよ。つーか、そういう簡単な事からわたしにできる事なら何でも言って下さい。わたし三刀屋さんなら喜んで介護しますよ」
「介護ってお前な。……いいや、介護か。ありがとう」

三刀屋から受け取った缶コーヒーを開けて、三刀屋に返す。ふたりでベンチに座り、珈琲を飲んでいると和やかな空気が流れる。しかし、これから話す事が決して和やかなものでない事も分かっている。
先送りにしていた話題は、夕暮れの優しい公園にはあまりにも不釣り合いだ。

「……島根、帰ってきたんだ」
「はい、三刀屋さんの同僚の人から聞きましたよ」
「両親とも会ってきた」
「あー……どう……っした?」
「自分が思ってたよりもずっと普通だった。こっちが拍子抜けするくらい……普通に話して、普通に接して、普通に里帰りって感じで。真衣が居ない事以外全部普通だった」

真衣。
三刀屋真衣。
さよりは全然知らないその人を、何故かよく知っているように思ってしまった。彼女のアカウントを、呟きを暗記するくらいまで見ていたからだろうか。座談会で彼女の人柄を見たからだろうか。いいや、それだけではない。きっと、きっともっと前から、三刀屋が示してくれていた。
甘い珈琲も。
兄のような心配性も。
面倒見の良い瞳も。
三刀屋は彼女と同年代のさよりの中に三刀屋真衣の姿を重ねていたのだろう。おそらくは、無意識で可愛がってくれていた。

「……いい妹さんっすね。三刀屋さんの事ずっと気にかけてみたみたいで。三刀屋さんに会いたい一心で映画の主演も引き受けちゃうんですし」

果たして自分は、三刀屋真衣の代わりになれていただろうか。未だ代替品として三刀屋の心の穴を埋める事ができているだろうか。三刀屋が自分に真衣の面影を見ていたと気づいても、さよりは不思議と空しさは感じなかった。むしろ可愛がってもらっていた理由が明確になって妙に頭が冴えている。

「いい妹。そうだな、俺と違って、まともな妹だったよ」

苦虫を噛み潰したような顔をする三刀屋は、あの日話せなかった事を語る。三刀屋はさよりが妹について尋ねようとするとしばしの沈黙の後に言葉を濁してきた。まるでさよりには話したくないと言うように。しかし、今は違うようだ。三刀屋はさよりの方に顔を向けながら、口を開く。
両親とは折り合いが悪かったが、妹とは仲が良かった事。三刀屋の指輪は妹がくれたものである事。さより自身がなんとなく察していた三刀屋とみんとの関係は彼自身の言葉によってはっきりとした形を持っていく。

「真衣の事は大切だったよ、大切な妹だった。だから、あいつみたいにまともな人間は俺みたいなのと関わらない方がいいと思って……連絡も絶ってたのにな」

その方が妹の為だと思っていた。自分が去る事で、彼女は優しい日だまりの温度の綺麗な世界で生きていられると思ったのだろう。三刀屋は自分勝手な人だとさよりは思う。さよりにも覚えがある。頼れるのは自分だけと言ってくれたのに、いざパルフォン様襲来の際には「通話を切れ」と突き放してきた。三刀屋はあれで自分を守ろうとしたつもりだろうか。
結局は彼の自己満足と身勝手で、突き放された側の事などこれっぽっちも考えていないのだ。真衣の気持ちも、さよりの気持ちも。三刀屋も真衣を失った事でようやく気がついたのだろう。

「後悔してます?」
「……少しな」

ここまできてまだ強がるのかとさよりは口元を歪ませるが、これはどちらかというと格好をつけたいのだろう。大人だから。男の人だから。三刀屋真司は面倒くさい。けれど、真衣の喪失で改められた思考は、さよりにとっても分かりやすく言葉にされる。
三刀屋の黄昏色の瞳の中に、さよりの姿が映るーーその視線に含まれる感情は庇護に近い。しかし庇護というにはあまりにも、苦しそうに見えてしまった。

「これからは、間違えない。これからは後悔しないように……大切なものを絶対に手放さない」

熱っぽい苦しさを孕む瞳は、それが幻だったかのようにいつもの彼の瞳に戻っていた。背中に走っていた緊張が気のせいだというように薄く溶けて、三刀屋の前向きな言葉にさよりは安心する。

「いいじゃないっすか」

乗り越えるのも、引きずるのも、きっとどちらだって苦しい事だ。少しでも三刀屋の虚無が埋まれば良いと思った。三刀屋が幸せで居てくれたらきっと、三刀屋真衣だって本望のはずだ。きっと彼女はそういう人間だ。
しかしどこか客観的なさよりに三刀屋は呆れ顔を浮かべる。

「おいおい、他人事だな。お前の事も含めて言ってるんだぞ、さよ」

呆れているが、しかし、優しげな顔。さよりがいつも人相が悪いと冗談っぽく言っている風貌は今ばかりは薄らいで、何故か哀しくて泣いてしまいそうになるくらい優しい顔だ。三刀屋の瞳と同じ夕暮れが差し込んで、余計に暖かな雰囲気を持っている。
どうしてそんな哀しそうで、優しげな顔を向けられるのかさよりには理由が分からなかった。けれどそれも一瞬で、思考を動かせばすぐに理由は見つかる。ひとつの考えに至る。
それは三刀屋の感情など少しも理解していない、さよりの中で辿り着いた解釈だ。
そうだ。三刀屋は自分に妹の姿を重ねているのだ。きっとそれはまだ続いている。三刀屋真衣が居なくなってしまった分、三刀屋は余計に妹の影を求めるだろう。これからも自分を妹と同じように可愛がって、大切にするだろう。それを不思議だとは思わない。それで三刀屋の心が少しでも埋まるのならいいかとすら思う。
どうしてそんな風に思うのか。
どうしてそこまで三刀屋に入れ込むのか。
きっとさよりが三刀屋を好意的に捉えていたからだ。
男だとか女だとか、大人だとか子供だとか。三刀屋はそうしたもので扱いを変えない。対等な人だった。個として接して、厳しくて甘い彼の事を、さよりは気に入っていた。

ーーあ、わたし、三刀屋さんの事が好きだったんだ。

ここに来て、それに気がついてしまった。いいや、助かったというべきだろうか。自分の好意と三刀屋の好意は種類が違う。さよりが異性として彼を意識しているのに対して、三刀屋は妹のように思ってくれているだけだ。その延長で、可愛がられている。妹のように思っている女から恋慕を向けられたとして、そんなの困るだろう。
ああ、初めまして。そして、さようなら、恋心。
こんなのは無謀な恋だ、諦めてしまった方がいい。

ーーわたしがすべきなのは、完璧な三刀屋真衣の影になる事だ。

心臓が、胸が痛い。悲鳴を上げているようだ。正直驚いた。自分にこんな感情があったなんて。しかしさよりは知らないふりをする。その感情は、恋心は不要なものだと。自覚してしまったそれを無かった事に。恋心を伽藍堂の部屋に閉じ込めて、さよりは不毛な恋を終わらせる。三刀屋と視線を絡ませるのも、苦しいと思わなかった。
さよりが三刀屋に向けて笑いかけると、彼は安心したように表情を和らげる。

「戻るぞ、さよ」

そう言う三刀屋は近くのダストボックスに空になった缶コーヒーを投げ捨てると、さよりに向けて右手を差し出す。一瞬、どういう意味の手だろうとさよりは戸惑うが、差し出されているものならばと恐る恐る三刀屋の右手に自分の左手を重ねる。大きな掌に握り返されて、自分の選択が間違いで無かった事にひとまず安心する。
手を繋ぎたかったのか。何故だろうと考えて、おそらく三刀屋が実家を出たのは真衣が小学生くらいの時だろうと気づく。三刀屋の中の真衣の姿が幼い時のままならば、手を繋いで帰るのもまあ、普通の事なのかもしれない。

「はあい」

恋心を閉じ込めたさよりは、綺麗に笑って三刀屋の隣に並ぶ。
その瞬間の。隣に並ぶさよりを見つめる三刀屋からの視線にさよりは気がついていなかった。だから、それがどうしようもない齟齬を来すという事が、さよりには分からなかった。
歯車が狂う。ボタンが掛け違う。三刀屋の瞳には、確かに見守るような慈しみの色が映る。しかしさよりを見つめるその視線が庇護の対象に向けるものなのだとしたら、あまりにも劣情を含みすぎている。これは、そんな美しくて綺麗なものではない。
三刀屋真司からのさよりへの感情は、妹への投影を既に失っている。
これは、藍堂さよりが三刀屋真司からの好意に気がつけなかっただけの話。



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