パルフォン連載 | ナノ

世の中には月夜ばかりはない

(3/8)


「藍堂」
「は、はい」

編集長のデスクの前に立たされたさよりは、無意識に背筋を伸ばす。編集長である三刀屋が腕を組んで難しい顔をしていたからだ。また何か駄目出しを受けるような事をしてしまったか。いいや、提出した原稿や資料は完璧に作り上げたし抜けはないはずだ。もっとも三刀屋に厳しい追及を受けたところでさよりは負けじと食らいついていく人間であるから、そこでへこむ事はないのだが。
三刀屋は瞳を鋭く細めながら、さよりを見据えていた。何を言われるんだと内心怯えながら判決の言葉を待つ。しかし三刀屋の言葉はそこまで警戒するものではなかった。さよりが想像していたものとはまるで違う。

「お前、心霊スポットとか行くのは大丈夫か?」
「は、はい……?」

思わせぶりな面持ちだった割には、あまりにも拍子抜けという言葉がぴったりで。さよりは安心したように体の力を抜くと「まあそれなりに」と頷いた。
さよりはオカルトの中でも都市伝説や心霊ものを好んでいる。当然そういったものへの耐性も持っている。拍子抜けしたさよりの様子に三刀屋も満足そうに頷くと、インターネットからそのまま引っ張って印刷したのであろう地図と写真が載っている一枚の紙を差し出した。地図が示している住所は都内。さよりからしたら覚えのある住所が載っている。

「お前、最近噂になっているトンネル、知ってるか?」
「……三刀屋さん知ってて言ってます? これ、うちの大学の近所じゃないっすか」

呆れた声音の返答に、三刀屋はしてやったりと悪人面で口角を上げる。彼が差し出してきた地図の住所はさよりの大学から徒歩で十分もかからない場所にある廃トンネルだ。さよりが知らないはずがない。実際に行った事はないが、あれこれ逸話が追加されている心霊スポットだというのを知っている。
つい先日も大学デビューしたての陽キャ集団が肝試しに行って嘘か真か分からない武勇伝を語っていた。そんな一般人が立ち寄って何も起こらず戻ってきたような場所だ。噂だけで何も無い場所なのだろうとさよりは思っていたのだが、こうして三刀屋が現地に向かって欲しいというからには何も無い、という訳ではないらしい。

「来週の火曜。仏滅だ。取材に行って欲しい」
「ええー、女の子ひとりでっすかぁ?」
「大して怖がる素振りも見せてねえのに自分で言うな。オカルトっていってもうちは色んなジャンルを扱ってるからな。都市伝説とか幽霊とかそういうのが好きなやつらも当然いるが……実際に心霊スポットに行くのは嫌なんだと」

三刀屋はわざとらしく深く深くため息をついた。細められた視線は心なしかそれらを担当する編集部の面々へと向けられているような気がした。皆居心地悪そうにしながら知らん顔をしている。さよりからしたらそういうものだろうと理解出来る部分もあり、これといって気に留めなかった。
人間はオカルトを娯楽として消費する割には、自分が巻き込まれるのは嫌なのだ。安全な場所からの恐怖体験という擬似的なスリルを求める事が前提。正常な感性を持っている編集部からしたら、怪異にご執心の三刀屋や知識を埋める事に重点を置くさよりの方がどうかしているのだ。

「一応俺も後から向かう。この日外での仕事があってな……悪いが途中まではひとりで行ってくれ」
「まあ大丈夫っす。元々心霊スポットとかも大好きっすから。一緒に行ってくれる友達がいないだけで! それに三刀屋さんから任された仕事です、頑張りますよ!」

やる気に満ち溢れているさよりは無理をしている様子はない。むしろ今からでも行きますと言わんばかりに胸の前で両手を握って気合いを示している。三刀屋が直々に振った仕事。三刀屋が示した心霊スポット。きっと、何かあるのだ。気合いが入らない訳がない。
三刀屋と顔を見合わせて笑い合った日から、さよりは三刀屋の事を同族として認識した。まだ、怖いとかよく分からないなど思っている所もあるが、自分と同じようにオカルトが好きな人だ。もっと親しくなれば今より気軽に会話で盛り上がれるかもしれない貴重な人。三刀屋に良く思われたいという下心とまではいかずとも、それでもこの人に嫌われたくないと思うくらいにはさよりは三刀屋を好ましく思っていたのだろう。まだ、見極めの段階かもしれないが。三刀屋から仕事を任せてもらえる事自体は純粋に喜ばしいと思った。

「……やる気に満ちてるのは結構だ。だが、用心しろよ」
「はーい!」
「本当に分かってんのか? まあ、いいか。……藍堂。お前に俺の連絡先教えておくからスマホ出せ。何かあったらすぐに連絡寄越せるように」

三刀屋がスマホを出すのを見て、さよりも慌ててスマホを出す。働き始めてしばらく経ったが、そういえばまだ連絡先を交換していなかったと思い出す。今までスマホで連絡を取る程の急ぎの用もなかった。仕事は勤務中に全て終わらせてしまうし、プライベートな繋がりを持つという発想に至らなかったのが正しい。そうか、三刀屋とオカルトの話で盛り上がりたかったのなら、早い段階で連絡先を交換しておけば良かった。
三刀屋真司、と新しく連絡帳に追加された名前を見て、さよりは浮き足立つような感覚を得る。嬉しいような。くすぐったいような。ぴったり当てはまる言葉がすぐには思いつかない。三刀屋が知ったら文章を扱う仕事のくせに何言ってんだと睨んでくるかもしれない。そう思うと、自分の中に生まれた名も付けられぬ感情を三刀屋に教えるのは躊躇う。自分の中だけに留めておこう、という気持ちになる。
連絡先にある三刀屋の名前を確認するだけ確認して、しかしこれといって何も連絡する用事は何もなく。
結局あっという間に、約束の仏滅の火曜日になった。
三刀屋と連絡をとったのは、廃トンネルの入り口まで来た時に「今トンネルの入り口に居ます」とだけ書いた簡潔なメッセージを送ったのが初めてだった。たった一言のシンプルなメッセージに対して三刀屋からの反応は、案外すぐに既読の印が付く。今日トンネルに行く日である事は当然知っているだろうし、もしかしたら三刀屋も状況を把握する為に連絡を寄越そうとしてくれていたのかもしれない。返信が戻ってくるのも早かった。
ーー「気をつけろ。ある程度潜ったら今度は電話で連絡してくれ」。
三刀屋からのメッセージも簡単なものだった。最近有名になってきただけの心霊スポットに何をそんな警戒するのかと思うが、案外心配性なのだろう。意外と三刀屋は父親や母親みたいな事を言うのだ。すぐに「気をつけろ」や「余計な事はするな」など。まあ、三刀屋は親というよりも兄と呼んだ方が自然な年齢差か。

「大丈夫だってば、三刀屋さんったら心配性だなあ」

都市伝説の存在を、怪異の存在を侮っている訳では無い。それが眉唾物ではなく存在している事をさよりは知っているし、人間に幸福をもたらすものもいれば、害をなすものがいるのも知っている。大半は後者だろう。
死しているもの、あの世のものは、存在が確立されているこちらの世界や生命の濃度がある人間を羨み、恨んでいるから。だからこちら側からしたら、祓い、清め給えになる。
適当な猫のスタンプを送り、さよりは薄暗いトンネルの入口をてっぺんまで見上げた。数年前に廃トンネルとなり、工事もそこそこに中止されたらしい。トンネルの向こう側、さよりから見たら出口の方は斜面崩壊によって完全に塞がれており、行き止まりだとか。廃トンネルになった理由も工事が中止された理由も明確ではないせいで、噂に尾ひれがついていく。

「……すー」

外の空気を大量に吸い込んで、さよりは一歩前へと踏み出した。トンネルの中に灯りはない。誘導灯は無論、非常灯も機能が死んでいる。さよりは予め持ってきていた懐中電灯を点けた。一点の集中的な明かりが前方を照らす。トンネルの中は昼夜問わず外の光が届かないせいか、どことなくジメジメとしていて肌寒い。嫌なものがいるという寒さではなくて、気温としての寒さだ。懐中電灯で照らした壁にはスプレーの落書きが所狭しと描かれていた。地面にはお菓子の空袋やペットボトルが散乱しており、なかなかの無法地帯という印象だ。さよりは潔癖症ではないが、酷い有り様にうげえと顔を顰める。人の手型が壁一面にびっしりと付けられているとかであれば、さよりの心の持ちようも変わったかもしれないが。もしくは、さよりに霊感なるものがあれば違っただろうか。
さよりは幼い頃に神隠しに遭いそうになったところを猫又に助けられた事があるだけで、怪異を身近に感じられるような能力あるいは才能はなかった。そうした人間が本当にいるのかは別として、不思議事を身近に感じられる人間には羨望すら抱く。
そういえば、三刀屋はどちらだろうか? ふと思い出すのは、人相の悪い上司の顔。三刀屋は怪異について詳しいし、同時にかなりの畏怖と警戒心を持っている。だからきっと「出会った」事があるのだろうとさよりは考えていた。さよりが雇われる以前から、三刀屋の書く記事は妙なリアリティと臨場感と没入感が読み終えた後にも色濃く残り、内容自体も面白いものだった。出会った事があるからこそ、あんな記事が書けるのではないだろうか。
三刀屋の事を考えていると、そういえば電話するのを忘れていたと思い出す。トンネルを歩き続けてしばらく経った。うしろを振り返るとまだ入口だった場所を確認できるが、だいぶ小さくなっている。
スマホから三刀屋真司の名前を探して、電話をかける。耳元で四コールほど無機質な呼出音が響くと、短いばりばりとした雑音の後に聞き覚えのある低い声が聞こえた。

「おう、藍堂」
「おつかっさまっす、三刀屋さん」
「……ある程度、進んだ感じか? ……変なものとかあるか?」
「? いいえ。これといって。ヤンキーの落書きとか、肝試しに来たパンピが宴でもしたんだろうなって感じの荒れ具合っす」

なんだか、三刀屋の声が遠い気がする。通信状況が悪いのだろうか。少し耳から話して電波を確認するが、通信は良好。アンテナは全て立っている。しかし、三刀屋の方も怪訝そうにしていた。

「……なぁ、藍堂?」
「なんすか?」

ああ、どちらかというと、困惑しているのは三刀屋の方だ。心配と懐疑をごちゃ混ぜにしたような声音。或いは、動揺しているし、焦っているのか。ひとつの可能性を確定事項として得ているのに、それを認めないと言わんばかりに三刀屋は受話器の向こうで呼吸を落ち着かせている。さよりはそんな様子を不思議に感じ、「三刀屋さん?」と声をかけた。
ーー何故か、空気が冷たく重たくなった気がする。

「藍堂、お前、今本当にひとりか?」
「え?」
「いや、別にダチと一緒にいたって……構いやしないさ。心霊に耐性があっても単純に女ひとりで夜に出歩くのが心細いってのはまあ理解してる。にしても……肝試しに来てんじゃないんだから、そんなはしゃぐなってだけで」
「ち、ちょっと待ってください、三刀屋さん!」

さよりの慌てたような反応に、電話の向こう側にいる三刀屋が頭を抱えた。気がする。姿は見えないが、三刀屋の表情や思考が、なんとなく分かる。なるほど。確かに困惑する訳だ。

「わたし、今ひとりです」

三刀屋が息を飲むのが分かった。お互いに、何がとは言わない。断言をしない。それをしたら、自覚してしまうから。そこに何かがいると心の隙間が出来てしまえば、その何かはこちらの隙間を狙って干渉しやすくなるから。心霊映像を見ていると霊が寄ってくる、と言われているように。いると思うから、「存在を確立できる」のだ。これは霊だけでなく、神仏にも言える。あれらは人間の信仰によって存在を強めるものだから。
きっと、三刀屋には聞こえているのだろう。聞こえてしまっている。受話器からさより以外の何者かの声が。さよりはなんとなしに左右を交互に見るが、当然誰もいない。三刀屋が冗談で自分を脅かすつもりでまさかそんな事を言うはずがない。さよりは身を震わせる。
それは恐怖から来るものではなかった。
歓喜だ。本物と出会えた事への。
未知に対する好奇心は薄まる事を知らない。好奇心は猫を殺すが、好奇心を満たさなければ心が死ぬ。世界や人生への楽しさを見い出せず、廃人になる。少なくとも、さよりはそうだ。そういう風に出来上がっている。
口角が興奮からか上がる。まさかこの状況でさよりが笑っているとは思っていない三刀屋は、いつもより強めの声を出した。

「いいか、藍堂。このまま通話を繋げてろ。絶対に……絶対に切るな」

切羽詰まったような声。しかしそんな心配を余所に、自分には何も聞こえていないのに三刀屋には聞こえている事に対して、どんな声や言葉が聞こえているのだろうとさよりはまず彼を羨ましく思ってしまった。

「今からそっちに向かう。いいか、藍堂。危険だと思ったら引き返せ。もし振り返ってそこに帰り道がなければ、動くな。何があっても深入りしようとするんじゃーー」

いつもより早口の三刀屋の言葉は、そこでぷつんと途切れる。大きなノイズが入り、やがて三刀屋の声も聞こえなくなった。

「……? 三刀屋さん?」

通話が切れた。
勝手にだ。
ツーツー、と虚しい音を立てながら、さよりのスマホは圏外という表示を出す。先程まで通信は良好だったはずなのに。三刀屋が危惧しているように、きっとここは怪異に見初められ始めたのだろう。
さよりは振り返る。遠くに見えていたトンネルの入口は見えなくなっていた。消えた、というよりは、トンネルがどこまでもどこまでも、途方もなく続いているような、終わりのない闇が続いているような印象を受ける。おそらく帰り道を辿ったところで、同じ薄暗い景色を繰り返すだけで、いつまで経っても外の空気には触れられないだろう。
三刀屋は帰り道がなければ動くなと言っていたが、そんなものは好奇心の前では無力だ。三刀屋は、さよりの好奇心の強さを知らなかった。知っていれば、恐らく最初からさより単独で心霊スポットに行かせなかったはずだ。
通話は途中で切れたが、深入りするなという三刀屋の言葉は聞き取れた。しかし深入りしなければ、怪異と触れ合う事は叶わない。さよりは元から三刀屋の言う事を聞くつもりはなかった。三刀屋の忠告よりも自分の好奇心を優先してしまった。無茶をしたところで、自分がここよりも深く怪異に魅入られたところで、三刀屋はきっと自業自得だと思ってくれるだろう。仕事に対してはシビアな三刀屋を見ていると、なんとなくそう思った。
そうだ、自分は仕事でここにいるのだし、記事にできるような内容を、出来事を見つけなければいけない。もっと。もっと。深いところまで。仕事という大義名分がある。
暗闇で爛々と輝く猫のような瞳を先に続く道へと向けて、さよりは表情を明るくさせる。自然と笑みが溢れる。
嗚呼、自分はこういうものを求めていました! と叫ぶように。
まるで吸い込まれるように、さよりは足を前へ前へと動かした。それは操られているようにも見えて、さよりの意識とは違うところにあるかのようだ。彼女の好奇心こそ、怪異が彼女に付け入る隙だった。
無限に続くかと思われる闇の道。どれほど歩いただろう。何分何十分何時間歩いたか。現実の距離や時間の感覚が無くなった頃、懐中電灯の光がチカチカと小さくなって切れかかっていた。懐中電灯は風前の灯だが、しかし別の光が差し込んでくる。
非常灯すらない廃トンネルに光? 出口だろうか? いいや、それはおかしい。出口は土や岩で封鎖されていて通り抜けは出来ないはずだ。ならば、前方から見える光はなんだろうか。正面を見据えて、さよりの視界に広がるのは、……外だ。出口の向こう側の景色が広がっている。今は夜のはずだが、トンネルを潜り抜けた外の世界は心なしか空が赤い気がする。

「……異界? そんなの……」

呟きながら、さすがにこれ以上踏み込んだら戻れなくなる、と直感的に思う。思っただけだ。さよりの表情は変わらず狂気じみた好奇心に浸っているし、歩みは止まらない。
心のどこかではさよりにも焦りのようなものがあった。いいや、無かったかもしれない。幼い頃に体験した神隠しの、あの感覚を思い出す。あの時は幼さもあり、恐怖の方が勝っていた。しかし今は、未知を埋めていく快感が勝る。だからさよりは、その未知に触れるように左手を伸ばした。伸ばす。いいや。手を引かれた。これは最早、自分の意思ではない。

「あっ」

ハッとする。我に返る。左手が自分の意識とは切り離されている。
好奇心と申し訳程度の恐怖心をごちゃまぜにして、さよりの瞳は揺れる。自分を取り戻すのが遅かった。
指先に、冷たい空気が触れる。
その瞬間、劈くような音がトンネルに響き渡った。悲鳴かと思うようなけたたましいクラクションの音が反響する。続けてタイヤが地面を擦り滑るような音が聞こえてくる。生暖かい勢いのある風が吹いて、身の危険を感じたさよりはその音から逃れるように身を退けた。退けた際にバランスを崩したさよりは尻もちをついて、痛みに顔を歪めた。なんだなんだと顔を上げれば、先程までさよりがいた場所には一台の車が停まっていた。懐中電灯よりも眩しい光が一面に広がる。突っ込んできた車に慄いて未だ尻もちをついているさよりは唖然として運転席にいる人影に目を向けた。
ーーよく知った人物と目が合った。
三刀屋真司。
三刀屋が、苦い顔をしながらさよりの姿を確認していた。ぺたんと地に座っているさよりを見る三刀屋の表情は少し安心しているようにも見えるが、安心の次に来るのは苛立ちだ。三刀屋はその不機嫌そうな視線だけで誰かを殺せそうだった。全開きされた窓から三刀屋はさよりを見下ろす。

「乗れ、藍堂。帰るぞ」

その声があまりにも冷ややかなもので、さよりはサーっと血の気が引いていく。怪異よりも三刀屋の方が怖いと思った。
怪異。そうだ、怪異だ。思い出したようにさよりは勢いよく立ち上がる。すぐそこに迫っていたはずだ。目の前に人ならざる世界が続いていた。記事にはするには十分な程の。しっかりと手柄を立てていれば、三刀屋の不機嫌そうな面持ちも変わるかもしれない。

「三刀屋さん! この先に……あ、あれ?」

急いで三刀屋に教えなければとさよりは先程まで見ていた赤色の外を指さした。しかし、そこには何もなかった。斜面崩壊によって、土砂が出口を覆っている。埋め立てられたトンネルの最奥、終わりがそこにある。

「あ、あれ……確かにこの先に赤い空が続いてて……!」
「……はーっ」
「ほ、本当ですってば! 本当なんすよ!」

大きくため息をつく三刀屋の反応にさよりは惨めな気持ちになる。仕事中にいくら駄目出しをされても虚しくて泣きそうになった事なんてなかったのに。何故か今は泣きそうだった。普段の駄目出しでもへこたれないさよりがあからさまに落ち込んでいるからだろうか。さよりの反応に戸惑ったのは三刀屋の方だった。

「あ、いや、違うんだ。呆れてる訳じゃない。あー、その……とにかく乗れ。……分かってるから」

慰め方など知らない。宥め方など分からない。しかし三刀屋はさよりが怪異が本当に居たのだと気が触れた事を言っている訳じゃないのを知っていたし、ここに本物がいたという事も分かっていた。何より本物だと分かっているから、こうして急いで彼女を迎えに来たのだ。それこそ虚しい話だが、どうやらさよりにはこちらの心配など一切伝わっていないらしい。
憂いた表情のまま、まだ納得していない様子でさよりは助手席へと乗り込んだ。三刀屋の車は煙草のにおいがして、思わず何回か咳き込む。あわや目の前の土砂に突っ込むところだった車の向きを本来の帰り道の方へ戻している三刀屋を横目に、さよりは助手席側の窓も全開にする。

「お前が怪異に魅入られて連れてかれそうになった事くらい、見りゃ分かる」
「なんすか、それ?」
「お前、鏡とか持ってないのか? なけりゃあれだ……スマホのカメラとかでもいいから。自分の姿を見てみろ」
「はい……?」

訳が分からないまま、さよりはスマホを取り出してカメラを起動する。インカメラにして、自分の姿を見てようやく三刀屋の言わんとする事が分かった。さよりがオフショルダーの服を好んで着ている事もあって、尚更分かりやすい。思わず、うわ、という声が出た。
手型だ。まるで痣のように赤黒さと紫を混ぜた色の手型が露出していたネックラインにびっしりとついている。自分の身を改めてよく見ると、手首や足にも同じように手型がついていた。確かにこれは何かが居たんだという言葉にも信憑性が生まれる。

「お前は自分の意思で怪異に迫ったって言うんだろうが、んな訳ないだろ。怪異はいつだってこっちの付け入る隙を狙ってる。お前の場合、好奇心らしいな。普通のやつは恐怖や怯えっていう防衛機制が働くところを、お前は深入りするから……」
「で、でも、良かったっす! ちゃんと記事にできそうな事があって! これ写真撮れば記事に載せられますよね! わたしも、三刀屋さんも無駄足じゃなかった!」
「あ?」

説教モードに入りそうだった三刀屋を宥める意味で、あるいは場を和ませようとして、さよりは明るめの口調で言った。それがどうやら逆効果だったらしい。さよりの言葉を聞いた瞬間に、三刀屋は今日一番の不機嫌そうな表情を浮かべた。
地雷を踏んだ。というのは分かる。何が地雷だったのかはさっぱり分からず、さよりは指先が冷えていくような、そんな嫌な感覚を味わった。

「記事より、命だろ」

ぴしゃりと言い放たれて、無意識に背筋が伸びた。

「無茶をするな。危ないと思った時は逃げろ。とにかく逃げろ。オカルトマニアなら、危険性を身をもって示すんじゃなくて知識として取り入れろ。恐れる事を学べ。……オカルトに対して畏怖のないやつは肝試しで大騒ぎするバカ共と同じだ」

原稿に対するどんな駄目出しよりも、深く、痛く、突き刺さった。恐ろしくて、三刀屋の顔が見れないと思った。
ああ、恐怖がない訳では無い。さよりだって、恐ろしさからこうして萎縮してしまう。真剣な声音と真面目な説教に、さよりは申し訳なさから俯く。

「……肩、痛みはないか?」

叱るのは、怒るのは、心配だからだ。無関心ならば、どうでもいいのならば、気にかけたりなんてしない。
俯いていたさよりは驚いたように顔を上げて、目をまんまるとさせながら三刀屋を見る。当然運転している為、視線は交わらない。けれど、心配してくれた。気にかけてくれた。

「少しだけ、痛みます」
「ああ。事務所に戻ったら冷やそう」

本当は、我慢するつもりだった。言うつもりなど無かった。怒られた後で、深入りしてしまった自業自得の痛みを伝える程、さよりは烏滸がましくない。けれど、心配されたから。心配してくれる三刀屋に、つい素直に伝えてしまった。痛む、と伝えた時に三刀屋は少しだけ顔を歪ませたが、正直に話した事に対して安心したように目尻を下げていた。さよりの回答は間違えていなかった。素直になって良かったのだ。
トンネルを抜けて、外の景色に都会の街並みが戻ってきた。煩いくらいの明かりに目を眩ませて、さよりはごしごしと目元を擦る。少し湿っぽいのは、きっと気のせいだ。

「……んと、意外、でした」

夜の渋滞に嵌り、なかなか進まない車の中でさよりがぽつりと呟く。

「三刀屋さん、こういうのは自己責任って言うタイプかと」
「馬鹿言え。職場の人間が危ない目に遭ってたら冷や冷やするだろ。お前からの連絡が途絶えた時、生きた心地がしなかった」
「それは……すんません」
「これからは気をつけろよ。そんで、何かあったらすぐに連絡しろ」

三刀屋の表情は穏やかなものだ。そんな優しい顔をされて言われたら、頷く以外に出来ない。先ず以て、さよりは今後三刀屋の忠告を無視するつもりはなかった。
好奇心は失えないかもしれない。けれどそれ以上に、この人にこんな心配そうな顔をさせたくないと思った。

「職場の人間が困っていたら助け合うもんだ。いいな、藍堂」

心なしか、心臓がちくりと痛む。痛いのは肩や手足だけだったはずなのに。しかし、心臓の痛みはその一瞬だけで消えてしまい、再び痛みが刺す事はなかった。きっと、気のせいだ。
肩にくっきりと残る手型に自分の手を添わせ、さよりは小さな声で「はい」と呟いた。




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