俺の中の貴女は、いつだって笑顔だ。
俺の中にある貴女の記憶を引っ張り出してみても、貴女はいつだって笑顔だった。
クスクスと優しくくすぐったい、囁くような笑い声が俺の耳に伝わる。
まるですぐ横から聞こえるような貴女の笑い声に、俺は慌てて顔を上げる。
しかし周囲を見渡したところで貴女の姿があるはずもない。
もしも貴女の姿があったとしたら、それは幻覚でしかない。
幻覚、でしかない。
幻覚、のはずだ。
「随分と酷い事を言うのね?」
「だって、君が此処に居るはずがないんだ」
「はずがない、ですって。私は此処に居るのに」
「……信じても良いのかい?」
「私が嘘をついた事があるかしら?」
「ああ……、そうだったね」
俺は目の前にいる貴女に手を伸ばした。
貴女はクスクスと笑いながら俺が伸ばした手を握った。
貴女の両手が俺の手を包むと、まるで全身が抱き締められたかのように温かくなる。
「大好きだ。愛してるよ。ヴェスナ」
「私もよ、……電話男さん」
「もっと呼んでみてくれ」
「電話男さん?」
「ああ、いいね」
貴女の声は間違いなく貴女の声だ。
俺が貴女の声を聞き間違えるはずがない。
それが幻覚と同じように幻聴だと言われようとも。
俺は確かに貴女が見えていて、貴女の身に触れる事ができて、貴女の声が聞こえる。
ならば、どこかリアルでどこかリアルではないなどといちいち考えるのも無意味。
貴女が目の前で笑っている。
俺はそれだけで満足だ。
「記者女さん。ヴェスナ。愛しているよ。ずっと。変わらないから。安心して。俺には、君だけなんだ」
「今日は随分と甘ったるい愛を囁いてくれるのね。何かあったの?」
「ああ。悪夢を見ていたものだから。君が居なくなる悪夢だ」
「夢見が悪かったのね」
貴女が笑いながら俺にすり寄ってくれる。
恐る恐る彼女を抱き締めると、ああ、何を恐れる必要があったのだろう。
貴女はこんなにも温かくて、確かに此処に居てくれるのに。
「離れないでくれよ」
「離れませんとも」
おかしい。
おかしくない。
君は此処に居る。
君は此処に居ない。
彼女は死んだ。
彼女は死んでない。
「ヴェスナ」
貴女は俺が殺したはずだ。
けれど、貴女は此処に居るのだ。
「ヴェスナ」
「……ええ、ええ。分かってますとも。貴方はまだ、覚めたくないのね?」
これは幻覚なのだ。
これは幻聴なのだ。
俺には貴女が存在している事を知っているけれど、それが嘘だという事も知っている。
「まだ夢を見ててもいいかな?」
「どうぞ。まだまだ時間はあるわ」
いいや。
いいや。
嘘な訳があるか。
貴女が此処に居るのは、幻なんかじゃない。
「私は此処に居るから、安心しておやすみなさい。電話男さん」
目が覚めれば、どうせ貴女は此処に居ないのだ。
バビロンの災厄
(貴女が居る幸せな夢が現実で、)
(貴女が居ない苦しい現実が只の悪夢)
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