いい歳をしてウブな彼女は、俺にとって心臓に悪い。
いいや……、いい歳をしてウブだからこそ、なのかもしれない。
恋愛という経験が皆無な彼女……ヴェスナ・ラプティスは、幼稚な愛の言葉には顔を赤くさせ、挨拶のような触れ合いには怯えたように体を震わせる。
そんなところがまた愛しくて、からかってやりたくなる。
しかし、いつもそうだとは限らないのだ。
経験も糞もない彼女は、何を仕出かすか俺ですら分からない時がある。
「電話男さん、電話男さん!」
にこにこと明るい笑顔を浮かべている時は、基本的にふたつの思惑がある。
外面を良くしようとして気張っているか、本当に嬉しい事があったか。
これは……、きっと前者だろうか。
後者にしてはあまりに不自然に笑顔過ぎる。
とりあえずで作った笑顔……、というのが的を射ているのではないだろうか。
そしてこの笑顔を俺に向けているという事は、気張っている訳ではなく、むしろ、……じゃれてこようとする。
そんな傾向があった。
「何だ?どうかした?」
何か仕出かして、俺を驚かすつもりだろう。
そう思って、構える。
何が来ようとも、俺は動じない。
そんな心意気で。
しかし、俺のそんな構えも彼女の一言には歯が立たなかった。
「愛してるわ」
鈍器で後頭部を殴られたかのような衝撃。
前頭葉を噛み砕かれたかのような衝撃。
俺の背後では稲妻が走り、俺はその電流によって体の動きを封じられ、固まって、凍りつく……、全て同じ意味だ。
「どう?吃驚した?」
彼女は笑っている。
クスクスと、いつものように。
その無邪気な笑顔はまるで天真爛漫な子供のようで、俺と同い年だとはとても思えない。
「……」
「?……ちょっと?電話男さん?」
固まり、黙り込んでいる俺に、彼女は不思議そうな表情を浮かべながら首を傾げた。
きょとん、という効果音が似合う。
それに俺は、頭を抱え込んで膝をつきたくなった。
「ねぇ、大丈夫?」
「……大丈夫な訳あるか……」
俺は自分自身を落ち着かせる為に一旦呼吸を吐き出してみる。
しかし、それで落ち着ける訳もなく、言葉を吐き出そうものならどうも詰まってしまう。
思いの外、俺は動揺している。
「急にどうしたんだ、愛してる……なんて……。いや、その、君の柄じゃないだろう……」
「そう?」
「そうだよ」
「じゃあ……、大好き、よ……?」
こてんと首を傾げながら変わる愛の言葉。
その仕草もその言葉もその声も、その戸惑ったように揺れた瞳も全てが心臓に悪いと思った。
彼女は俺に、どうしようもなく愛しいと、何度思わせれば気が済むのだろうか。
「違う、違う。いや、そうじゃない。そうだけどそうじゃない」
俺は熱が顔に集まるのを感じながら、俺は彼女の両肩を掴んだ。
これ以上心臓に悪い事を言わないでほしいししてもらいたくない、という意図での行動だった。
「電話男さん、顔が赤いけど」
「君のせいだよ!」
突然の大声に、彼女は驚いたように目を大きく見開いた。
そんな事はお構いなしに、俺は続ける。
彼女が俺の気も知らずに好き勝手言ってくれるのなら、俺も好き勝手に言わせてもらうつもりだ。
「君って、恥ずかしがり屋だから普段そんな事言わないだろ?具合でも悪いのか?酔ってるのか?それとも、今日は何か特別な日だったっけ……、何かあったか?」
「何よ、それは。失礼ね。確かに貴方の言う通りなんだけど、そこまで普通じゃないみたく言われるのは心外よ」
「だって君らしくないからさ!君はもっと、こう……言葉に詰まる感じだ。愛を囁こうとするものなら戸惑いながら目を泳がせるし、愛を囁かれようものなら真っ赤になりながらそっぽを向く。君ってそういうもんだろ……」
彼女に愛を告白したその日からの事を思い出しながら、俺は言った。
そうだ、俺の愛の言葉に対して彼女はいちいち面白いくらいの反応を残してくれる。
耳元で名前を呼んだだけで肩を震わせるのも、好意を伝えてくれようとして分かりやすく恥ずかしがるのも、何て愛らしいことか。
まるで思春期の生娘……、……もしかしたら今時の子供の方がもっと大胆かもしれないというのに。
「……それって若干貴方の理想入ってない?」
「否定はしないけど間違ってはないはずだ」
そう、間違っていない。
それって嘘だろうと思ってしまうような純愛小説やら純愛映画やらに出てくる反応を彼女は期待を裏切らずにやってくれる。
俺と恋人関係になってから、それは僅かに軽減された……、というだけの話。
「でも、それこそ心外よ……。今が恥ずかしくないとでも思ってる?」
彼女が少しだけ寂しそうに表情を暗くさせ、俯いた。
俺より背の低い彼女が俯けば、彼女の頭部がよく見える。
そして、髪の隙間から覗く、本来肌色であるべきはずの耳も、よく見えた。
「……、言われてみれば、耳真っ赤だな?」
「……言わないで」
指摘された事が更に恥ずかしさを煽ったのか、彼女は両耳を両手で包むように隠す。
そして、おそるおそる俺の反応を窺ってきた。
ちらっとだけこちらを見つめる瞳は、良くも悪くも、俺と二人きりでいる時の彼女の瞳だ。
「その、貴方って……、いつも私に愛を伝えてくれるでしょう?言葉にしろ、行動にしろ。私はそれを黙って受け続けているけれど、本当にそれでいいのかなって……思っちゃって……」
「どういう事だ?」
「……っ、た、たまには……正直になってみようって思ったの……、いつも真っ直ぐに愛を伝えてくれる貴方みたいに、私も真っ直ぐに愛を伝えてみたくなって……」
ゆらゆらと不安げに揺れている青い瞳。
それが俺に優越感をもたらす。
彼女がこんな瞳をするのは、俺の前だけだ。
「……い、嫌だった……?」
トドメを刺すかのように、追い討ちをかけるように、不安そうに尋ねられる言葉。
俺はそれに深く息をつきながら返答してやる。
「……嫌な訳ないだろう」
まったくどうしようもない。
彼女って、本当に。
たまらない。
「でも、ため息ついてるじゃないっ」
俺が息をついた事に不安になりつつ、勢いに任せて言葉を吐いているのもまた良い。
君は俺という人間を分かっちゃいないが、どうすれば俺という人間が君にずぶずぶと溺れていくのかは分かっているみたいだ。
それも無意識なのだから、タチが悪いというかなんというか。
「拗ねるなよ。呆れてる訳じゃないさ。どうしようもないなって思っただけだ」
思った事をそのまま伝えてやると、彼女は明らかに傷付いた表情を浮かべた。
しかしそれを俺に悟らせないよう、一瞬の内には「そう……」だなんて呟いていつも通りを健気にも見せてくる彼女は、何と言えば良いのだろうか。
俺の感情はあまりにも単純で明快で、変化すらないのだが、何回言っても足りないなと思う。
たまらない。
どうしようもない。
彼女の事が、ヴェスナの事が、好き過ぎておかしくなってしまいそうだ。
「君が好き過ぎて、どうしようもない。なぁ、これ以上俺に君を好きにならせてどうするつもりだ?俺をどうしたいんだよ?」
種明かしの愛の囁きに、彼女は目を見開いて驚いた。
素直に喜ぶ姿を見せられても嬉しいが、純粋に驚いている姿というのも見ていて悪いものではないと感じる。
「よ、よくもそんな恥ずかしい事をそんな顔で……っ!っていうか!近いわ!顔!ち、近っ……!!」
「ええーっ?」
俺は彼女の顔に自分の顔を近づけていく。
当然彼女は逃げようとするが、もちろん逃がす訳はない。
彼女の背中に自分の両腕を回し、やんわりと抱き締める。
すると、俺の体を押し返そうと彼女は両の手のひらの力を込めてくるが、力の差なんて歴然だった。
男と女の差は、こういうところで分かりやすく出てしまう。
「は、離れて……!」
「離れていいのか?」
「い、一旦……!」
「一旦?」
「心の準備が……っ、貴方のその顔も、その声も、心臓に悪いのよ!」
俺の腕の中で暴れようとして、それすら叶わない彼女は軽く混乱状態に陥っていた。
やはり、こういった触れ合いには馴れていないからだろう。
それを喜ばしいと思いつつも、無理をさせる訳にもいかなかった。
あまり調子に乗って彼女に触れ続けていると、本気で気絶しかねない。
「その言葉そのまま返させてもらうよ」
俺がため息をつくと、彼女の動きがぴたりと止まる。
不安そうに俺を見上げてくる彼女に、俺は優しく微笑んでやった。
「君からの愛してるなんて。俺、夢でも見てるのかと思った」
「夢じゃないわ」
「知ってる。現実だ。幸せな夢でも悪夢でもない、ただ幸せな現実だ」
俺は自分の腕の中から彼女を解放した。
てっきり、解放された瞬間にでも彼女は俺と距離を置いて安全地帯を勝ち取るかと思ったが……そうでもないらしい。
動く事はなく、俺の隣に大人しく座り込んでいる。
「まったく……、心臓に悪いよ」
逃げないのならば、俺はそこに漬け込んでやるような悪人だった。
彼女の不安な思いや戸惑う気持ちなどはお構いなしに、自分がしたいように彼女に触れる。
でも、まあ、あまり刺激が強すぎては彼女の身が持たないだろうから、頭を撫でる程度にしておいた。
「……電話男さん」
「ん?何?記者女さん」
彼女の頭部を撫で回していた俺の手は、そのまま彼女の頬へと移動した。
彼女の頬は、微かに熱い。
熱がある訳じゃないだろう。
きっと、恥ずかしがっているのだ。
俺に触れられても何も言わずに、ただ真っ直ぐ俺を見つめている彼女。
その口元は、少しだけ震えている。
「貴方の事……、好きよ……。大好きなの……」
震えた唇が紡いだ言葉は、幼稚な愛情の言葉だった。
しかし、俺にとってしてみれば、彼女にしてみたって、これは尊いし、重い言葉だ。
「俺もだよ。君が好き。大好きだ」
あえて愛しているという言葉は使わなかった。
幼稚な彼女には、幼稚で、同時に分かりやすい言葉の方が良いだろう。
俺も、なんとなくこちらの方が好きになりつつある。
「……良かった」
俺の言葉に対して、彼女の返答はそれだった。
「……ん?……良かった?」
「えっ、あっ、……聞こえた?」
特に咎めるつもりはない。
そもそも、良かったという言葉の意味が分からない。
俺は純粋に気になっただけだった。
とても安心したように呟く、不安げな彼女のその一言が。
「良かったって、何だ?」
「た、大した事じゃないわ」
「大した事じゃないなら言えるだろ?……ほら、言って?」
「……その、……えっと、ね」
「うん?」
不安げな彼女は俯きがちに、しかし、俺に言葉を返す時には、真っ直ぐにこちらを向いて。
彼女は言った。
「貴方も、私の事、好きで良かったって」
ふわりと、微笑んだ。
「あっ、別に!別に、貴方の事を疑ってるとか、そういう事はないのよ、本当に。ただ私……どうしても自分に自信なんて持てないから……、私自身が誰かに愛されてる自信がないというか……!だから、ちょっと照れちゃうんだけど……、貴方が私の事を好きって言ってくれるの、本当に、……嬉しいの」
背後から、鈍器で殴られたような衝撃が、再び。
けれど、先ほどとは明らかに違った。
なんというか、彼女がじゃなくて、俺自身が。
「……なぁ、好き」
何かが外れて、馬鹿になってしまったようだ。
「私、も……」
彼女はそれに気が付いていない。
まったく、君は厄介な男に引っ掛かっちゃったな。
「好き。好き。好き。好き。好きだ、ヴェスナ」
彼女をやんわりと抱き締めながら、俺はその耳元に囁いてやった。
何度も何度も、しつこく好意を囁く。
「ちょ、ちょっと……」
「すき……だぜ?」
甘く蕩けるように。
そうすれば、彼女の瞳もとろんと蕩けてしまう。
分かりやすい。
「君が分かってくれるまで、何度でも言ってあげる。大好きだ」
わざと意地悪っぽく言ってみせれば、彼女はハッと正気を取り戻した。
このまま、俺のペースに持ち込まれるのは危険だと判断したのだろう。
さすが、そのあたりは俺の君。
「わ、分かったわ……電話男さん……!だから……!」
「本当にぃ?」
「ほ、ほんと……!」
「好きだよ、ヴェスナ」
「も、もういいわよ……!」
だから早く離してと声音と行動で示す彼女に、俺はくつくつと笑い、再び抱きすくめた。
「それじゃあ、記者女さん?」
耳元で、低音で囁く。
彼女が、びくりと震える。
「もう一回。俺の事、愛してるって言ってごらんよ」
それを、彼女は何と受け止めただろう。
意地悪な人?狡い人?
……そんなの今更だ。
それに。
「……愛して、ます」
それに。
大人しく言う事を聞いてしまう君にも、問題はあるんだと思うよ。
「良く出来ました」
俺はそんな君が大好きだし、問題ないけれど。
心臓に悪い事は止めていただきたいと、切に願う。
狭シンドローム
(君によって心臓がおかしくなる)
(君によって俺は生かされている)
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