パルフォン連載 | ナノ

雨夜の月

(5/8)


スマホの着信が鳴り響いたのは、春にしては随分と肌寒い風が吹く夜だった。
春休みと云う事で編集部のバイトも午前から夕方での勤務となり、久々の夜の余暇時間を過ごしていたさよりは、その着信音に瞳を丸くさせる。着信を告げたのは最近リリースされた通話、配信用アプリのパルフォンだ。使用しているのは基本的に若者ばかりで、友人に勧められる形でさよりはインストールしていた。
だから、スマホの画面に表示された名前を見て、驚いてしまったのは仕方ない。

「え、三刀屋さん?」

さよりの頭には、ぽん、と人相の悪い三刀屋の顔が思い浮かぶ。あの人がこんな真新しいアプリを使う印象などなかったから、唖然としてしまった。アイコン画像が初期設定のまま変更されていない所はなんだか三刀屋らしいと思ったが、それ以上に三刀屋がこういうアプリを使う事の方が信じられない。
別人だろうか? パルフォンは連絡帳やSNSの連携で知り合いかもしれない相手を検索する事が出来る。同姓同名の人かも、と考えたところで三刀屋なんて珍しい名字がそう何人もいる訳ないと苦笑した。
気まぐれかもしれない。さよりが春休みに入ってから暫く、最近の三刀屋の様子は何かおかしかった。どこか上の空だったり、何かを一心不乱に調べていたり、話をしていたと思ったら急に周囲を訝しげに見渡したり……何か思い悩んでいる様子なのは分かっていたが、それを訊こうとすれば三刀屋は上手い事話をすり替えてはぐらかすものだから、結局三刀屋の様子がおかしい事の理由は分からなかった。
ともかく、三刀屋真司と表示されているのなら、これは本人に間違いない。若干の戸惑いを持ちつつも、さよりは通話ボタンを押した。
画面がビデオ通話へと切り替わる。通話に出るまでは半信半疑だったが、そこに映った人物は紛れもなく三刀屋本人だ。

「……よう……藍堂。俺だ……三刀屋だ」

通話が繋がった事に三刀屋は何故か安堵しているようだ。電話に出るまでにそこそこ時間がかかってしまったかと心配したが、三刀屋が気にしている様子はない。

「三刀屋さん、どうしたんすか。パルフォンなんて三刀屋さんが使いそうもないアプリで連絡してきて」
「お前に連絡したのは、その……あれだ。……編集部で、……面倒事が起きたからだ」

三刀屋の口調はどことなく歯切れが悪い。もしかしてその面倒事に自分を巻き込むつもりなのだろうかと思ったが、三刀屋のバツが悪そうな表情を見ていると、とても断れるような雰囲気ではない。
三刀屋は何か考え込みながら、どう伝えようかと悩んでいるように小さく唸る。

「……ライターのヤツが明日公開予定の記事を落としやがった」

やがて絞り出されたその言葉になるほど、とさよりは苦い顔をする。編集長の三刀屋には頭が痛くなるような話だ。どのライターかは分からないが、多分こっぴどく叱られたはずだ。

「明日には到底、間に合わん。だが、更新はしないといかん」
「わたしに代打で記事を書けって事っすか?」
「お前の仕事ぶりは把握してるけどな、さすがにバイトにそこまでの尻拭いはさせねえよ。……藍堂、お前ネットでの調べ物、得意か?」
「ああ、ネタは既にあるんすね」
「察しが良くて助かる。……藍堂には、最近ウワサになってるホラー映画について調べてもらいたい」
「ホラー映画?」
「公開中止になったいわく付きのホラー映画があるんだと。で、適当に情報まとめて俺に報告してくれ。俺がそれをテキトーに記事にするから。……早くな! 早く」
「は、はあ……」
「映画のURLは貼っとく。ある程度調べたらまた話しかけてくれ。じゃーな」

一方的な用件を伝え、三刀屋との通話は一旦切れる。通話が切れた代わりに、アプリのチャット画面には三刀屋が送ってくれたであろうサイトのアドレスが記載されていた。やけに慌ただしい、とさよりは苦笑するが事態が事態だ。仕方ないのかもしれない。さよりからしたら、明日記事が更新されない事よりも、明日公開予定の記事を落としたライターの様子を見る方が恐怖だ。そのライターの精神衛生の為にも面白い記事にできるような情報を集めなければと思った。
三刀屋から送られたアドレスにアクセスすると、画面は黒背景になり、おどろおどろしいフォントと画像が表示される。

「……絶叫配信」

なんとも直球というか、B級なタイトルだ。
どうやら絢瀬大学という私立大のサークルの自主製作ホラー映画らしい。テーマは配信、都市伝説、現代ホラー……配信画面のみで物語が進行するという臨場感は配信動画が盛んな昨今の流行に添っている。
どうやらパルフォンを使用した儀式によってどんな質問にも答えてくれる「パルフォン様」を呼び出し、その配信主である「みんと」が怪奇現象や呪いに巻き込まれていくという内容。物語のあらすじとしてはありがちで、掴みやすい。津島昇太という人間が監督、脚本、製作を務め、映画の中でパルフォン様を呼ぶ人物みんとが主演女優としてサイトには紹介されている。みんとの本名は、載っていなさそうだ。
このよくありそうな素人の自主製作映画の何がいわく付きなのかとさよりは瞳を細めるが、答えはサイトをスクロールしていけば分かった。
こうした映画には宣伝用としてSNSアカウントが存在している。現に直近の呟きがリンクに繋がれており、否が応でも視界に飛び込んできた。

『助けて』
『春なのに部屋めちゃくちゃ寒いですが……あと異臭が笑』

さよりの瞳孔が、猫の瞳のように細まる。スマホの画面に釘付けになるように、自然とスマホと顔の位置が近付いた。
明らかに正常ではない呟き。三月十四日を最後にアカウントは更新されていない。映画の演出だろうか? 更に過去の呟きを確認しようとしたところ、それよりも先に、SNSのリンクの下に貼られているページに気がつく。

『「大切なお知らせ」をご確認ください』

自然とそのページのリンクをタップする。素早く切り替わったページには、こう書かれていた。
「絶叫配信」公開中止のお知らせ、と。

「……諸事情により、公開を中止……、……今回の件について監督と女優が失踪したなどという根も葉もない噂が一部で流れておりますが……そのような事実は一切ありません……。……わざわざ言及するから勘繰られるんじゃ……?」

絢瀬大学映画研究会の対応はともかく、これでは然も監督と女優が失踪したと言っているのと同じだ。人間は隠された事柄をつついて憶測だけで盛り上がるのが好きだ。事実はどうであれ、面白そうな非日常がそこに転がっていれば根も葉もない噂だって立つ。残念ながら、自分たちはそういうものを記事にしている。
そのままSNSのアカウントも確認する。
絶叫配信の公式SNSは先ほどの違和感を覚えた呟き意外はこれといっておかしいところのない宣伝や告知ばかり。

「公式サイトのどこかに監督とみんとさんの座談会……隠しページのパスワードはみんとさんの好物を……座談会……と、隠しページ?」

絶叫配信のサイトはちゃんと見たはずだが、これといっておかしいリンクはなかった気がする。座談会という事はよくある形式のインタビューというやつだろうし、ふたりの情報を集めるのに最適かと思ったのだが、その隠しページとやらがどこにあるのかも分からない。これは三刀屋に後で訊いてみる事にして、一旦保留だ。
続けてさよりが見に行ったのは、絶叫配信のアカウントがフォローしている主演女優……みんとのアカウントだった。
こちらの方が、正直きな臭い。

『本当にぱるふぉんさまが』
『なんでパルフォンだけ』
『電話も繋がらないんだけど』
『えドア開かない』

映画の公式アカウントと同じく三月十四日を最後に更新が途絶えているSNSアカウント。明らかにその日の呟きだけがおかしかった。それより以前の呟きは、どこにでもいるような普通の女子大生といった感じで、診断系のアプリで遊んでいたり講義や日常について話していたり。イチゴが好きだと女の子らしい写真やエピソードを載せていたり。さよりも自分のアカウントでは確かにこういう他愛もない事を呟いていると親近感を覚えるのに対して、最後の呟きだけが異質だ。

「本当にパルフォン様が……って、まるで映画でやった事が現実になったみたいな言い方じゃん。……映画の演出としてなら完成度が高い、でも、映画が公開中止ならわざわざこんな演出する理由もない」

こめかみに人差し指を当てて、ぐりぐりと、ぐりぐりと皮膚を回す。思考を回そうとして、やはり独りで考えるには限度があった。パルフォンにまつわる都市伝説など聞いた事もない。電話に関する怪異ならば、メリーさんやさとるくんあたりが挙げられるが、少なくともさよりの知識にはパルフォン様なるものは存在しない。
ひとまず確定している情報を三刀屋に報告しにいこう。この情報を送ってきたのは三刀屋の方だ。
怪異というのは時代の流れによって生まれたり、進化したりするものである。新しい怪異ならば、彼の方が詳しいかもしれない。
一旦ブラウザを閉じて、さよりはパルフォンを開く。履歴の一番上にある三刀屋の名前を選び、通話をかけると三刀屋はすぐに出てくれた。

「あっ、もしもーし、三刀屋さん、お待たせしました」
「いやぁ、お前の連絡が待ち遠しかったぜ。それで……いいネタはあったんだろうな」

三刀屋はうっすらと微笑んでいるが、どこか疲れているようにも見えた。いや、焦燥感、だろうか。
待ち遠しかった、なんてらしくない言葉を使った三刀屋の瞳の奥はいつもより鋭い気がする。

「大学のサークルが製作してる絶叫配信っつーB級っぽい映画っしたよ。最近の流行っぽく配信系の内容で、映画に出てくる怪異の名前はパルフォン様」
「パルフォン様……このアプリと一緒か」
「三刀屋さん知ってます? どんな質問にも答えてくれる代わりに呼び出した人間を呪う怪異」
「……いいや。そんな都市伝説……聞いた事もないな」
「……そっすか、じゃあパルフォン様についても詳細調べないとっすね」

三刀屋にも分からないとなると完全にお手上げだ。新しい怪異なのだとしたら、ゼロからの調査になる。明日には更新しなければいけない記事なのに、間に合うだろうか。三刀屋は適当に記事にするからと言っていたが、彼は変に凝り性な所がある。少なくとも、パルフォン様の詳細が分かるまでは終わらないだろう。

「ああ、それで、公開中止になった理由とかも分かったか?」
「失踪みたいっすよ。監督と主演女優の。名前、テキストで送りますね」

ビデオ通話を繋げたまま、さよりはテキストを打ち込む。打ち込まれた監督と女優の名前を見て、三刀屋の瞳が少し細まった。気がする。

「ああ、さんきゅ。津島昇太に……みんと……。女の方はいかにも芸名だな」
「映画と女優さんのSNSアカウントも調べたんすけど、どっちも三月十四日に更新が途絶えてます。なんつーか……そのせいで失踪説に拍車が掛かってるというか」
「実際、それを正解とするなら監督と女優は同じ日に失踪したんだろ。……例えば、本当にパルフォン様に襲われたとかな」

映画の内容が少しでも分かればいいのだが、あらすじから読み取れる事は少ない。パルフォン様はどんな質問にも答えてくれて、呼び出した人間を呪う以外にこれといった情報が無い。サイトの人物紹介欄を見ると、「トモダチとツナガルのが好きらしい」とこれまた抽象的な事しか書かれていない。やはり、新たな情報を探すのなら、呟きにもあった「座談会」とやらを覗くしかないだろう。

「藍堂。パルフォン様や映画についてもっと情報を得られそうな話題はあるか?」
「あーっ、はい、それ! 座談会ってのがあるらしいっすよ」
「ほう……それ、もう見てきたか?」
「いや、隠しページってやつにあるらしいんすけど……」
「隠しページだぁ? 今時懐かしいな」
「や、それなんすけど。隠しページってなんすか?」
「なんだ、藍堂は隠しページ知らないのか……ああ、お前ゆとり世代か?」
「さとり世代っすね」

話には聞いた事があるが、実際にどういうものなのかさよりは知らない。三刀屋の世代ならきっと詳しいはずと思っていたが、予想通りだった。

「昔のサイトは……こっそり画像や小さい文字にリンクを貼ったもんだ。俺も昔は、親に隠れてオカルトサイト見てたな。島根のクソ田舎は回線遅くて……」
「……三刀屋さんって、島根生まれなんすか?」
「あー……いや、こんな話はどうでもいい」

一瞬、三刀屋の表情が居酒屋で語り合った時のように柔らかく穏やかなものになったが、すぐに我に返ったように力なく首を左右に振る。個人の事情を知られたくないというよりは、そんな事をしている時間はないといった様子だ。

「公式サイトのどこかに隠しページへの入り口があるんだろ? 適当にサイトの画像とかをクリックしてみたらいい」
「なるほど。了解っす」

ならば三刀屋のアドバイス通りに適当に画像をクリックしてみようと、さよりが頬を綻ばせた所で、それは起きた。
ざざ、と耳障りな音がスマホから響く。

「その隠しページを読んで……こいよ……藍堂」
三刀屋の声に、雑音が混ざる。映像が砂嵐のように乱れる。
「え?」

画面が砂嵐に覆い尽くされて、通話は勝手に切れた。明らかに、正常な動作ではない。けれどパルフォンは何事もなかったかのように、淡い水色と桃色のグラデーションが掛かったホーム画面を映している。
唐突に途切れた事もあって三刀屋に通話をかけ直すか、一瞬迷ったがーー。

「……座談会、調べなきゃ」

ーー迷うだけで、かけ直す事はしなかった。
唐突に走った雑音も映像の乱れもきっと気のせいではないが、今はそれどころではない。記事のネタを集めて、三刀屋に報告しなければいけない。
あるいは、また好奇心が疼いたのだろうか。ここはまた、不可思議事への入り口だとさよりはどこかで勘付いたのかもしれない。
再度絶叫配信のサイトに飛んで、さよりはひたすらそれらしい画像や文字をタップしていく。
隠しページへの入り口は、主演女優みんとのアイコン画像だ。パスワードを求められるが、これは確かみんとの好物だと絶叫配信の公式SNSに書かれていた。みんとの好きな物も、彼女自身のアカウントに書かれていた。イチゴだ。パスワードを打ち込めば、隠しページに、座談会に辿り着く。
先ず、読んでみる。
内容としては監督と女優のただのやりとり、といった様子で、撮影の時の苦労話やみんとという人物についてフォーカスが当てられている。みんとが映画に出た理由やその善良な性格について触れている部分もあるが、それ以上にさよりが気にするべきなのはパルフォン様についての情報だ。

「……パルフォン様が、実際に存在する都市伝説? わたしも三刀屋さんも知らないっての……」

ふたりがパルフォン様について話している文を何度も目で追って、頭の中で反芻する。率直な感想としては、信じられないような都市伝説だ。
津島曰く、パルフォン様は現実に存在する都市伝説だそうだ。
「配信で鶏の心臓を捧げて「パルフォン様おいで下さい」とお願いするとコメント欄に怪異が現れる」。
映画の為に噂を脚色したり追加したりしたらしいが、大本はそうらしい。しかも撮影には本物の鶏の心臓を使い、本物の心霊スポットで撮影をしたというのだから、サークル活動の範疇を越えている。その情熱というのか固執というのか、意識の高さには舌を巻く。

「撮影で使った心霊スポット……別のサイトに……」

座談会の一番下に貼られていたリンクも続けて確認する。一昔前のようなサイトに繋がり、目に悪そうなフォントと色が羅列していた。
心霊スポット探索サイト「怨霊」ーー二○○二年五月二十四日に更新されているのは、絢瀬大学裏にある小さな神社についてだ。二◯◯二年。さよりの生まれた年のホームページなのだから、古くさいと感じてしまったのも当然だった。
この神社はどうやら飢饉や戦で亡くなった者への慰霊の為に建てられたらしいのだが、とある恋人の心中事件によって心霊スポットへと変貌していったらしい。「これで大切な人とずっと一緒にいられる」という遺書があった事から縁結びのジンクスが立てられた頃はまだマシで、今現在は霊の魂の溜まり場なんて称されているようだ。
一応トップページに戻るリンクにも触れてみたが、元のサイトは削除でもされたかエラーを吐き出すだけでこれといった発見はなかった。
これ以上の進展はないだろうと、一旦スマホのホーム画面に戻ったさよりはパルフォンを開こうとして固まる。先ほどの通話が唐突に切れた時の様子を思い出していた。
何故三刀屋はパルフォンを使って連絡してきたのだろう。普段使っているメッセージアプリじゃいけなかったのか? さよりは普段三刀屋が使用しているメッセージアプリで試しに「三刀屋さーん」と一言テキストを送ってみた。返事はない。通話もかけてみる。応答はない。
諦めてパルフォンで再度ビデオ通話をかけてみる。何故か、今度はすぐに繋がった。

「あ、三刀屋さん、出た」
「……藍堂。よう……早く……だ」
「三刀屋さん? あの……なんか通信悪いっすか?」
「いや……なんでもない、気にするな」

心なしか、三刀屋の顔色も悪い気がする。気のせいだろうか。ビデオ通話の画質のせいでそう見えるだけと言ってしまえばそこまでかもしれないが。

「情報は得られたか? パルフォン様について……早く教えてくれ……。儀式に必要なものとか……何でもいいからよ……」

さよりとの会話もそこそこに、三刀屋はとにかくパルフォン様について知りたがる。知りたがる事は、何もおかしな事ではない。さよりだってその気持ちは分かるし、好奇心を持つのは人間として以上にオカルトマニアとして正しい。しかし、今は何か違う気がした。オカルトについて語っている時の楽しさのようなものが、三刀屋からは感じられない。なんだろうか、この感覚は。どこかで味わった。そうだ、トンネルの怪に触れた時と同じ空気がする。違うのは、ああいう事態に深入りするなと言った三刀屋の方が深入りしていこうとしている事だ。

「……儀式。ああ、えっと、なんでも大学近くの神社で撮影としての儀式を行ったらしいっすよ。怨霊ってサイトに載ってたれっきとした心霊スポットらしいっす」
「怨霊……ああ、あのサイトか……?」
「知ってるんすか? ……って、そっか。ああいうサイトって三刀屋さん世代っすもんね」

隠しページといい、前時代的なサイトといい、三刀屋本人が調べた方がもっと早く済むのではないかと思う事ばかりだ。

「そんで、儀式の内容なんですけど……配信中に鶏の心臓を捧げて「パルフォン様おいで下さい」ってお願いするとコメント欄にパルフォン様が現れる仕組みらしいっすね」
「鶏の心臓……まるで黒魔術だな」
「本物使ったらしいっすよ。なんつーか……狂ってるというか、思い切りがいいというか、ただの怖い物知らずの馬鹿なのかもしれないっすけど」
「ハハ……リアル志向だな……。それで本当にパルフォン様を呼んだ……か」

三刀屋の呆れたような顔と、声に重なるように、ざざっと先ほどと同じような雑音が流れる。

「バカな事をーーしーー」

砂嵐が流れる。
さよりが慌てて「また」と呟くのと、通話が切れるのは同時だった。しかし、今回はただ通話が切れた訳ではなかったようだ。
さよりのスマホからは、無機質な着信音が響く。相手は分からない。画面の文字は文字化けしていて、読めない。通話を切ろうにも、終話ボタンのアイコンがどこにもなく、通話に出る以外の選択肢が与えられていなかった。

「……みとやさん?」

恐る恐る、さよりは通話ボタンを押す。文字化けしているだけで、相手は三刀屋かもしれない。そんな希望を持っていたが、しかしそれはすぐに潰える。ビデオ通話ではなく通常の通話画面のまま、向こう側からは沢山の人間の唸り声が重なったような不協和音が聞こえてくる。魑魅魍魎が跋扈するのなら、きっとこういう声を上げるだろう。

「……た……すけ……て……」

不協和音の中ではっきりと聞こえてきたのは、若々しい男の声だ。若い割には覇気が無く、恐怖に震えた情けない声をしている。

「だ、誰?」
「俺は……津島昇太……」
「津島昇太……って、は、監督の……?」

さよりの瞳が大きく開く。好奇の目と、愕然とした表情を浮かべる。まさか、失踪した本人からの接触があるとは思わなかった。

「今……パルフォン様に……捕まって……て」

しかも、怪異に連れ去られた人間からだなんて。津島昇太の様子を見るに、彼は恐怖でそれどころじゃないだろうが、さよりからしたら不可思議事のど真ん中を味わっている彼をほんの少し羨ましく思う。

「でも……パルフォン様に許してもらう方法が……あるんです……! ただ……それが何だったのか……。お願いです……きっと……アイツがサイトにページを残して……」
「アイツって誰の事っすか……?」
「アイツ……七実の隠しページへの入り口は座談会ページの……下……。パス……の数字は……「怨霊の更新日」……」

それだけ伝え、津島昇太からの通話は切れた。通話履歴にも残っていない。かけ直す事は不可能なようだ。パルフォン様に捕まった人間がどの異界にいるのかは分からないが、ともかく向こうからの連絡は出来るらしい。
また、隠しページだ。もとい、スタッフページだろうか。関係者以外が立ち入りできないようにパスワード制限がかけられているページが絶叫配信のサイトにあったはずだ。どうせ編集ページなどに飛んでいくのだろうと思っていたが、さよりの想像とは違ったようだ。
津島昇太に言われた通り、座談会の下にあるスタッフページをパスワードを入力して開く。
そこには、「伊藤七実」という女性が残したメッセージが綴られていた。簡単な自己紹介の後に、津島昇太への嘆きが書かれている。映画を撮るのに注文が多いだとか、例の神社での撮影に異を唱えても聞き耳を持たなかったとか。
だが、それ以上にさよりが目を凝らしたのは、七実の告白だった。「パルフォン様をでっち上げた」というどうしようもなく期待外れな真実が、こんなにもあっさりと告げられてしまった。ベースはこっくりさん、後は適当に不気味な小道具を付けただけ。それでおしまい。……おしまいのはずだった。彼女がこのページを書いているのは三月十五日とあるが、この時点で既に津島昇太もみんとも連絡がつかず、行方を暗ませている。パルフォン様は私が適当に作ったはずなのにと弱音を吐き、不安を露呈する姿は文面からでも痛いほどに伝わってきた。そして七実の文章は終わりに近付く。

『そういえば、昇太が脚本を書く時、パルフォン様に設定を追加してたっけ。』
『確かその設定は……パルフォン様に捕まった人が、■■を■られるとそ■人の■■な■までーーー』

まだ、文字化け、いいや、文字が読めなくなっている。タップしても選択しても何かが変わる訳じゃない。何かが反応する訳じゃない。何も伝わらない、その追加された設定とやらにさよりが目を細めていると、どこからか視線を感じた。
思わず背後を振り返るが、誰も居ない。何も居ない。しかし、気のせいではない。確実に視線を感じるのだ。ならばどこから……と考え、視線は自然とそちらへ向く。まるで、呼ばれるように。
画面だ。
いつのまにか文字が消え、画面いっぱいに現れた女とさよりは目が合う。目が、合ったのだろうか? 沢山の目だ。皮膚の中に沢山の目玉が存在している。その女は、幾人もの人間を融合して人型のかたちを取っていると表現するのがしっくりとくるだろう。瞳だけではない。髪の毛もよく見ればいくつもの手が重なってそれらしい形をしているだけであるし、結わえられた髪には人のまぶたや口のようなものが雑に縫い付けられているようにも見える。縫い付けられている。無理矢理繋がっている。顔の皮膚も下手くそな手術痕のように糸が縫い合わされている。おぞましい、女の顔。何か既視感がある。そうだ。

「パルフォン……」

パルフォンのアイコン。イメージキャラクターの愛らしい女の絵が、さよりの脳内に思い出される。だとすれば、この何人もの人間が繋がり、融け合ったような姿をしたおぞましい怪異が。

「あなたが、パルフォン様?」

そう呟いた瞬間、スマホの画面が切り替わる。おぞましい画像は消えて、パルフォンの着信画面が映される。着信を寄越してきたのは、分からない。また、文字化けしている。
この怪異現象にも慣れてきた。いいや、トンネルの怪と同じように、きっと既に入り込んでしまっているのだ。ならば、触れていたいと思うのがオカルトマニアの性。三刀屋は深入りするなと言うだろうか。いいや、その三刀屋が深入りしている素振りがあるのだ。さよりの指先は、気がつけば通話ボタンを押していた。

「ああ! よか……た……。まだツナガって……」

また魑魅魍魎のような不協和音を奏でながら、弱々しい男の声が聞こえる。先ほど連絡を寄越してきた津島昇太だ。

「津島さん……っすか?」
「思い出したん……です……パルフォン様から解放されるには……「○○をお返し下さいパルフォン様」と三回唱えればいい……。例えば俺なら……「津島昇太をお返し下さい」って……」

彼が提示してきたのは、あっさりとした解決法。しかし、都市伝説の対策らしいものだった。例えばポテトチップスだったり、例えばべっこう飴だったり。例えば同じ言葉を繰り返したりだとか。都市伝説の怪異には手軽な対抗策が存在するものだ。

「でも……本名じゃないと……効果……が無くて……。俺や七実はともかく……あなたにみんとさんの本名を教えな……いと……」

みんとの名前を、彼女の本名を聞く事は叶わなかった。
何度となく聞いた雑音に邪魔をされる。

「……さんを助ける為には……本名が……必要……」

雑音の後には通話が切れるーーのだが、今回は少し違った。
ビデオ通話の画面に「戻った」。
砂嵐の後に画面が切り替わり、そこには戸惑ったように心配そうな顔をした、人相の悪い男が映っている。

「……あ、れ。三刀屋さん……?」

三刀屋とのビデオ通話に戻っている。先ほど切れてしまったはずなのに。その後で津島昇太と通話をしたはずなのに、然もずっと通話が続いていたと言わんばかりに。三刀屋はさよりの様子を不思議そうに見ている。

「おいどうした? 様子が変だぞ。さっきも急に通話切れたし……」
「ち、違うんすよ。今も通話、切れてたんすよっ。それで津島さんから……絶叫配信の監督さんから連絡があって!」
「……何?」

一瞬三刀屋は驚いた顔をするが、すぐに表情を和らげる。

「そうか……監督はパルフォン様に捕まってるかと思ったが……。通話……出来なくは、ないんだな」

それは、安堵の声だ。
その瞬間、ああそうか、この人は優しい人だったとさよりは思い出す。オカルトをただの消費するコンテンツとして捉えていない。怪異の理不尽に襲われている人間への救いを願うような人だ。願うだけで、一寸垂らされた蜘蛛の糸が切れてしまえばそれを仕方ないと諦視出来る人でもあるのだが。

「あ、あの……それで、三刀屋さん。パルフォン様について、なんすけど」
「……何か新しい事でも分かったか?」
「はい、監督さんが教えてくれた隠しページに、書かれてました」

さよりは伊藤七実の綴った文章を掻い摘まんで話す。ここで重要なのはパルフォン様が創作の都市伝説である事と、その都市伝説が何故か現実となってしまっている事。七実に直接コンタクトが取れればまた違うのだろうが、津島昇太の先ほどの言葉を聞くに、七実も恐らくパルフォン様に捕まったのだろう。
パルフォン様のあっけない真実を聞いた三刀屋は、思ったよりも驚いていなかった。むしろさよりの話を黙々と、淡々と聞いていて、さよりの話が終わると呆れたようにため息をつくだけだった。

「でっち上げか……やっぱりな」
「やっぱりって。三刀屋さん、分かってたんすか?」
「今時鶏の心臓を使うなんて都市伝説流行るワケがねェだろ……そんなの中世の悪魔召喚だ。……なんか変な噂だと思ってたよ」

三刀屋の二回目のため息は、更に大きい。

「しかし……あれだ、やっぱりあの神社でやったのはまずかったな……。あそこには……名前もない……タチの悪い霊が大勢いる。悪霊は常に自分が何者か知りたがる。名前を欲しがってるのさ。そんな所で曲がりなりにも儀式めいた事をやって……それで「パルフォン様」の名前を呼んだんだろ? ……怪異の名前をさ」
「名前のない悪霊が、その怪異になろうって思ったって事っすか?」

三刀屋は苦い顔をして頷く。創作都市伝説が儀式を通じて悪霊を取り込み、本物になった。ありえない話ではない。この国は八百万の神の国だ。聖も邪も神も妖も、全て一緒くたにされる。祟り神は祀れば神仏として昇華されるし、反対に信仰を失った神は怪異に成り果てる。何にだって転がり変わる。怪異の誕生など、きっと往々にしてそんなものだ。

「にしても……藍堂」
「はい」
「ずいぶん情報を集められたな。偉いぞ」
「え、へへ……はい」

然し、こんな時でも褒められてしまうと自然と頬は緩んでしまう。我ながら分かりやすい。仕事ぶりを褒められるのは好きだ。
これが仕事の範疇では無い事を、何となく悟っていたとしてもだ。

「もう……俺にはお前しか頼りにできるヤツがいねぇのよ」

そんなさよりの予感を裏付けるように、三刀屋はぽつりと呟いた。
きっとこの人は、嘘を吐いた。なんとなく、そう思った。明日更新予定の記事を落としただけで、ここまで感傷的になる人間はそういないだろう。きっと記事など関係ないのだ。これは記事を建前にした、三刀屋個人の何かだ。その何かはまだ、さよりには分からない。けれど、三刀屋個人の事で自分を頼りにしてくれると云う事が、さよりにとっては嬉しかった。

「しかしパルフォン様の正体が……これじゃあな。……対抗策もナシか」
「……いえ、もしかしたらあるかもしれません」
「これから探すって言うんじゃないだろうな?」
「調べるには調べますけど……まず調べるのはみんとさんの本名っすね」

さよりの言葉を聞いた三刀屋の表情が変わる。

「みんとの本名……だと……」

大きく目を見開いて、驚いていた。何故そんな表情を浮かべるのかさよりには分からなかったが、そうだ。まだ監督の話を、パルフォン様から解放される方法があるのを話していなかった。

「津島さんが教えてくれたんすよ、パルフォン様から解放されるのには、その人の本名と合わせて返してくれって頼むんだって! だから、みんとさんの本名が分かれば、助けられるかもしれない」
「いや……待て……藍堂」

三刀屋が何かを言いかける。そのタイミングで、雑音が走った。

「……ああ! くそ……っ」

それを認識したのは今度は三刀屋の方だった。さよりに声が届かないと気づき、苦虫を噛み潰したような顔をする。
さよりの方も三刀屋の様子に気がつかず、悪癖がここに来て現れたのだろう。好奇心が募る。ダムが決壊するように、それが溢れる。普段なら三刀屋がストッパーになるところを、彼が「頼りにできるのはお前だけ」という免罪符を与えた事でそれが外れてしまった。
新たに誕生した怪異と、それに対抗する術など全てが新鮮な知識と経験だった。そして、怪異に取り込まれた後に連れ戻せるかもしれないという事も。
不思議事の真ん中に立っていると思うとさよりは高揚感を隠せなかった。
最初こそ興味がないと思っていたみんとという人物にも俄然興味が湧いた。彼女が儀式を行った。彼女が怪異を呼び出した。よりによって芸名しか分からない女優が、本名を告げなければ解放してくれない海尉に捕まっているなんて。

「……ネットには不慣れな子っぽい」

彼女のSNSアカウントをイチから見直すと、新たな発見がある。
絶叫配信の宣伝の為にアカウントを作成したという事だが、それ以前にもこういうSNSはやっていなかったのだろう。無断転載の画像botをフォローしているあたりから既にネットに不慣れな事は分かるが、あろう事かホーム画面を晒すタグで遊んでいる際に入り込んでしまった母親からのメッセージに書かれている「名前」を隠すのを忘れている。

「……真衣さん、ね」

知り合いでなくても思わず頭を抱える所だが、今回ばかりは助かった。名前は分かった。後は名字だ。名前のようにどこかにぽろっと零していないだろうかと期待したが、さすがにそんな事はなかった。しかしどうやら「みんと」というハンドルネームが苗字をもじっているらしい。珍しい苗字で、一瞬戸惑われる事が多いとも。

「珍しい苗字で……みんと。……み……と」

一瞬。思い浮かぶ苗字があった。これ以上に珍しい苗字があってたまるかと思う、しかしさよりにとっては身近な苗字。
まさかそんな事があるだろうか? だがそれを裏付けるように、彼女の呟きには折節その存在が示唆されていた。

『お兄ちゃん元気かな』
『お兄ちゃんがいるからある意味末っ子かも?』

彼女には、兄が居る。
パルフォン様の事ばかりで気にも留めていなかったが、彼女が映画に出演を決めた理由のひとつに、「兄に見て欲しいから」という理由があったはずだ。
それを確認する為にさよりは再び座談会のページに飛ぶ。しっかりと書かれていた。
「お兄ちゃんに見て欲しい」と。
みんとの言葉をそのまま借りるのであれば、こうだ。みんとの兄は、彼女が小学生の頃に地元島根から上京したらしい。それきり十年近く会っていないのだと。
記憶にある。
彼には、妹がいる。
うっかりと口にした妹の存在について尋ねれば、今度なとはぐらかされた。
うっかりと口にした出身について尋ねれば、今はどうでもいいと打ち切られた。
彼には、三刀屋には、三刀屋真司には、妹がいる。

「……三刀屋さん……!」

さよりが呼んだのは、みんとではない。親愛なる上司に向けて。彼は、何処まで知っていたのだろう? 最初から全部知っていたのだろうか。
ーー恐らくみんとは、三刀屋の妹だ。
三刀屋は妹が怪異に連れ去られた事を知っていて、それを助けようと動いていたのだろうか。思考を巡らすが、どれも憶測の域を出ない。いくつもいくつも、考えは思い浮かんで脳みそが雁字搦めになる。気がついたら、パルフォンを開いていた。三刀屋に通話をかける。
通話はツナガる。

「…………。藍堂……」
「三刀屋さん……」

まず何から言えばいいのだろう。単刀直入にみんとは三刀屋の妹なのかと確認すればいいのだろうか。しかしそれを伝える前に、三刀屋と顔を見合わせたさよりは彼の表情に何か違和感を覚えた。
何かが不安定だ。パルフォン様への対抗策を伝えたというのに、彼に安寧の色はない。

「監督が通話でパルフォン様から解放される方法を教えてきたそうだな」

三刀屋の細められた瞳が真っ直ぐさよりを見据える。夕陽のように優しい黄昏色の瞳は、今は赤が強くなって逢魔時の空を彷彿とさせる。

「お前……それ……信じてるのか……?」
「え?」

三刀屋の表情に、瞳に飲み込まれそうになる。雁字搦めだった思考が一瞬でクリアになってしまった。

「それって、どういう」
「……いいか。まだ……間に合うかもしれない。……アイツの……アイツの本当の名前をーー」

三刀屋の声に重なるように雑音が響く。映像が乱れる。
また通話が切れるだろうかと思ったが、今回は通話が繋がったまま。

「……ぁああうるセェな!! 俺が喋ってるだろうが!」

しかし、映像が乱れた後にさよりが視界に捉えたのは、赤黒く染まった三刀屋の部屋と苛立ちに声を荒らげる三刀屋の姿だった。大きく見開かれた瞳は血のように赤く、瞳孔は開き切っている。
三刀屋の凄まじい剣幕にさよりは肩が震えた。

「み、三刀屋……さん……?」
「……あ、いや……違うんだ。ダメだ……お前は、逃げろ……」

さよりの怯えた様子に気が付いてか、三刀屋は一瞬いつもの思慮深い瞳に戻る。黄昏時と、逢魔時で揺らぐ。日常と非日常、現実と非現実、不思議事が正常と入れ替わるその瞬間が目の前に落ちていた。
雑音は続く。不協和音は続く。聞いた事がある。これは、津島昇太から連絡が来た時と同じだ。沢山の人間の悲鳴が重なり合ったような唸り声。
魑魅魍魎の不協和音が聞こえているのは、どうやらさよりだけではないらしい。

「……くそ」

むしろ、彼の方が「その声」を近くで聞いているようだ。
三刀屋の瞳は、逢魔時に傾く。深く、赤く、苛立ちに傾く。

「……くそ、くそ、くそ!! クソクソクソ……っ! しつけぇんだよ!」

三刀屋が虚空に手を振り払ったその瞬間、雑音を振り撒き、画面は赤く染まる。一瞬の事だった。さよりは三刀屋がスマホを勢いで投げ飛ばしたのかとでも思ったのだが、そうではなかった。カメラの定位置は変わらない。配信は、通話は続いている。画面越しに続く怪奇現象ーーそれが、皮肉にも絶叫配信の内容とリンクしていた。
苦い焦燥感に満ちた三刀屋とさよりは目が合う。そして、伊藤七実の隠しページで目が合ったおぞましい女と再び邂逅する。幾人もの人間を無理矢理ツナゲて融合して人型のかたちを取っている女。間違いない、パルフォン様だ。
パルフォン様は継ぎ接ぎだらけの皮膚から出来上がったような口を不気味に歪ませて、笑っている。笑いながら、何本もの手が重なり合ってひとつの巨大な手となって三刀屋の左腕に縋りついていた。縋りついている。まとわりついている。そこはもう怪異に侵食されている。

「三刀屋さん……それ」
「ああ……お前……その顔……。コイツが……見えちまってるのか……」

三刀屋は諦めたように、そして無理に口元に笑みを浮かべていた。加えて少し、自嘲気味に。
彼にそう言われてもさより自身、今どんな表情を浮かべているのかは分からなかった。不思議事の世界がそこに広がっているから、笑っているのだろうか?いいや。いや。嫌。何故か、これっぽっちも楽しくない。怪奇の世界に触れているのに、トンネルの怪のように手を出す事が躊躇われる。心臓を掴まれて握りしめられるような感覚。これはきっと、恐怖心だ。怪異に対しての恐怖ではない、三刀屋真司が怪異に襲われているという恐怖心。

「「あいつ」が失踪した日から……コイツ、ずっと俺につきまとって……。早くこっちへ来いだの……もう出られないだの……うるせぇんだ」

自嘲気味に笑ったあとで、三刀屋は三日月のように瞳を歪めてさよりを見つめる。美しいと思った、悲しいくらいに。彼の瞳には諦観の色が見える。

「藍堂……通話を……切れ……」

三刀屋が出した解は、さよりを突き放す事だった。
いつかの、「通話を続けろ」と言った時とは反対だ。
彼は突き放す事で自分を守ろとしている。それを理解してしまった、彼の事を知ってしまったせいだろうか。職場の人間が困っていたら助け合うべきという信条を謳ったのはそっちだろうに。

「三刀屋さん何言って」
「お前にもコレが見えるのなら……やばい……」
「ふざけないでくださいよ、まだ助かるかもしれな……ッ」
「ふざけてねぇ、俺はいいから……藍堂……ッ」

伽藍堂の声が聞こえる。
懇願する様に三刀屋は言うが、三刀屋の声に続いて誰かの声が聞こえた。
まるで聞き馴れた音楽を他の誰かが奏でているような違和感。

「藍堂……さん……!!」

知らない声が聞こえる。
女の声だ。
鈴が鳴るような美しい声だ。
清涼感に溢れた、聖女というものがいるのならきっとこういう声だと思わせるような。

「私……みんとです! パルフォン様に捕まってます……!」

女の声はみんとを名乗る。
魑魅魍魎たちの不協和音に負けず、澄んで響く。

「監督に教わったんですよね、パルフォン様から解放される方法! お願いです! 私の名前を……呼んで……」

しかし、さよりにはこれが、雑音と同じように聞こえた。いつだって臭いものには蓋がされている。彼女は三刀屋の妹かもしれないが、確証はない。さよりは、三刀屋の妹の事など何も知らない。三刀屋の妹ならば当然助けたいという気持ちはあるが、だが、それでいいのかと思考が責めてくる。

「私や他の人を放すよう……パルフォン様に頼ん……で……」

みんとの姿はどこにもない。美しい声だけが聞こえるだけで、みんとはあの幾人もの人間がどろどろに溶け合ったおぞましい女の中のどれかなのだろう。助ける方法。解放される方法。確かに津島昇太がそれを教えてくれた。
けれど、三刀屋は、パルフォン様への対抗策に難色を示していた。「お前、それを信じているのか?」と。
力無い笑みを浮かべて厭世的な瞳でさよりを見つめる三刀屋と、顔すら知らない三刀屋の妹と映画監督。
さよりが信じるのなら、それは三刀屋だ。

「三刀屋さん」

ちがう、と誰かが言った。

「三刀屋さん、三刀屋真司を返してくださいよ、わたしの上司なんです」

ちがう私の名前だ、と誰かが言った。

「三刀屋真司を返してください。そこの何も言わないくせに、何も教えてくれないくせに、自分の方から巻き込んできたくせに、自分だけで綺麗に終わらせようとしているそこのバカ上司を返してください」

ちがうちがうちがう、と誰かが言った。

「何が違うんすか、わたし、あんたなんて知らないです。あんた三刀屋さんの妹なんでしょ、なら、三刀屋さんに名前を呼んでもらえよ。他人のわたしじゃなくて、三刀屋さんに! わたしは三刀屋さんしか知らない! 三刀屋真司しか知らないんですってば!」

ちがうちがうちがうちがう、と誰かが言った。まるで子供の癇癪のような金切り声で、先程のような澄んだ美しい声ではない。化けの皮が剥がれた、とはこういう時に使うのだろうか。

「三刀屋真司を返してください、離せよ、バカで独り善がりでカッコつけで何も言わないけど、大切な上司です、離してください」

声は何も言わない。
何も返してこなかった。
清廉な声は、聖女の声は、途絶える。
聞こえてくるのは魑魅魍魎が跋扈する音。

「…………、……ちぇ……」

やがて、ソレは恨めしげに言う。

「これじゃ……このヒトはイっしょに……なれない……」

みんとの声だが、みんとの声ではない。三刀屋の左腕を掴んでいるパルフォン様の幾つもの瞳がこちらを睨んでいる気がした。渇望しているような気がした。欲しがっている。三刀屋を、さよりを、一緒になりたくて仕方ないと言った様子で歪な笑顔を歪ませている。

「……ウデ……だけで……も」

地の底から這い出たような声で、パルフォン様は呟く。
画面が一瞬赤く染まり、再び三刀屋が映った時にはおぞましい化物の姿は消えていた。

「……………………………………、あ…………? 」

しかし怪異は去った、と手放しに喜ぶ事はさよりには出来なった。画面の右側、彼からしたら左手の方。本来肩から下ににあるべき質量は失われており、袖が空虚に揺れている。

「三刀屋、さ」
「あー。藍堂……あれだ…………」

さよりの言葉を遮るように三刀屋は言う。また突き放されて、深くまで入る事を許されないのかと思ったが、そういう訳では無いようだ。

「お前……会社近いだろ。会社横の公園で細けぇ事……話すわ」

通話が切れる。雑音も映像の乱れもない、クリアな終話音がスマホから鳴って、やけに視界がすっきりとした。
現実に戻ってきてしまったような感覚に、空虚と安堵を感じる。いつもならば怪異に深入りできなかった事を悔やむが、どちらかというと今は、安堵の気持ちの方が強かった。

*****

海の匂いがする。夜の海の匂いがする。先程までの不思議事が嘘だったかのように、今日の夜風は静かで穏やかに眠るには丁度いい日だった。
フェンス越しに海を眺めながら、三刀屋は煙草を咥えて右手に持ったライターで火をつける。さよりがいる方向と反対側に煙は流されていった。

「まず何から話すべきなんだろうな」
「全部っすよ、全部。わたしは知る権利があるっしょ」

煙草から口を離した三刀屋がちらりとさよりを見据える。逢魔時の色は去り、静かな黄昏がこちらを向く。今は黄昏時ではなく、静かな小夜だが。

「あのバケモノ……パルフォン様は少し前に現れた。丁度、真衣の失踪について調べ始めたのと同じ時期だったよ」

真衣、という名前が三刀屋の声で語られるのが何よりの答え合わせだとさよりは思う。三刀屋はさよりが分かっている前提で話を進めた。
パルフォン様は最初こそ視界の端に現れる程度だったが、少しずつ距離を詰めて近付いてくるようになったらしい。ここ最近の三刀屋の様子がおかしいのもそういう事なのだろう。どこか上の空だったり。何かを一心不乱に調べていたり。話をしていたと思ったら急に周囲を訝しげに見渡したり。失踪した妹の事を調べていたから。パルフォン様が近付いてきたから。パルフォン様の声が煩かったから。確かに、あんな何人もの人間の声が混ざり合った不協和音のような声に耳元で囁かれていたのでは安心して生活もできないだろう。

「……で、今日の夜。ついに部屋に閉じ込められたんだ」
「それで、わたしを頼ってくれたって事っすか?」
「ああ。スマホも勝手にインストールされてたパルフォン以外繋がらなくて。パルフォンなんて若者御用達のアプリ、他の連中はやってなさそうだろ? だからお前の名前を検索して、連絡したんだ」
「結構単純な理由だったんすね……わたし頑張ったのに」
「……勿論お前が頼りになるっていう理由もあるさ。パルフォン様がどういうもんかも最初は分からなかったからな、もしお前がパルフォン様に気がついて、パルフォン様に狙われたらいけない。そう思って、記事を書く体で調べてもらったんだよ」

何も分からず勝手にインストールされたパルフォンだけが繋がる状態、かつ、三刀屋は全て憶測と仮定で進めていったのだろう。時間は限られて居るにも関わらず、情報がない。妹の失踪について調べていた際に知り得た事だけが、三刀屋の引き出し。さよりが最初に教えられた絶叫配信がそれだろう、彼がそこからどこまで知っていたのかは分からないが。

「まさか、創作の都市伝説が悪霊と結びついたものだったとはな……」

自嘲気味に三刀屋は言い、煙を吐き出す。白い煙が空気に溶け込んでいくのを目で追い、同じように消えてしまったものにさよりは視線を移す。
三刀屋の左腕の袖は穏やかな風に揺れていて、やはりそこには何も無かった。

「……ああ、左腕か?」

腕だけでも、とパルフォン様は言っていた。きっと、パルフォン様が持っていてしまったのだ。

「……それ、大丈夫なんすか?」
「……不思議と痛みも血もないんだ。だが、もう二度と帰ってこないだろうな」
「……」
「なーに、気にすんなよ。右手がありゃ、スマホでも記事は書ける」

三刀屋は慰める為に頭でも撫でてくれようとしたのだろうかわ。手を伸ばそうとして、その手に煙草を持っている事を思い出して、気まずそうに引っ込める。

「それより……お前が無事でよかったわ」

また顔を背け、視線だけをさよりの方に向けた。それはこちらの台詞だとさよりも視線を向ける。そのまま言葉にして言ってやろうと思ったのだが、三刀屋からの視線があまりにも優しかったから何も言えなかった。

「アイツは俺にあそこまで接近しておきながら、俺をさらわなかった。多分……パルフォン様にはこういう設定もあったんだろうな」
「「捕まった人間の本名を知られていたら、その人間の大切な人もさらわれる」っすか?」

七実の隠しページで文字が抜け落ちていた、津島昇太が新たに加えた設定というのをさよりは思い返す。パルフォン様はみんとの本名を言わせる事に固執していた。しかし、よくよく考えればおかしな話だ。人ならざるものに名前を教えて無事でいられる人間の方が少数。世界での、空間での存在証明として名前は存在する。手頃なまじないだ。パルフォン様の正体が名前を得てしまった悪霊であるように。

「……パルフォン様がひとりさらえば、そいつの家族や恋人、家族も餌食になる。そうやってドンドン被害者が増えていく仕組みだったのかも、な」
「わたしが彼女の本名を教えていたら、三刀屋さんも連れていかれたかもしれないって事ですよね」
「俺が連れていかれたらお前も狙われてたよ」
「え」
「なんだその間抜け面は。お前だって、俺の大切な仕事仲間だよ」

瞬きをするさよりの反応を三刀屋は気に食わなそうに眺めている。呆れているようで、優しいようで、悲しくなるような視線を向けられる。

「……マジで思ってるんだぞ。バイトだろうが、大事な仲間だって。普段は言わねぇけど……」

三刀屋が優しい人間なのは分かっている。でなければ、遅くまで残って企画書の作り直しをしていた自分を労わないだろうし、食事にも連れ出さないだろう。何より、トンネルの怪に囚われた時に迎えに来てくれる事も、真摯に叱ってくれる事もなかったはずだ。

「だから、本当によかった」

三刀屋からの感情は、気持ちは読みづらいというのは確かにある。実際三刀屋の風貌は近寄り難いものだから、誤解されやすい。言葉にしなければ伝わらないものだから。
だからさよりが瞬きして意外そうにしてしまったのは、三刀屋が言葉にして伝えてくれたという事に対してだった。仕事の要件は簡潔に伝えてくれるし分かりやすいが、感情を言語化するのが下手くそだとさよりは思っていた。改めて伝えられると、変に照れる。そうか、自分は彼の大切な人の枠組みに入っていたのかと。

「……遅くに呼び出して悪かったな。もう帰ろう」

煙草を公園の灰皿に潰すように捨てて、三刀屋はさよりを振り返る。
まだだ。まだひとつだけ、聞いていない事がある。

「……みんとさんって、三刀屋をもじったハンドルネームだったんすね。……三刀屋真衣さん、三刀屋さんの、妹さんだったんですか?」
「……まあ、もう何年も会ってなかったけどな」

救えなかったひとりだ。津島昇太や伊藤七実と同じように。
今日よりもずっと前から三刀屋が追っていた影の姿。

「……この話はいいだろ」

あの時と同じように、三刀屋はさよりに妹の話をするのを拒む。認めるだけ認めたから、もういいだろうと言わんばかりに。救えなかった、助けられなかった影。救えなかった要因は自分にもある、土足で踏み込むほどさよりは無神経ではない。
三刀屋が地面を蹴るように翻したのを見て、さよりも後ろに続く。

「……藍堂」

風の吹く方向から、三刀屋の声が届く。首を回して頭だけがこちらを向いた三刀屋の瞳は、どこか不安げに揺れていた。手を伸ばして縋りついてくるような、置いてけぼりにされた子供のような雰囲気を醸し出している。

「こんな目に遭うようなら、オカルトに関わる仕事なんて、辞めるか? こんな厄介事に巻き込まれるくらいなら、俺の下で働くのは嫌か?」

不安を吐露する。
さよりは目をまるまるとさせた後で思わず口元を緩めてしまった。細い三日月のように、口角が上がる。
変な事を言う人だ、と。

「辞めませんよ。オカルトが好きだから」

露が落ちるような、綺麗な笑顔を浮かべる。

「だから、巻き込んでくださいよ。三刀屋さんになら大歓迎。だってわたしたち、オカルトマニアですよ」

それはオカルトに対しての恋心であったし、不思議事に対しての憧憬であった。好きでこの仕事に応募したし、続けて来たのは三刀屋の下で仕事をするのが嫌いではなかったからだ。

「……………………………そうか」

長い沈黙の後に三刀屋は愁眉を開く。危惧していた事が杞憂に終わり、ほっと胸を撫で下ろすような。

「そうだな」

安心感に表情を緩んだ三刀屋からは、突き放すような空気を感じない。少し駆け足で三刀屋の背中を追って、さよりは彼の隣に並ぶ。
笑顔のまま、おどけるような口調を三刀屋に向けた。

「わたしが辞めるか不安っした?」
「別に。ただ辞められたら、バカ上司って言った事に対しての追及ができないだろ」
「うわ。あの状態でちゃんと聞いてたの、三刀屋さん。つーか、それくらい許してくださいよ。頑張ったじゃないっすか、わたし! むしろ昇給してくれてもいいくらい!」

夜は落ちる。夜は終わる。
春にしてはまだ肌寒さが残る風が憂いを振り払うように優しく撫でて、今日を終わらせた。
三刀屋の右手にはめられた中指の指輪が、色のない街灯に照らされて一瞬だけ光ったような気がするが、いいや、気のせいだったかもしれない。
闇夜を歩くふたりの姿はやがて差し掛かる分かれ道によって離れていった。



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